寝巻きらしいその服は所々傷んだ様子だった。長さもバラバラで不規則に跳ねていて、髪も大分酷い。顔は真っ青で息が今にも止まりそうなほど浅い呼吸をしていた。辛うじて生きているという感じだ。
「おい大丈夫か!」
仲間がいるようにも思えない、もしかして本当に住んでいた母娘の片方なのか。話に聞いたような善良な人間であったら、ここで見殺しにするのは惨いだろう。ともかくここから移動させて病院にでも連れていかねばと思って手を伸ばすと、微かな声で何か言っているのが聞こえた。
「なんだ、何か言ったか?とりあえず病院に行こう。立てそうにもないんだろう、すまないが俺が運ばせてもらうぞ。」
よく聞こえなかったが、一刻をも争いそうだ。もはや死にかけている。抱きあげようともう一度手を伸ばす。
だがしかし、寸でのところで、弱っているとは思えないような厳しい声でピシャリと拒絶が言い放たれた。
「触らないで。」
「そんな訳にも行かない、君は今大分危ない状況だ。さあ、」
「私に、触らないで…。」
"お願い、"と付け足されるように、先程とは打って変わって懇願するような弱々しい声で言われ、つい手がひっこむ。しかし何もしない訳にも行かない。せめて救急車でも呼ぼうと思うが、その間にくたばられたらたまらない。あの老爺にも顔が立たない。
それとも彼女は、死にたいのか。死にたいと希望するものを放っておくことは時として大事なことかもしれない。そんな人にも理由があるのだ。俺が助けてしまって、生きていた方がよっぽど辛いことでもあるのかもしれない。
でもそれは、彼女が死にたい場合のみのことである。
生きたいのなら。生きたいのなら手を貸すべきだ。助けるべきだ。
「君は死にたいのか。」
フルフルと頭を振る。床に頭をつけたまま振ったためか髪の揺れる音が微かにした。
「なら俺は助けたい。何か出来ることはあるか、救急車を呼ぶ間に死なれては困るんだ。」
「みず…。」
「なんだ?すまない、聞こえなかった。もう一度頼む。」
「おみずが…ほしい。れいぞうこ、」
よく聞くと声が掠れていることに気づく。"わかった。"と返事をして直ぐにあの悪臭の籠るキッチンへ行く。
こんな環境で電気も水も止められているのに、ぬるい水でいいのかと一応冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターのペットボトルが何本か入っていた。隣に個包装されたストローもあったので、それぞれ2本ほど取って再び寝室へ戻る。
「ほら、水だ。」
触れられたくないようなのでキャップを開けてストローをさし床に置くと、弱々しく伸ばされた手がペットボトルの下の方を包むように握り、もう片腕で体を支えるようにして重たそうに頭を持ち上げ、ストローに口をつけた。その時も手伝おうかと声をかけたら「やめて」と断られ、そんなに触れられたくないものかとこちらも面食らう。一つ一つの行動で骨が折れてしまうんじゃないかと言うほど力がない様で、こちらも困惑しながら見守る。
しかし一息もつかずあっという間に1本が飲み干されてしまった。脱水症状にでもなっていたのかもしれない。もう一本を開けて新しいストローをさして渡してやると、それも同じようにしてごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。
「他になにかやることはあるか?」
「てぶくろが、いるの。」
「手袋?」
手袋。なんだってそんなものが。
聞き間違えかと聞き返すと、目も見えないほど長くなった前髪が揺れた。…あっているのか。
それもキッチンかと聞き返すと再び肯定される。またあの悪臭空間に足を踏み入れるとは。
手袋はすぐ見つかった。食卓テーブルの上に箱ごとゴム手袋が置いてあったからだ。取ってみるとわかったが長手袋と同じくらいの長さで少々驚いた。使い捨てらしく薄かったがこんなものを何に使うのか。
念の為もう一本水をとってから、偶然ポケットにキャンディが入っていたのに気づいた。先日町で顔見知りの老婆から貰ったものである。
「これで良かったか?」
手袋を渡すと、彼女は礼を言ってパチリと音をさせながら両手にはめていった。ボロボロの寝巻きにゴム手袋なんて奇妙な格好だ。
床に転がるペットボトルの数が増えていたから、持ってきたもう一本とキャンディも渡すと、微かに"グラッツェ"と聞こえた。先ほどより聞こえる声量にほっと一息をつく。