(小5)


その頃の及川は今よりもずっとやんちゃで、ただの悪戯好きの男子だったと思う。私は私で、今よりもずっと引っ込み思案な、誰かの後ろに隠れているような女子だった。

そんな及川と、席替えで隣の席になった。
当時私は、同じクラスだった岩泉にひそかに、それはもう誰にも言わずひっそりと恋をしていた。岩泉と仲のよかった及川が隣の席になったおかげで、休み時間になると岩泉が近くにやってくるのがうれしくて、及川には心の中で感謝していた。


「なぁ深澤、消しゴム貸してくれない?」

ある日の授業中、消しゴムを持ってくるのを忘れたらしい及川から話しかけられた。いいよ、と言っていつも使っていないもう一つの消しゴムを渡した。さんきゅー!と受け取った及川を見て、どういたしましてという意味で、ふるふると首をふった。いま思えばその時の私は、普段話さない及川に話しかけられ少し緊張していたんだと思う。大切なことを忘れていたのだ。
じゃあ次の文章から読んでくれる人―?という先生の問いかけに、はいはーい!と何人かの生徒が手をこれでもかとまっすぐ上に伸ばす。いつもだったらそこに加わっているはずの及川がめずらしく静かで、どうしたのかと隣に目をやった。及川は、私を見ていた。



「おまえ、岩泉のこと、すきなの?」



ドクン、と心臓の跳ね上がる音が聞こえた。一度跳ねた心臓はばくばくと鳴りつづける。及川の右手には私の貸した消しゴムがにぎられていた。消しゴムを貸した時についていたカバーははずされ、まだほとんど使われておらずきれいな立方体を保ったその白いかたまりには、小さな字で“岩泉一”と書かれている。まぎれもなく、私の字体である。いつだったか、好きな人の名前を消しゴムに書いてお守りにすると恋が叶うらしいというクラスの女子が騒いでいたおまじないに、こっそり便乗したそのことを思い出す。
身体中の熱がぐんと上昇し、顔に集まるのがわかった。みるみる赤くなる私の顔を見て、自分の予想が当たったことを確信したらしい及川は、ニタリと笑う。

「深澤、岩泉のことすきなんだー」
「返して!!!」

思わず出た叫び声に、先生だけでなくクラスメートの視線が集まる。かぁっとさらに赤くなった私はうつむいた。机にコロン、と転がってきたのは、まぎれもなく諸悪の根源となっている消しゴムだ。カバーがちゃんとつけられており、もう私が書いた名前は見えない。

「みんなには黙っててあげるよ」

そう言った及川の顔は、まだにやにやと楽しそうだ。私なりに最大限の抵抗の意味をこめて睨んだところで、奴が表情を変えることはなく、どうしたらよいかわからなくなった私はただギュッと机の下でこぶしを握りしめた。


それからである。及川が私になにかとつっかかるようになったのは。
掃除の時間にスカートをめくられ、体育のドッヂボールでは真っ先に狙われ、校庭で虫を見つけては私に近づけてきた。

「ちょっと及川!みどりのこといじめないで!」

周りの女子たちが私のことをかばうと、及川はさも面白くないというふうな顔をして、かと思うとまたニヤッと笑うのだった。私にはそれが及川からの“お前の弱みを握ってるからな”というサインのようにみえて、思わず背筋に汗が流れる。
「みどりも、ちゃんと言わなきゃダメだよ!」「そーだよ、及川バカだから言わなきゃつけあがるよ!」
助けてくれるのは非常に有り難いのだが、私はどうしたって及川に強気になれない。理由はもちろんひとつだ。


岩泉のことを好きだということは、岩泉本人にはもちろん、友達にも言っていなかった。そもそも岩泉と会話をしたことがそんなにないのだ。気がついたら、惹かれていた。何事にもまじめで、あんまりふざけたりしないタイプかと思いきや、体育の時間はそれはもういきいきとしているのだ。それを見ているのがすきだったし、見てるだけで満足だった。
一番厄介な奴にばれてしまったと思う。いつもの癖で岩泉を目で追っていると、必ずと言っていいほど及川と目が合ってしまう。そしてニタァ、と面白いものをみたと言わんばかりの笑みを向けてくるのだ。




