01.其は脱兎の如く
どうやら、神は自分を殺す気はなかったらしい。落ちた先は池だった。水浸しになった服に不快感を感じながら、なんとか陸地に辿り着く。
待ちに待った外界なのに、いまいちテンションを上げられないのが残念でならなかった。
「……あの、大丈夫ですか?」
不意に背後から声がかかって、額に張り付く髪を掻き分けながら振り替える。
声の主は先程の少年で、水浸しのまま心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ではないですが、怪我はありませんよ。君こそ怪我が無いなら早く服を着替えた方が……」
「ジュード、それは誰だ?」
ジュードと呼ばれた少年は、今度は困った顔で女性の方を見た。
一方、やっぱり水浸しなその姿を見て、ラスヒィはそっと視線を逸らす。彼女は尚のこと早く着替えた方がいい。
「僕も知らない人だけど……ここでこんな状態になってるってことは、きっとさっきのに巻き込んじゃったんだよ」
「そうなのか? それはすまなかった。しかし何故あんな所に?」
「それは私も聞きたいですが……まぁ、秘密はお互い様という事で」
長い髪を絞って水をきり、モノクルについた水滴を服の袖で拭き取る。
しかし余計に水がついただけだったので、すぐに諦めた。
「──そんなことより、貴女の先程の術は凄かったですね! あれは召喚術ですか? 見たこともない美しい陣でした。装置を囲っていたのは四大精霊に見えたのですが、あれは貴女が? 四大の召喚は二十年前に不可能になったと聞いていましたが、もしかしてガセネタでしょうか? 人の噂はアテにならないものですね」
落ち着いたところで爆発した興味のままに気になっていたことを一息で言い切ると、女性はぱちくりと目をしばたかせて一歩退いた。
「……よ、よく喋るな君は」
「ああ、すみません。とても興味深かったもので。──そうだ、せっかくなので名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
「何がせっかくなのか分からないが……ミラだ、ミラ=マクスウェル」
「マクスウェル……あの大精霊と同じ名前ですね」
「ああ、本人だからな」
──さっきまでの騒がしさが嘘のように、橋下の水辺に静寂が訪れた。
ラスヒィは女性の言った意味がわからず笑顔のまま静止している。
「……なんだ、どうした?」
「あのねミラ、いきなりマクスウェルですって言われても、普通の人は信じないから……」
「ふむ、そう言えば君の時もそうだったな。それほど信じ難いことか?」
「そりゃあ……だってミラ、普通の人間にしか見えないし……」
ジュードも彼女の話は半信半疑らしい。
ラスヒィは今一度女性の姿を観察したが、どう見ても人間にしか見えない。
だが四大精霊を操る先程の術、あれは確かに常人の手に及ぶ所業ではない。
「さて、私はそろそろ行かねばならない。ジュード、君は早く家に帰るといい。そちらの君もここに居ては危険が及ぶ、なるべく離れていたほうがいいぞ」
ミラはスッと立ち上がって、何かを言おうとしたジュードを置いて橋の上に消えてしまった。
こちらの質問を全て流されてしまったことについては、まあ急ぎの様だったので仕方ない。
「……君は彼女と一緒に行かなくていいんですか?」
ジュードは悩んでいるのか、ミラの向かった先を見つめたまま黙していた。
「私は先に失礼しますよ。早くしないと、ミラさんを見失ってしまいそうですし」
「えっ?」
言いながら階段に足をかけたラスヒィに、無反応だったジュードが勢いよく顔を上げる。
「ミラについて行くんですか?」
「ええ、彼女にはまだ色々と聞きたいことがありますから」
さっさと上りきってしまえば、ジュードも少し躊躇ったあとに続いて上ってきた。
道の先ではミラがさっそく兵士に道を阻まれている。
「ミラ!」
「不用意だなジュード、知らぬフリをすれば良いものを……」
