01.其は脱兎の如く
自己を他人に説明することはとても簡単だ。身分証明、出生記録、住民票、学籍。
世には素性を明らかにするための情報や道具がいくらでもある。
だが、もしそれらが全て無くなってしまうことがあれば、自分とは何か≠どうやって他者に説明すればよいのだろう。
人ほどこの世に存在する理由が不確かなものはない。
物は生まれた時から何かしらの役割を与えられている。筆は書く為に作られ、時計は時を計るために作られる。
だが、人はそうではない。
ならば人はなぜ生まれ、何を成す為にそこに在るのか。
その命の価値とは、人生の意味とは何なのか。
それを確かめる為にも、私は────
「──私は旅に出ます。そのうち帰ってきますので、出来るなら、探さないで下さい……っと」
整理された大きめの卓上で、カリカリと音を立てていた万年筆がその役目を終えて置かれる。
最後に宛名と自分の名を添えて、綺麗に畳んだそれを人の目につきにくい、ただし見つけることはそう難しくないところに残して、筆者は席を立った。
何着も着こんだ服を脱いで引き出しにしまい、数日前密かに買っていた、隣に並ぶそれらに比べると明らかに見劣りする服に袖を通す。
指通りのよさそうな長い髪はそこらにあった髪留めで1つに纏め上げて、度の入っていない片眼鏡を着けて鏡の前に立った。
ぐるっと回って全身を確認した青年が、うーんと唸って一言。
「……まだ派手ですねぇ」
どうにも庶民的にならない己の外見にやきもきしながら、装飾品を三分の一にまで減らしてもう一度確認する。
こんなもんだろう、と少し妥協した部分もあるが納得はして、次に巨大な宝箱のような箱の鍵を外して中身を取り出した。
それは特注したボウガンに更に自分で手を加えて、強度、威力、装填数を上げた連弩だった。
名手と呼べるほど練習したわけではないが、一般兵相手の戦闘に困るほど素人なわけでもない。
重量をギリギリまで軽くして、本体を左太股に固定し、予備の弓は右太股に固定したホルダーに収納した。
少々邪魔になるが背中につけては取りづらくなるし、その分構えるのが遅くなる。実戦経験の少ない己が瞬発力で劣れば終わりだ。
準備が整うと、青年はドアノブに手をかけ、少し名残惜しい部屋を振り返った。
机の下、肌触りのいい絨毯の上にひっそりと置かれた手紙に見送られて、彼は外へと踏み出す。
残された手紙の封筒には、文面の最後に記された名と同じ名前が書かれていた。
育ちの良さが窺える綺麗な筆跡で、ラスヒィより≠ニ。
薄暗いだけの地下道を、申し訳程度の明かりを灯しながら進む。
火種が無かったので火の精霊術を発動し続けながら進んだのだが、今日はなぜか頻繁に火が消えたので、表に出るまでにかなり時間がかかった。
不安定な精霊術に疑問を覚えながらも、ようやく見えた外の明かりに一気に出口まで走る。
隠された扉を数センチほど開けて、その隙間から外を覗き見た。
地下道の先は学術研究所。日中なので当たり前だが、警備兵が施設内を巡回している。
見つからないように移動するにはどこをどう通ればいいか、頭の中で道順を何度もシュミレートして、意を決して飛び出した。
「いたぞ、侵入者だ!」
「いっ!?」
だが数歩走ったところでそんな声が上がって、危うく転びそうになった。
よろけたまま物陰に潜んではみたものの、こうなっては意味が無い気もする。
上昇していく心拍音を聞きながらゆっくりと顔を出してみた。
だが予想に反して、そこに押し寄せる兵の姿は無かった。
それどころか、人の姿が見当たらない。さっきまで点在していた兵も、何の気配もなく施設内は静まり返っている。
もしかしなくても、侵入者とは別の誰かだったのだろうか?
