09.愁雲、血涙の雨
「……アル、アル! しっかりして、目を覚まして下さい!」暗く深い闇に沈んでいた意識を引き上げたのは、エステリーゼのそんな呼び声だった。
「エステリーゼ様……、――っ!?」
起き抜けに強烈な痛みに襲われて、アルノルドは顔を顰める。それによって、朧気だった意識は急速に覚醒へと至った。
「アル! ああ、動いちゃダメです! ごめんなさい、私の力と貴方の体のことを考えたら、治癒術は使えなくて……とにかくこれを食べて下さい!」
エステリーゼは安堵から焦りへと忙しなく表情を変えながら、寝転んだままのアルノルドの口にグミを押し付ける。それを咀嚼しながら、アルノルドは辺りを確認。
「ここは……?」
「ヘラクレスの中です。ほら、前にダングレストで見た……」
「ああ、あの移動要塞……って、そうじゃない、今はそれよりも――」
アルノルドはエステリーゼの全身を見て、その体にこれといった外傷が無いことに一先ずは安堵した。念の為に口頭でも確認して、傷付けられては居ないことを知る。
「アルが助けてくれたんですよね? 有難うございます」
「いえ……これじゃ助けたとは言えません。すみません、俺が傍に居ながらこんな……」
「そんなのアルのせいじゃありません! だってあれは――」
身を乗り出していたエステリーゼは、自分が今言おうとした言葉に、思い出してしまった悲しい現実に、声を震わせる。
「あれは……レイヴンが……」
「――――っ!!」
日頃エステリーゼの前では、何があろうと動揺を表に出さぬよう努めているアルノルドも、流石に今回ばかりはポーカーフェイスを保てなかった。
「アル、レイヴンについて何か知りませんか? あの時のレイヴンはいつもと様子が違いました。まるで、知らない別の誰かのように見えて……」
アルノルドがエステリーゼのその問いに答えるのには時間を要した。色んな感情が渦を巻いて、震えそうになる声をなんとか整えようとする。
「レイヴンさんは……ユーリ君達の前で見せていたあの姿は、仮のものだと言っていました。"レイヴン"はギルドに潜入する為のものでしかないと……」
「え? なら、レイヴンの本当の姿って何なんです?」
「……あの人は、帝国騎士団の隊長首席。人魔戦争の英雄で、俺の元上司でもあった、アレクセイの懐刀のシュヴァーン・オルトレインです」
――こんな形で、シュヴァーンの事を紹介などしたくは無かった。
何も知らない無垢なエステリーゼの瞳から逃げるように、アルノルドは悲痛な顔で無機質な部屋の壁を見る。
「……それ、アルはいつから知っていたんです?」
「……俺が気付いたのは、マンタイクでの騒動の後、べリウスとの面会の為にノードポリカへ戻ってきた頃です。……すみません、俺がもっと警戒しておくべきでした」
「……私は"シュヴァーンさん"の事はよく知りません。でも、貴方は危ない人を、そうと知りながら私の傍に置いておくような人じゃありません。いつだって、私の安全を一番に考えてくれる。だから……そんな貴方が私に彼の正体を隠していたのは、貴方も私と同じように、彼の事を信じていたからですよね?」
黙って頷くと、エステリーゼは横たわったままのアルノルドを優しく抱き締めた。
「なら、謝らないで下さい。今きっと、誰より傷付いているのは貴方の筈ですから」
その温かい肌と言葉に包まれたアルノルドは、潤んだ瞳から涙が零れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
いつから彼はこれを計画していたのだろう。いつから、自分やエステリーゼ達は騙されていたのだろう。
彼の言葉のどこまでが本当でどこまでが嘘だったのか、今のこの状況のどこまでが彼の思惑の中にあるのかすら、アルノルドにはわからなかった。
「……とにかく、ここを出ましょう。ユーリ君達のところへ帰らないと」
「そうですね、きっと皆心配してます」
エステリーゼの肩を借りて起き上がると、不意に部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、旅を始めてからもそれ以前にも何度も見た覚えのある、赤い団服の兵士――今やアレクセイの私兵とも言える親衛隊。
「……エステリーゼ様、アレクセイ閣下がお呼びです」
上司であるアルノルドを一瞥した兵士達は、しかし何も言わずエステリーゼにそう告げた。
指名されて怯える彼女を庇うように、アルノルドが両者の間に立つ。
「これ以上邪魔をされては困ります、アルノルド隊長」
「邪魔も何もこれが俺の仕事だ、お前らこそどういうつもりだ?」
「我々はアレクセイ騎士団長閣下のご命令に従っているまで」
有無を言わさずエステリーゼを連れて行こうとする兵士達に、アルノルドは剣を抜こうとしたが、その時初めて腰に何も差さっていない事に気付いた。