襲い来る兵の攻撃を剣で受け止めたものの、反撃に出たミラの剣筋はさっきとはまるで別人のようにへらへらとしたものだった。
「ミラ、まさか剣使ったことないの!?」
「うむ、今までは四大に頼って振っていたからな。居ないだけでこうも違うとは……」
もう! と言いながらも助太刀に入る彼は随分世話焼きな様だ。
離れた場所から戦いを見ていたラスヒィは、いつ援軍が来ても対処出来るよう連弩に手をのせていたが、それが必要になることは無かった。
「怪我はありませんか?」
「なんだ、君まで居たのか。危ないと言っただろう」
「ご忠告に背いて申し訳ありません。ですが、私の心配なら無用ですので。……貴女はこれからどちらへ?」
「決めていないが、とりあえずここを離れたい」
「入り口は見張りが居るから、海停から行った方がいいと思うよ」
ジュードの助言にミラはそうか、と答えたものの、あちこち見渡して首をかしげてしまった。方向がわからないらしい。
「……こっち」
見かねたジュードが海停まで案内してくれる様で、ようやくミラは動き出した。
「君はどこまでついて来るつもりだ?」
「ご迷惑でしょうか? 私も街から出るつもりなので、どのみち同じ方向に向かわなければならないのですが」
「この街の人じゃないんですか?」
「後ろを見ながら走ると危ないですよ。まあお話は後でゆっくり、今は急ぎましょう」
道を知るジュードが先頭を走り、その後ろを二人がついて行く。
海停までひたすら走ってそのまま停泊していた船に乗船しようとしたが、あと一歩のところで兵に追い付かれた。
「ジュード・マティス、逮捕状が出ている。そっちの女もだ」
逮捕状、研究所に忍び込んだだけで逮捕状?
一体どうなってるんだと聞こうにも聞けないラスヒィは口をつぐんだままそっぽを向いていたが、それでも兵の視線は自然に二人の隣にいた自分に注がれた。
「貴方は……? まさか、ラスヒィお──」
口を開いた兵が言い終わるより先に、申し訳ないと思いつつも素早く蹴りを繰り出して黙らせた。
その蹴りを抵抗意思と取られて、兵士達は躊躇いなく攻撃を開始した。
打ち出された炎の玉がジュードとミラの間をすり抜けて船乗り場の受け付けに当たって爆発を起こす。
ミラはゆっくりと後退し、ジュードにこれまでの礼を告げると背を向けて一人走り出した。
なかなか動こうとしないジュードを置いていくかどうするかと考えているうちに自分も囲まれる。
「彼を捕まえてどうするつもりだ?」
「教える必要はない。それより、二人を庇うのなら貴様も同罪……」
「馬鹿よせ! このお方は……」
武器をこちらに向けた兵を、もう一人が慌てて制する。
するとその兵も気付いたようで、武器を下ろすと慌ただしく敬礼した。
「しっ、失礼いたしました! まさか貴方様だとは……」
「それはいい、時間が無いので質問にだけ簡潔に答えてくれ。彼をどうするつもりかと聞いている」
兵達は顔を見合せ、嘘をつくわけにもいかず、渋々といった様子で言った。
「その……極刑にせよとのご命令で」
「あんな人の良さそうな子供がそれほどのことをしたと?」
「それは……」
歯切れの悪い兵に、お門違いとは分かっていても苛立ってしまう。
いくら仕事といえど、人に言えぬような理由で捕まえて懲罰など納得がいかない。
とにかく、少年を連れて一度この場から離れよう。ぐだぐだしていると船に乗り遅れてしまうと背後を振り返ると、その船はミラを乗せて徐々に遠ざかっていた。
「それよりも、何故このような場所に貴方のような方が……」
「すまない、時間切れだ。この件についての説明は、お互いまたの機会という事で」
言うが早いか、ジュードの腕を引いて全力で去り行く船を追う。
ジュードがいきなり引っ張られたせいでよろけて地面に尻餅をつきそうになっていたり、兵達が押し寄せてきたりしていたが、構っている余裕は無い。
「待って下さい! 僕は……」
目一杯伸ばした足が半壊した受け付けを過ぎた時、今度はラスヒィが腕を引かれて止まった。