羊のあくび


『急で悪いのだけれど、学校が終わったら私のところに来てもらえるかな?』

今日は皆がため息をつく月一の土曜授業の日。
授業自体は昼までで終わるが、友達と遊びたい盛りのこの年頃には不満で仕方がない。だってこれがなければ二日休みだったんだもんな。遊ぶ予定は入っていなかったが、その気持ちはわからなくもない。
クラス中が『やっと終わる』という話ばかりになる残り一時間の授業を控える休み時間、携帯電話でネット通販を見ていたら寂雷さんからそんなメッセージが届いた。もちろん了解した旨を返信する。同時に休み時間の終了を告げる鐘がなって、この学校の中でも厳しいと生徒間で囁かれる先生が教室に入ってきた。前の授業から突っ伏して眠りこけている隣のヤンキーを起こす。



イケブクロとシンジュクは隣同士のディビジョンだし、寂雷さんの勤めている病院は大きいので駅からバスも出ているし徒歩でも余裕で向かえるので、行くことに関して全く苦ではない。むしろ寂雷さんにはお世話になっている身なので頼りにしてもらえるのは非常にうれしいので、こうやって呼ばれたときは絶対に行く。
自動ドアが開いて足を踏み入れれば病院独特のにおいが鼻をくすぐった。事務員さんがきれいに拭いている床は電気を反射していて、受付前では今日もいろいろな人が診療や面会に来ている。本来診療にかかる人たちはタッチパネル式のコンピューターで該当する受付を終えて、そこから出される番号の書かれた紙をもらうのだが、もちろん私はそこを素通りして念のためにいる受付の看護師さんの元へ向かった。寂雷さんの名前と自分の名前を言えば、すでに伝達はしてあるらしく寂雷さんのもとへ案内される。とある診察室で寂雷さんは待っているらしい。
診察室は使用中のライトがついていて、患者さんがもう中で寂雷さんとお話ししているらしかった。看護師さんが扉をノックして『失礼します』と扉を開け、私が来た旨を伝える。
『どうぞ』と中へ通された室内には、いつも通りやさしく微笑んで私を迎え入れる寂雷さんと、見知らぬ女子高校生に少し驚いたような、警戒の色を見せる男性がいた。その顔は初めて見る自分でもわかるほどに疲れきっていて、目の下には酷い隈があった。

「先生、この方は・・・。」
「訳あって私と暮らしている友人の娘だよ。」
「初めまして、苗字名前です。イケブクロの高校に通っています。」
「は、はじめまして・・・か、観音坂独歩です。医療機器メーカーで働いています。」
「名前には君の治療を手伝ってもらおうかと思って、今回呼んだんだ。」
「えっ?」

突然のことを言う寂雷さんに対して、半目立った目を大きく開いて驚きの声を出す男性。ここに来る途中のメッセージで私は聞いていたが、彼には言っていなかったのだろうか?

「おや、君には承諾を得たつもりだったんだが・・・。」
「だ、だってこんな、若い子が来るとは思ってなくて、」
「うん、でも名前の腕は確かだから安心していいよ。彼女でも効き目がなかったらまた別の方法を考えよう。」
「・・・は、はい・・・。」

絞り出すような了承を聞いた後、寂雷さんは私にも座るよう言って、患者さんのことについて話し始めた。
数週間前から、寝むれなくなっているらしい。眠りについてもすぐ目が覚めてしまい、これはやばいと病院に来て寂雷さんにかかったのが始まりだ。最初は処方される薬も効いていたが最近は全く聞かず、ベッドで横になっても完全に眠れない、と。座り込んでやっと睡眠に堕ちることができる、と観音坂さん自身の口から言葉がこぼれた。彼が務めているのはいわゆるブラック企業というやつで、激務と上司からのストレスが原因ではないかと思われるそうだ。なんていうか、かわいそうだな・・・と思ってしまった。やめたら?と言いたくても彼の様子からするにあまり明るい性格ではない様に見えるし。自分で説明している間に何か地雷ワードを自分で言ったらしく、こちらが面食らうほどにネガティブな言葉をぶつくさつぶやき続けているのも目にした。寂雷さんの一言で止まったが、普段彼はどうしているのだろうと不安になってしまった。生きづらそうな人だな。ネガティブタイムのとき『だから俺は友達がいない』とか言ってたし、周りに人が来ないのかとも思った。今は隈も表情も死んでいてひどいが、それがなくなればきれいな顔をしてそうだというのに。

