(小5�A)



「どうしよう〜〜」
「ほんとに渡すんだ、けいちゃん」
「でもムリ、やっぱムリ、恥ずかしいもん」
「えー!せっかく作ったんだから!」


声をひそめてこれらの会話が行われているのは、私の斜め後ろの席だ。けいちゃんと呼ばれた女子と、その前に座る女子の会話は途切れない。

ただいま5時間目の授業中。黒板に大きく“自習”とかかれたこの時間、それぞれが算数ドリルに取り組んでいた。といっても、本当に取り組んでいるのは一部だけだ。


今日が何の日か知らない者はいない。
2月14日。
前日から男子はソワソワ、女子はコソコソとなんだか浮き足立っているのは誰もがわかっていた。

朝、教室に来るなり「チョコくれー!」と騒ぎ立てる男子たちに、一部の女子は「何言っちゃってんの?」「あげないから」と冷たく言い放ったかと思いきや、しっかりと用意していた小さく包装されたチョコレートを渡していた。
うれしそうな男子を見てまんざらでもなさそうな一部の女子は、もうっと困った声をあげる。

そんな和やかなムードで幕を開けたものの、それはあくまで序章に過ぎなかったのだ。
義理チョコ配りを終えた女子たちがこれでお終いというわけはない。今日が何のための日なのか。
恋に色めきだった女子たちのいちばんの課題は、好きな人は渡す本命チョコだ。



「岩泉、もらってくれるかなぁ」

けいちゃんと呼ばれたその女子から岩泉という名前が呟かれたのを聞き、それまで算数ドリルをせっせと進めていた私は途端に手を止めた。

「大丈夫だよ、けいちゃん可愛いから、きっと岩泉も喜ぶよ」
「そんなのわからないよ」
「ほんとだよ!がんば!」

明らかに自信のなさそうなけいちゃんに向かって、女子特有の褒めちぎりを乱用しているのは先程からずっと後ろを向いて話している女子だ。
たしかにけいちゃんはクラスの中でも可愛い部類に入ると思う。さらに勉強は真面目にこなし運動神経は抜群、それでいて謙虚という小学生にしてなかなか大人びた女の子だ。

そんな彼女が、岩泉にチョコレートを渡そうとしている。明らかに義理チョコを渡す雰囲気ではなく、つまりそれは告白をしようとしているのだと、この会話を聞けば誰もがわかるだろう。

どうしよう…。

私はちらりと遠く前方にいる岩泉を見やった。岩泉は、後ろの席の及川と落書き対決をしている。先生不在のこの教室で騒ぐなと言うほうが難しく、一部まじめにドリルをやる生徒以外は何かしらの遊びを見つけていた。

及川とは隣の席だったこともあったが、あのキーホルダーをもらった日に席替えが行われて以降、あまり絡まなくなっていた。あれ以来、及川が私に意地悪をしてくる回数は明らかに減った。と思う。
あのキーホルダーは眺めていると不思議と可愛く見えてきて、気に入ってランドセルにつけている。

「うはっ、岩ちゃん何この絵」
「バーカ」

ニシシ、と笑う岩泉が、自分に本命チョコレートを渡そうと悩んでいる女子がいることに気づいているとはとても思えない。

私は机の横にぶら下がっている小さな紙袋に目をやり、はぁ、と溜め息をついた。







自習時間は過ぎ、5時間目までしかない今日の授業はすべて終わってしまった。
けいちゃんはまだ迷っているようだった。貰ってくれなかったらどうしよう、という不安が大きいのだろう。
そうこうしているうちに帰りの会は終わり、放課後になる。

自習時間は二人で話していたけいちゃん達の元へ、二人とは席が離れていた同じグループの女子達も合流し、先程から続いている話を発展させていた。
このグループは朝、男子達に真っ先に義理チョコを配っていたいわゆるいちばん華やかな女子グループだ。

「私もこれから渡すから、けいちゃんもがんばろっ」
「無理だよーー」
「大丈夫だよ、けいちゃん可愛いもん!」

これから渡すからと言った女子の手には可愛く包装された箱が握られており、彼女たちはお互いを褒め合い、すっかり士気を高めている。けいちゃんだけがその雰囲気に乗りきれていなかった。



「みどりー、かえろ!」
「…うん」
「どうした?元気ないね?」
「そんなことないよ」

いつも一緒に帰る友達に心配の言葉をかけられ、ふるふると首を振って否定する。視界に入る、机の横にぶら下がる小さな紙袋。その中に入っているのも、紛れもないチョコレートだった。
一体、今日1日でどれだけのチョコレートがこの校内に持ち込まれたのだろう。
私の持ってきたたったひとつのそのチョコレートは、前にお母さんに教えてもらってから唯一自分で作れるものだった。


そんな悩める女子達の頭の中など知るよしもなく、岩泉たち男子は「今日は何するー?」「ドッヂやろーぜ!」「俺けーどろがいい!」と口々に言いながら教室から勢いよく駆けて行く。


岩泉は行ってしまった。
渡せなかった…と諦めかけた私の横を、その瞬間、風が切った。

「やっぱり私、行ってくるっ」
「おー!けいちゃんがんばれ!」

きゃあきゃあと騒ぎ立てる女子達。
まるでドラマのような展開を目の当たりにして、私は今度こそ諦めた。

「帰ろう、」

そう声をかけて、友達といっしょに教室を出る。



校庭を横目に校門までの道のりを歩く途中、校庭の隅っこで照れる岩泉が見えた。こんな時ですら目で追ってしまうのだから悔しい。岩泉の前に立つ女の子は、きっとけいちゃんだ。

