00.月満つれば則ち虧く

「ここにユージーン・ガラルドは居るか!?」

ユージーンの裁判があった日の翌朝。

診療所の片付けついでにアニーの様子を見に来ていたリュイは、扉を開けて入ってきた女ヤギのガジュマ――アガーテの乳母であり、教育係でもあるジルバ――と、彼女が発した言葉に片眉を上げた。

「……居るわけ無いやろ。何やねん急に」

「バルカ収容所から奴が姿を消した。王の盾のマオという少年兵が、脱走を手引きしたとの情報が入っている。お前はそのどちらとも交流があったな?」

「それで? 俺がここに匿っとるとでも思たんか? そんなわけ無いやろ。ここを何処やと思とんねん。被害者の職場兼自宅やぞ」

「灯台下暗しという言葉もあるだろう? 調べさせて貰うぞ」

「ちょお待ちぃや。診療所はええけど、家の方は遠慮してや。アニーちゃんが居んねん」

「アニー? ……ああ、ドクター・バースの娘か。良いだろう。流石に父親を殺した男を、家に匿ったりはしないだろうからな」

「それが分かっとるんやったら、わざわざここ調べる必要もあらへんやろ」

「彼女はともかく、お前は共犯の可能性が十分にあるのでな」

「……あっそ」

身の潔白を証明する気力も無いリュイは、片付けを中断してアニーの部屋へ。
先程のジルバの声は部屋まで聞こえていたようで、アニーは何かあったのかと不安げに問う。

「ユージーンが居らんなったんやって。そんで探しに来たんやと」

「居なくなった……って、どういう事ですか!? まさか、逃げたんですか!?」

「まあ、そういう事になるな」

アニーはそんな、と、元々悪かった顔色を殊更に悪くした。
力無くベッドに座り込んで、ブツブツと呟く。

「信じられない……父を殺しておいて……その上逃げるなんて……! 許せない……絶対に許さない……ユージーン・ガラルド……!!」

アニーの中に渦巻いていた悲しみが絶望に変わり、更にそれが憎しみになるのを、リュイはどうすることも出来ずに見ていた。

彼女は覚えていないのかもしれないが、バースが診療所で手術を行う時など、彼に代わってユージーンが幼いアニーの面倒を見ていた事もあった。
それがどうしてこんな風になってしまったのだろうと、リュイは当時を思い返して胸を痛める。

そんな彼に、診療所を調べ終えたジルバが声を掛ける。

「お前にはもう一つ別の用がある。姫様――アガーテ女王陛下からのご用命だ」

「……? アガーテ様が俺に何の用なん?」

「心して聞くがいい。――お前を、王室付きの医師として、迎え入れたいと仰っている」

「………………はぁ?」

突拍子もない話に、リュイの口からは素直にそんな感想が零れた。
ジルバは常に持ち歩いている教鞭で、己の掌を叩きながら続ける。

「先日亡くなったケビン・バース氏は、お前も知っての通り優秀な医者であり、ラドラス陛下の信頼も厚かった。お前がその助手として長年勤めてきたことを、姫様は高く評価しておられるのだ」

「はぁ……それで? 要は俺にドクターの後釜やれっちゅーこと?」

「そういう事だ。お前のような混ざり者が指名されることなど、本来ならば有り得ぬ話だ。これは大変名誉な事だぞ? 姫様の広いお心に感謝し、誠心誠意仕えることだ」

「いやまだ俺やるとも何とも言うてへんやん」

「これは既に決まったことだ。お前に拒否権は無い」

「……………………」

リュイは閉じた口を曲げて不平不満を表現したが、ジルバはそれを意にも介さず続ける。

「部屋は以前にバース氏が使っていたものがある。それをそのまま使うといい」

「さいで。まあええけど。住むとこ無くなって困ってたとこやし、丁度ええわ」

「宜しい。では準備が出来次第、速やかに登城するように」

要件を伝え終えると、ジルバは幾人かの兵を従えて足早に出て行った。
リュイは「塩でも撒いとこかな」と言いながら、開けっ放しになっている扉を閉める。

「リュイさん……城に行かれるんですか?」

「ああ、うん。なんかそういうことになったらしいわ。何でか知らんけど」

「そうですか……」

「でも、アニーちゃんには会いに来るからな。迷惑じゃなかったらやけど」

「迷惑だなんて……! 私、リュイさんが居てくれて本当に良かったです。私一人だけだったら、どうなっていたか……」

アニーには、バースが残した莫大な財産がある。
なので生活に困窮するような事は無いだろうが、彼女が言っているのはそういう事では無いのだろう。

リュイは小さな頭に手を乗せて、その不安を拭うように撫でる。

「何かあったらすぐ飛んでくるからな。約束や」

「……はい。有難うございます」

アニーはかつて同じように頭を撫でてくれた父の温もりを思い出しながら、儚げに笑った。






診療所を片付け終えて、アニーにも別れを告げた後。
城へ向かう前に、リュイはユージーンと住んでいた家に立ち寄っていた。

すっかり古くなった合鍵を使って扉を開けると、以前と変わらぬ部屋の景色が眼前に広がる。

まだそれほど時間は経っていないのに、ここで暮らしていた日々が、遠い昔のように感じた。
床や壁も、家財道具も、窓から見えるバルカの街並みも。全てに良き思い出が宿っている。

夢のような日々だった。
誰もいない部屋の中に居ると、本当に夢だったのではないかとも思えてくるが、ここに至るまでの歳月がそれを否定している。

(……楽しかったな。幸せやったわ、ほんまに)

ユージーンと出逢っていなければ。あのまま、ワン・ギンの商品として出荷されていたら。

今頃は何処かの邸宅で、奴隷として働いていたのだろうか。生きる意味を見出せないまま、死んだ顔をして生きていたのだろうか。
或いは、とっくに命を落としていただろうか。

(もしそうなってたら……まあ、不幸ではあるけど、こんな気持ちにはならんで済んだんやろうなぁ)


恋という感情を知ってしまった。
優しさと温もりを知ってしまった。
それを失う痛みを知ってしまった。


(俺、もうちょい強かった筈なんやけどなぁ……いつの間にこんな弱なってしもたんやろ…………)


どんな痛みにも、もうとっくの昔に慣れきってしまっていた筈なのに。

今のこの痛みは知らない。こんなにも苦しいものは知らない。


「ドクター……助けてやドクター……あの時みたいに、痛いの全部治して…………」

リュイは胸を押えて蹲り、一人リビングで啜り泣いた。
けれどどれだけ待っていても、傷を治してくれる優しい医者は、もう来てはくれなかった。
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