何だか良く分からないが、これはチャンスだと堂々と中央に出た。
そしてそのまま外へと繰り出し晴れて自由を掴む──筈だったのだが、直ぐに問題に直面した。
(……出口はどこなんでしょうか)
右に扉、左にも扉、前にも後ろにも上にも、扉があちこちに並んでいて、どれがどこに繋がっているのか全くわからない。
見取り図ぐらい持ってくれば良かったなどとしても仕方ない後悔をする。
こういう時は片っ端から開けていくのが確実だが、自分がよほど強運でなければハズレを引いてしまう。その度に兵とこんにちはを繰り返すのは流石に疲れる。
かといって家に取りに帰るわけにもいかないし……さて困ったと立ち往生していると、視界の端を何かが横切った。
兵だろうか? 一瞬すぎて、それが人間だろうということしかわからなかった。
何となく気になって、周囲を気にしながらも後をつけてみる。
どうやら一人ではないらしい。真面目そうな少年と対照的な派手な女性が、数人の兵に追われていた。
さっきの侵入者騒ぎは彼らのことだったのだろうか、同じ日に同じタイミングで潜り込むとは奇遇なことだ。
彼らについていけば出口がわかるかもしれないと、淡い期待を抱きながら更に奥へと進む。
そうしてしばらくすると、ある一室で二人は足を止めた。尾行していたラスヒィも、それに倣い柱の影に隠れる。
自分の前を走っていた兵たちは皆、二人に倒され床にのびていた。
そこから視線を上に運ぶと、大砲のような巨大な装置が聳え立っており、広い空間をそれ一つが占領していた。
見たこともないそれに驚きと感動を覚えているうちに、少年は装置の下にあるタッチパネルを慣れた手付きで叩き始める。
女性は何をするでもなく、数歩後ろで装置を眺めていた。
何をする気なのだろう、というより、果たして自分は出口に辿り着けるのか。
急いでいる訳ではないが、あまりのんびりしていると手紙を読んだ父が街を封鎖しかねない。
いや、流石にそこまではしないでも、連れ戻す為に街中の兵に連絡くらいはやりそうだ。
楽しい冒険が家から数キロと離れないうちにエンディングなんて、つまらなさすぎて話種にもならない。
出られる場所はないものかと、頭と目だけを動かして窓や扉を探していると、いきなり突風に襲われて、乱れ舞う自分の髪に視界を塞がれた。
「──やるぞ。人と精霊に害成すこれを破壊する!」
風の出所は先程の女性がいつの間にか展開していた魔方陣だった。
彼女の言葉に四色の光が何処からともなく現れ、装置の上で円形に並ぶ。
光──否、あれはただの光ではない。
その中に物影が映っている。あれは、まさか本で見た……
「四大精霊!?」
必死に目を凝らして捉えたそれは確かに、二十年前から人の前に姿を現さなくなったと言われている、高位な精霊たちだった。
使役しているのは、自分と歳もそう変わらないように見える先程の女性だ。
少年は自分と同じように目の前の光景に唖然として立ち尽くしているだけ。
その少年の背後に、今度は別の少女の姿が見えた。
怪我をしているのか苦しそうに立ち上がって、近くにあった操作板のボタンを叩くようにして押して、タッチパネルに指を滑らせて何かを起動させる。
するといきなり、あり得ないほどの疲労感に襲われた。
まるで長距離マラソンを終えた後のような倦怠感と息苦しさに膝をつく。
それは自分だけではなくその場に居た全員が感じているらしい、皆似たような姿勢になっている。
何かが吸いとられていく感覚、本能がこれはまずいと訴えていた。
『──お逃げ下さい』
脳に直接そんな言葉が入ってきた時には、それが何の声なのかと考える余裕も無くなっていた。
ひたすらにしんどい。逃げたくても足が、体が動かない。
誰でも良いですから、早く、この状況を何とかして下さい──
その願いが届いたかのように、女性が体を重そうに一歩、また一歩と装置に運ぶ。
彼女の伸ばした手が装置の動力源に触れると、突風で体が吹き飛ばされた。
もう何が何やら分からない。
床に落下した衝撃で体が痛む。しかも足場は崩壊寸前だ、どれだけの高さなのか、その下は見えなかった。
勝手に家を飛び出したことをこの時ばかりは後悔した。
必死に足場を掴んでいた手がついに疲労に負けて、先に落ちた二人の後を追うように、彼の体は重力に従って落ちていった。