帰り道クラスの友達と別れ1人で歩きながら、はぁ、とため息をこぼしていた。原因はもちろん決まってる。ほんとにキライ。ダイキライ。及川ダイッキライ!あんな奴、土に埋められてそのまま窒息すればいい。心の中ではこれだけ思ってても、いざ本人の前では言えないのだ。

「お」
「!!!!!!」

ふいに視界に入ってきた顔が、いつも遠巻きに見ていることに慣れたその顔で、私の反射神経は今日いちばん働いた。ものすごい勢いで十歩ほど後ずさりしたわたしに、その原因である男、岩泉は笑った。

「深澤じゃん!」
「岩泉…!!!」
「いま帰りなの?」
「そうだよ」

へぇー、俺んちすぐそこでさー、と岩泉は向かいにある一軒家を指さしながら教えてくれた。ランドセルを背負っていないその姿からして、一度家に帰ってから外にでてきたのだろう。大きなスポーツバッグを肩から下げていた。

「…岩泉、どこか行くの?」
「おう!!バレーやりに行くんだ!」

ニィッと笑ったその顔は、体育をしてる時と同じものだった。ここから車で10分のところに有名なバレー教室があって、岩泉は最近そこに通いつめているらしい。バレーかぁ。バレーしてる岩泉、きらきらしてるんだろうなあ。見てみたいなあ。



「にしても及川、おっせぇなあ」

及川、という単語にビクッと肩を震わせる。

「…及川もいっしょなの?」
「そうだよ。及川のねえちゃんがいつも車で送ってってくれんだ」
「…そうなんだ」

岩泉が及川を待っているということは、このままここに留まっていればあの及川に出くわすということになる。それだけは絶っ対に避けたい私は、せっかく岩泉に会えたというめったにないチャンスすら手放し、じゃあ私は帰るね、と帰り道の方向に身をひるがえそうとした。その時だった。


ゴンッという音がしたと思ったら目の前にいたはずの岩泉がしゃがみこんでいた。
岩泉はうつむきながら、ふるふると肩を震わせている。

「いっっってえよ!!!!くそ及川!!!」
「ぶはっ!岩ちゃんだっせー!!!」

涙目で顔を上げた岩泉の後頭部にぶつけられたらしいボールが、ころころと転がっていく。それは赤と緑と白のラインが交差した、バレーボールだった。いてえよっ!と言いながらも岩泉は素早く立ち上がり、その原因となった奴に駆け寄った。お返しと言わんばかりに頭突きをくらわそうとする岩泉を、ひゃひゃひゃと笑いながらなんなくかわした及川は、こちらに視線を移した。
 
「あれっ。岩ちゃん、深澤と密会してたの?!」
「あ?なんだよミッカイて」
「デートだよデート!」

そんなこともわかんないのかよー、と小馬鹿にした口調で言う及川は、今度こそ岩泉に頭をはたかれている。

出くわしてしまった。
もはや私のなかで及川は地球上の嫌いな生き物第1位にランクインしていた。
帰るタイミングを逃してしまった私は、どうしていいかわからず立ち尽くす。そんな私を見て及川はいつものように楽しそうに口角を上げた。

「岩ちゃんいいこと教えてあげよーか」
「なんだよ」
「深澤ってさ、岩ちゃんのこと…」
「ち、ちがうよ!!!」

及川の言おうとしてるとすることがわかり、とっさに大声が出たその時だった。


「もー!!!!この、バカ徹!」
「いでっ」
「あんたねぇ、女の子いじめるとか超かっこわるいんだからね!」
「ねえちゃん!いってーよ!」

げんこつで頭を殴られた及川の横に立ったのは、ひとめ見て及川のお姉さんだとわかる綺麗な女の人だった。目元が及川にそっくりだ。栗色のウェーブがかった髪を後ろでひとつに束ねているその人は、たったいま及川にあんなにパワーのあるげんこつを喰らわせたと思えないほど華奢に見えた。
突然の登場に驚いたのもつかの間、この及川姉に私はすっかり見惚れてしまった。

