001

 春の陽気が瞼に淡いベールをかぶせ、今見ている景色が夢の中のように感じる。亜麻色の髪が日に透けて、糸を引いた蜂蜜のように1本1本がきらきらと光っている。そこへ白い指が伸びてきて、つっと髪をかき分け、滑らかな白いうなじがあらわになる。そこに手を伸ばす想像をして、ふと、これは現実だと思いだした。
 遠野小夜。遠い、遠いところの、本当に存在するかもわからない、理想郷のような女の子。


視 線


 現国のノートを教室に忘れてきたことに気づいたのは、練習が終わって、夜、ひとりで机に向かった時だった。いつもならしょうがないですませるが、明日は小テストがある。仕方なく部屋を出ると純さんがいて、挨拶をして校舎の方に向かおうとすると、どこへ行くんだと不思議そうに聞かれた。事情を話すとちょっとからかわれて、それからちょっとだけ同情的に言われた。
「もう閉まってんじゃねーのかぁ?」
「はは、ですね。でも、行くだけ行ってみます」
 そう返すと、純さんはそれ以上何も言わなかった。
校舎のグラウンド側の出入り口はやはり封鎖されていた。仕方なく正門側に回ると、電気がついている教室があった。自分の教室だ。安心して、昇降口の扉を引くと、重たい手ごたえがあって音もなく開いた。
 真っ暗な校舎内はどことなく異質で、俺は足早に階段を駆け上がった。教室がある廊下まで来ると、教室の前の一点だけにこうこうと明かりが漏れ出ていた。クラスの奴がまだ残っているのかと考えながらそこへ向かうと、その静けさのあまりドアを開けるのを少し躊躇って、そっと窓から中を覗き込んだ。
 窓際の席に、俯せている女子生徒が、ひとりだけいた。俺の席の前のその席は、遠野小夜だった。
 少し迷って、息を殺して、そっと引き戸を開けた。がら、がら、と低い音が、暗い廊下に嫌に響いた。そして遠野は、ぴくりと身じろぎした。
 ぎくりとしながらも、目を離せなかった。遠野は俯き気味に顔を上げ、ゆっくりとこちらを見た。その大きな茶色い瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「……え」
 思わず声がもれて、同時に顔中に熱が広がった。遠野はぱっと顔を背け、小さく鼻を啜った。彼女の後ろが自分の席なのだが、非常に行き辛い。何か声をかけるべきか、何も見なかったふりで立ち去るべきか。いずれにしても現国のノートは手に入れたい…。
 立ち尽くしていると、遠野は急に立ち上がって、荷物をまとめ始めた。その隙に俺も自分の席へ行き、現国のノートを机から抜き出した。それでもなんとなく気になって遠野を見ると、スクールバッグを肩に提げて椅子を仕舞い、俺を避けるように教室から出て行こうとした。
 その時だった。キュッ、キュッ、とリノリウムの床をスニーカーのゴム底が擦る独特の音が廊下から響いてきた。遠野は教室の入り口付近でぴたりと止まり、どうやら耳を澄まして様子を伺っているようだった。すると足音に交じって、低い声で鼻歌のようなものが響いてきた。抑揚のない、いやに不気味な声だった。
 それを聞くや否や、遠野はそばにあった掃除用具入れのロッカーを開き、中に入った。ロッカーが閉まると同時に、ぬっ、と教室の引き戸の窓に、何者かの顔が写りこんだ。薄暗くてよく見えなかったが、中年の男のようだった。多分、教師ではない。俺の知らない人物だった。男は教室内を見渡すと、また、キュッキュッと音をさせながら去って行った。キィ、と音がして、遠野がロッカーから出てきた。
「…今の誰?」
 さすがに、俺はそう声に出した。遠野は俺を見て、廊下の様子を伺って、それからまた俺を見た。
「…知らない。最近、待ち伏せされたり、つけられたりするの」
「ストーカーかよ?」
 ひそひそ声で叫ぶと、遠野は黙り込んだ。
「校舎内まで来るなんて異常だぞ。先生に言おう。つーか、警察とかは?行ったのか?」
 そう言うと、遠野は少し黙って、それから鬱陶しそうに眉を寄せた。
「……やめて」
「は?」
「私にだって事情があるの。ほっといて。」
 あまりにも突き放した物言いに呆然としていると、遠野はさっさと踵を返して教室を出て行った。俺は急いでその後を追った。
 さっきの奴がいるかもしれないから、俺も遠野も息を殺して足音を忍ばせて廊下を進み、校舎を出た。
 寮へ戻る俺はグラウンド方面へ。おそらく帰宅する遠野は正門方面へ。しかし、遠野がまた、急に足を止めた。
「小夜ちゃん!」
 その声は真っ黒い道に鈍く響いた。しかし直後、その声は更に低くドスを含んで再び響き渡った。
「誰だテメエエエエエ!!!!」
 遠野が後ずさりした。それから俺を振り返って声を上げた。
「逃げ…!」