「武器は押収させて頂きました」
「……みたいだな。なら――」
アルノルドは周囲が丸腰に油断している内に、一番近くにいた兵の懐に入って、下から顎目掛けて掌底を突き出した。
上を向いた兵の腰の鞘から剣を引き抜くと、もう用はないとばかりに鎧の上から胸を蹴り飛ばす。
「なっ……、き、貴様!」
他の兵は慌ててアルノルドを取り押さえにかかったが、彼に向かっていった者達は次々と部屋の壁に叩きつけられていった。
「そ、そこまでだっ!」
流石に勝ち目がないと思ったのか、アルノルドが離れた隙にエステリーゼを捕らえた残りの兵士は、抜き身の刃を彼女の細首に添える。
「それ以上暴れるようなら、姫も無事では済まされんぞ!」
咆える兵士とエステリーゼを順に見たアルノルドは、沈黙の後口を開く。
「――そこまで落ちぶれたのか」
その立ち回りとは裏腹にやけに落ち着いたその声が、視線が、針のように兵士達に突き刺さった。
「親衛隊が何の為に在るものか言ってみろ」
「は?」
「答えろ」
有無を言わさぬアルノルドの気迫に、耐えかねた兵の一人が答える。
「……し、親衛隊とは、アレクセイ騎士団長閣下に付き従い、時に盾となり時に剣となり、その覇道の助けとなるべく、真の騎士として日々精進し」
「わかった、もういい」
最後まで言い切るのを待たず、アルノルドはその答弁を切って捨てた。
諦めと失望と、どこか憂いをも帯びた顔で、今一度小さく「もういい」と呟く。
「……エステリーゼ様、少しの間、目を瞑っていて頂けますか」
「え? は、はい」
エステリーゼが訳もわからず言われた通りにした瞬間、風切り音が鳴ったかと思うと、バタバタという音を立てて、彼女の周囲から人の気配が無くなった。
自分を捕らえていた腕の感触も、首の近くにあった刃の気配もない。すぐ側で聞こえていた人の息遣いさえ消えて、目を伏せたままのエステリーゼが困惑する。
「……アル? もういいです?」
「すみません、もう少しそのままで」
アルノルドはエステリーゼの手を引いて、開け放たれたままだった部屋の外へと誘導した。
扉が閉じる音がして漸く「もう大丈夫です」と言われたエステリーゼは、恐る恐る目を開ける。
「あの、今何を……?」
「気にしないで下さい、兵を倒しただけです」
倒した。そう告げる彼の服は、先程よりも汚れていた。
閉ざされた扉の向こうの静けさと、眉尻を下げて笑うアルノルドに、その言葉の指すところを理解したエステリーゼの表情が曇る。
「……ごめんなさい、私のせいで……」
「エステリーゼ様が謝る必要などありません。俺の方こそ、部下の非礼共々なんと詫びれば良いか」
「部下の……、そう言えば、アルは親衛隊の隊長でしたね。なら、尚更……」
どんどん下がっていくエステリーゼの視線とテンションに、アルノルドが困り顔で語る。
「特別親しかった訳でもありません。彼らにとって大事なのはアレクセイと、志を共にする仲間達だけですから」
「……アルは違うんです?」
「俺は彼らとは見えているものが違うでしょうから。親衛隊という組織に抱く想いも、守りたい大切なものも」
アルノルドは先のエステリーゼよろしく目を閉じた。瞼の裏に、沢山の懐かしい顔と情景が浮かぶ。
今の親衛隊に居る者は誰一人として、自分と同じものを見てはいない。それが酷く悲しくて虚しかった。
「……私は、叶うのならアルと同じものが見たいです」
瞼を上げた時、エステリーゼはもう俯いてはいなかった。いつもの穏やかな笑みを湛えて、アルノルドを見つめる。
アルノルドもまた、同じように微笑んで彼女を見た。
「……有難うございます。俺も、願わくばそう在りたいです。――少なくとも、親衛隊の本分を忘れるような愚か者にはなりたくありません」
「本分?」
「ええ、聡明なエステリーゼ様ならご存知かと」
エステリーゼは少し考えて、頭の中にある膨大な知識の中から適切なものを取り出して答える。
「"親衛隊とは、皇帝を守護する近衛兵の別名であり、皇帝の命によってのみその力を行使するものである"」
「流石、その通りです」
「でも今はその皇帝が不在ですよね?」
「ええ、ですが時期にそう呼ばれる事になるかもしれない方なら、今もいらっしゃいます」
エステリーゼはハッとして、先程なぜあのタイミングでアルノルドが兵士達にあの質問を投げかけたのかの意味を理解した。
「貴女と出会う前の俺なら、また違ったかもしれませんが……、少なくとも今は、この身この剣は貴女のものです、エステリーゼ様」
まるで騎士の叙任式の様に、跪き剣を掲げるアルノルドを見たエステリーゼは、クスリと笑ってそれに応じる。
「頼りにしています、アルノルド。貴方は、私にとって最高の騎士です」