そして、あれ?と、異変に気づく。華奢な身体の中で、おなかだけがぽっこりと膨らんでいたのだ。そしてそのおなかを、お姉さんは大事そうにさすっている。

「あ、気づいた?8か月でーす」
「赤ちゃん…」
「そうだよ、さわってみる?」
「えっ」

どうさわったらいいのかもわからなくてオロオロしていると、お姉さんは私の手をすっとその膨らみのもとへ置いてくれた。うわあ。このなかに赤ちゃんがいるなんて。
ふと横を見ると、ふん、と面白くなさそうな及川。岩泉はというと夢中でバレーボールを指一本でくるくると器用に回している。


「徹、ちょっとこっちきな」
「…なんだよ」
「いい?女の子は、いじめたらだめ。あんたたち男と違って、女の子はか弱いんだから。いじめるんじゃなくて、守ってあげるの」
「……わかった」
「ほんとにわかった?あんた、もうすぐ叔父さんになるんだからね」
「ゲッ!やだ!オジサンとかやめろ!」

意外だった。及川にこんなに歳の離れたお姉さんがいるなんて。オジサンという単語を聞いて、その響きにぎょっとする及川がなんだかおかしかった。

「次そうやっていじめてるとこ見たら、寝てるとき顔にタバスコかけに行くからね」
「もうしませんゴメンナサイ」
「それでよし!」


「それじゃあ早く行くよちびっこたち」と二人に向かって召集をかけるお姉さんは私に一瞥をくれると、またね!とニコッと笑って車に颯爽と乗り込んだ。
じゃーな深澤、と岩泉が車に乗り込む。及川は眉間にしわを寄せたまま私のほうを向き、んべっと舌を出した。これで終わりじゃねーぞってことなんだろうか。





翌日の朝、チャイムと同時に男子の笑い声が聞こえ、いつものように朝の会がはじまるギリギリまで校庭で遊んでいたらしい男子たちがばたばたと音を立てて着席し始める。
私の隣もその例外ではなく、及川がガタッと音を立てて席に着いた。
と思ったら、深澤、と声をかけられた。

なんだと及川のほうを向こうとするより早く、机の上にコロン、と何かが弾き出された。

キーホルダー、だろうか。
赤、白、緑。三色のラインが交差した、きれいなまんまるの形をしたプラスチックのそれには、かまぼこを逆さにしたような目がふたつと、くいっと口角の上がった口元がつけられている。相手を挑発するような、ずいぶんと不敵な笑みだ。


「あげる」
「え、」


そう一言だけ発した及川のほうに向き直った頃には、及川はもう後ろの席の男子に話しかけていた。なぁなぁ昨日のポチモン見たー?と、アニメの話題で盛り上がっている。

キーホルダーをそっと掴み、目線の高さまで持ち上げる。何かのキャラクターなのだろうか。どこかで見たことある気がするなぁ。
うーん…と頭をめぐらせてみたが私の記憶のなかにこんなキャラクターは存在しない。
じいっと目を合わせているうちに気づいた。口角を上げ不敵に笑う感じが、まさに意地悪してくる時の及川に似ている。そっくりだ。及川は、それをわかってて私にくれたのだろうか。きっと違うだろう。
ふふっと思わず溢れた笑みに、及川が反応した。こっちを向いたその顔は、ほんのりと赤くなっている気がする。

「これ、ありがとう」
「べつに。たくさんあるから」

お礼を言うとフイッとまたそっぽをむかれる。あの綺麗な及川のお姉さんが、お詫びに、と及川に持たせたのかもしれない。だとしてもうれしい。
意地悪な及川の顔にそっくりだけど、なぜか私には、“今までゴメン”と言われてるような気がしたからだ。


地球上でいちばんいちばんキライな生き物だった及川が、少しだけかわいく見えた。




まだ春の鼓動を知らない
170906