「もう一度君には説明しておくね。名前はヒプノシスマイクを持っていて、その効力で君の不眠症を治していこうと思う。今日は試しに聞いてみて、眠くなったらそのまま寝ていくといいよ。病院のほうには話を通してあるからね。」
「寂雷さんからはとっくに聞いているかもしれないんですけど、私からも一言。私のマイクは攻撃面での力はなくて、人を倒すための仕組みは組み込まれていません。その代わり相手の睡眠欲を誘発するようにできていて、痛みもないし悪い夢を見せるとかいう効力もないです。強制的にいきなり意識を落とすものでもなくて、睡眠を促す感じで・・・なんていうんでしょう、すっごい眠くなるんです。なので起きた時も寝た感があるって声が多いです。」
「は、はあ・・・成程・・・。」

リュックからマイクを取り出したときは『本当に持ってるんだ。』なんて声も頂いたが、寂雷さんと私の説明を受けて果たして効果はあるのか疑ってはいたけど頷いてはくれた。ただ診察室で眠るわけにもいかないので、そういう、“いきなり倒れて点滴だけ受ける人“とか一日も病院にいない人用の病室に移動した。マイクを使うので他の人に効果がないよう、多床室であれどまだ誰もいない部屋だ。
寂雷さんにあらかじめ言われてもってきたであろうパジャマに着替えてもらい、カーテンも照明も落とす。まだ昼間だからそれでも明るいといえば明るいが、診察室よりは暗い。
遠慮がちにベッドに入って寝る体制をとる観音坂さん。ベッドサイドの椅子に私はマイクをもって座っていて、寂雷さんはそのあともまだ患者さんがいるので見守ってからこの場を後にするらしい。

「目、瞑ったほうがいいですか?」
「どっちでもいいですよ、リラックスしてくれれば。始めてもよくなったら、言ってください。」

『うーん、うーん』と言いながらしばらく何かやりづらそうにしていたが、しばらくして『お願いします』と言われてマイクのスイッチを入れる。寂雷さんも仕事があるので念のため耳栓をしてもらった。
電源を入れたことで現れるスピーカーから、このマイク独特の音楽が流れ始める。一郎さんや左馬刻さんだったら攻撃的な、爆発するかのような音楽が流れるし、寂雷さんやラムダであれば、頭を揺らされるようなグルグルとした音楽が流れる。私のマイクはしいて言うなら後者タイプだが、さっきも観音坂さんに説明したように攻撃用ではない。耳にスルっと入って、ぽわぽわしてくるような感じ、と以前私のリリックを聞いた一郎さんに言われた。次第に体の芯がポカポカしてきて、ちょうど眠い時みたいになるらしい。私は自分のマイクだからわからないが、このマイクを使ったときは大体相手は眠りにつくのだからそうなのだろう。

「ん、何か・・・不思議な感じが・・・。」

観音坂さんのその小さな呟きは耳栓をしているから聞こえなかっただろう、しかしお医者さんだから患者の様子の変化にはやはり鋭いらしく、寂雷さんは私に一言『それじゃあ、またあとで見に来るね。』と言って部屋を出て行った。
しかし驚いたな、普通だったらもうとっくに熟睡しているほど長くリリックを聞かせているのに、今になってやっと効果が出始めたとは。観音坂さん、超ド級のネガティブな性格かと思っていたけど、案外精神は強いのかもしれない・・・。



私もさすがに喉が渇くので途中休憩をこまめに挟んだが、始めて30分近く経ってからやっと観音坂さんは気持ちよさそうに寝息を立て始めた。念のため10分ほどそれからもリリックを刻んでたが目覚める様子はない。そっと枕もとのナースコールを押すと、寂雷さんが静かに入ってきた。眠りに堕ちた彼の様子を見て、『ありがとう』と頭をなでてくれた。”目覚めたらナースコールを押してください”と書いた紙を立つように折って、サイドテーブルに置いて二人で病室を出る。

普段は看護師さんや他の医療従事者さんたちも使う相談室(まあいわば小さめのミーティングルームだ)で、寂雷さんがいなくなった後の観音坂さんの様子や、どれくらい時間がかかったか、意外と精神力があるのかも、なんて話をして私は家に帰った。先に夕飯を食べていると、彼が目覚めたことと、お礼を代弁するメッセージが来た。『久しぶりにしっかりとした睡眠をとることができた、ありがとうございます。』という内容だ。私もうれしい。
しかしこれは私がついていたから眠れたようなもので、家では眠れないから意味がないらしい。寂雷さんの提案で私のラップを録音したのを聞くのはどうか、というものが出た。恥ずかしいから私からの返答は濁したものの、観音坂さんは所望する返答をしたらしい。初めての体験だな。でも寂雷さんの『君への依頼だよ。』という一言に負けてしまった。大人しくスケジュールに”録音日”と次週に書き込む。