 言い終える前に、俺は遠野の手をつかんで走り出していた。後ろからドスドスと追ってくる足音が聞こえる。
「ちょっと……」
 俺がつかんでいる遠野の細い指が曲げられて、俺の手から逃れようとするのを、力づくでひっぱりながら校舎裏の方へ走っていく。寮が見えてきたが、ちょうどほとんどの奴らが風呂に行ってる時間帯のせいか人気はない。監督の所へ駆け込むのも一瞬考えたが、先ほどの遠野の言葉が頭をよぎり、目の前の用務倉庫の引き戸に手をかけた。引き戸は思いのほか軽い手ごたえで開いた。遠野をそこへ押し込み、自分も入って、引き戸を閉めた。
 擦りガラスの窓越しに、大きな人影が見えた。どきりとして後ずさった。すると背中に柔らかい衝撃があって、振り返り見ると間近に遠野がいて、別の意味で心臓が跳ねた。
 わるい、と声にならないくらい小さな声で言うと、遠野は返事のように瞼を伏せた。
 甘い香りがする。遠野の香りだ。
 いたたまれなくなって、俺は外の様子を伺うように引き戸に近寄った。
「…行ったみたいだな。監督……片岡先生呼んでくる。」
 そう言って引き戸に手をかけると、反対の腕を温かい手がつかんだ。
「待って。」
 不意を突かれたせいだ。心臓がひどく跳ねた。遠野をじっと見下ろすと、それが抗議の眼差しだと思ったのか、遠野はすがるような目で見つめ返してきた。
「お願い。行かないで…誰にも、言わないで。」
 それから、ダメ押しのように付け加えた。
「…何でもするから」
 一瞬でいろんなことが頭を駆け巡り、何かがこみあげてきて、たまらず遠野の手を振り払った。
「俺とあのストーカー野郎を一緒にすんじゃねぇよ」
 遠野ははっとして、それから申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめん。…ごめんなさい。そんなつもりじゃ、ないの」
 そうしてそれきり黙りこんだ。俺は何気なく行き場のなくなった視線を窓の方に向けた。そして叫びそうになった。黒い人影が窓にぴったりと張り付いて、中を覗こうとしていたのだ。俺はあわてて近くのデッキブラシで引き戸につっかえ棒をした。遠野もさすがに愕然としている。
 人影はしばらくすると離れていき、足音が遠ざかって行った。しかしまだ安心はできない。
「なあ、やっぱり片岡先生に……」
「だめ。」
 八方ふさがりだ。俺はため息交じりにそばに積んであったプラスチックケースに腰かけた。
「何で誰にも言いたくねーの?」
「それも言いたくない」
 遠野はそっけなく言って、スクールバッグをあさり始めた。そして何かを引っ張り出し、何でもないことのように言った。
「あっち向いてて。着替えるから。」
「はあ…?」
 どういうことだよと悪態づきながらも、俺は後ろを向いて座りなおした。間もなくして布が擦れる音が響き始める。なんという拷問だろう。膝の上で、ぎゅっ、と拳を握った。
「…なあ、まだ?」
 手持無沙汰になって何の気なしにそう言うと、遠野は案外あっさりと答えた。
「もういいよ。」
 そこでふりかえると、目の前の光景にカッと顔が熱くなった。ジャージ姿に着替えていた遠野は、上着の前をはだけさせ、白い下着と胸の膨らみが露わになっていたのだ。
「おい…!」
 咄嗟に手を翳して目をそらすと、遠野はファスナーを閉じながら言った。
「口止め。このこと誰かに話したら、あることないこと言いふらすから。」
「脅迫かよ……」
「外、誰かいる?」
 まったくお構いなしという様子の遠野に内心ため息をつきながら、俺はすぐ後ろの窓を少しだけ開けて外の様子を窺った。そこには人影もなく、ただ静かな風の音だけが響いている。
「誰もいねーみたいだな。」
「よし」
 遠野は呟いて、キャップに長い髪をまとめて仕舞いこんで被った。細い首が露わになったのもつかの間、さらにその上からジャージのフードを被り、黒縁の眼鏡をかけた。この準備の良さは一朝一夕ではできない。普段からこんな目に遭っているのだろう。
「じゃ、また明日。」
 先ほどまでストーカーに追い回されていたとは思えない態度で、遠野は倉庫の引き戸に手をかけた。
「あ。明日、話しかけてきたりしないでよ。変な噂されたくないから。」
「…はいはい」
 ぴしゃりと言って、遠野はようやく倉庫を出た。そして、振り向きもせずに帰って行った。
 遠野があんな奴だったとは。勝手な幻想を抱いていた身分でこんなことを思うのは忍びないが、それにしても想像とはかけ離れた奴だった。
 強引だし、無愛想だし、自分勝手だし…。
 でも…。遠野の胸、綺麗だったな。
 そう考えた頭を振り払い、俺は寮へと足早に帰った。

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