告白、したんだろうか。

あの子がチョコレートを渡そうと渡すまいと、私はきっと渡せなかっただろう。勇気がでなかった。いらないって言われたらどうしよう、と怖気づいた。
それは誰もが思うことに違いないのに、いざそれを乗り越えて渡した子の姿を見ると、勝てないと思ってしまう。私にはできない。


「ごめん、忘れ物しちゃった!先帰ってて」

耐えきれなくなって、友達にそう言い残して校舎へと翻した。



この意気地なし。
臆病。
かなしい。
くやしい。

次々と出てくる言葉を心の中で唱えながら、一人になれる場所を探した。いまにも出かかっているこの涙を隠せる場所がほしかった。
絶対誰もいないだろうと思い立ち、旧理科実験室に向かう。新しい実験室が作られたことでただの物置と化しているそこは、少し埃っぽいものの人気を感じさせず今の私には最適な場所だと思った。


私が岩泉に惹かれるのは、きっと、自分とは正反対のところにいる人間だからだろう。
正義感の強さとかどんな人にも分け隔てなく接するところとか、私にはないものをたくさん持ってる人だ。けいちゃんだって、きっと岩泉のそういうところを好きになったに違いない。

実験室に入るなりドアを閉めて、暗い室内のなか体育座りで座り込む。
もう陽の目を見ることはないであろうチョコレートの入った紙袋の持ち手をギュ、と握りしめた。


さぁ、泣こう。
そう思った時だった。

ガラッとドアが開けられ、そのドアを背もたれにしていた私は一気に体勢を崩した。



「おまえ、ここ幽霊出るって知らないの?」

「…お、及川」


なんで、ここに、及川が。
咄嗟のことで、思うように声が出なかった。
じんわりと滲んだ膜が目をおおって及川の姿が霞む。視界不良で、幽霊なんていたとしてもきっと見えないだろう。
つう、と頬を一筋涙が伝った。

「泣き虫」
「泣いてないよっ」

ごしごしと目をこする。
及川に見られてしまった。泣いてるところを。
絶対見られたくない相手だ。
こんなの、意地悪な及川が見てからかわないはずがない。なのに。
一度溢れた涙はとまらなかった。

いくらごしごしとこすったところで次々と流れ落ちる涙に諦めて、最後にはうぇーん、と声まで出して泣いてしまった。

及川は、どんな顔をしてるだろう。
どんな気持ちでいま私を見ているんだろう。

「そんなに、岩ちゃんが好きなの」

再び体育座りで泣く私の横にしゃがんだ及川は、そう呟いた。
その顔は、どこか不機嫌そうだ。

「及川にはわかんないよっ」

ヤケになった私は悪態をついた。

「じゃあなんでそれ渡さないのさ」

相変わらず痛いところを突いてくる。
及川の言うことは意地悪だけど、正論だった。

「だから、及川にはわかんないもん」
「わかんないね、全然わかんない」
「…」

なんで及川にこんなふうに責められなきゃいけないんだろう。けいちゃんみたいに勇気が出せない私はかっこわるいし惨めだし、だめだめだって思うけど、そもそも及川には関係ないことなのだ。

「俺、深澤のチョコもらう」
「え??!?」
「岩ちゃんにあげないんなら俺にちょーだい」
「だ、だめだよっ」
「なんでだよ」
「なんでって、」

そして眉間にしわを寄せた及川は、突拍子も無いことを言う。

「深澤が泣くのは、これが渡せないからだろ。俺が食べちゃえば、嫌でも渡せないじゃん」

…な、何を言ってるんだこいつは。
びっくりしていつの間にか止まった涙と、擦りすぎた瞼がジンジンすることに今更気づく。

「よくわからないよ及川」
「いーのいーの」

ひょいっと私の手から取り上げた袋から、赤い包み紙でラッピングされたそれをさも簡単に開けていく。
中から星の形をしたチョコレートをひとつ取り出した及川は、何のためらいも見せずに口の中にそれを放り込んだ。

「おいしい」
「ほんと?」
「女の作ったもの食べる時は、まずは褒めなさいって姉ちゃんに言われた」
「なにそれ、バカ」

ぜんぶ素直に言ってどうする。
呆気にとられる私をよそに、及川は次々とチョコレートを口元に運んでいく。そしてものの5分もしないうちに平らげてしまった。

「おいしかった」
「嘘でしょ」
「ほんとだって」
「…ありがとう」

驚いた顔をした及川に、私はもう一度ありがとうと言った。少し照れ臭そうにした及川は、べつに、とうつむく。
なんだか及川をこうして近くで見るのは久しぶりな気がする。

それにしてもどうして及川は、ここに来たのだろう。私がここにいることも知らなければ、私が岩泉にチョコを渡せなくてへこんでいることも知らないはずだ。
頭の上にはてなマークを浮かべた私に気づいたのか、及川は話し始めた。

「岩ちゃんがクラスの女子に呼び止められて、てっきり深澤かと思ったんだ。よく見たら違う女子だった。そしたら深澤がこっち見てて、校舎に走ってくのが見えた」

なんか深澤、泣いてそうだなって思ってさぁ。そう言った及川は、まさにあの意地悪ばかりしてきた頃と同じにやりとした不敵な笑みを浮かべた。
だからって、なんで。

「おまえ泣くと、俺が姉ちゃんに怒られるから」

それは、及川が意地悪した時だよ。
今回は及川のせいじゃないよ。
私に意気地がないから、だよ。

「前に、岩ちゃん彼女とかキョーミないって言ってた。あいつとは付き合わないと思う」

あの及川が、慰めてくれている。
あまりに信じ難いこの現実に感動してしまって、なんだか岩泉にチョコを渡せず落ち込んでいたことが遥か昔のことのようだ。いや、それでもやっぱりかなしいけど。

「及川って、実はやさしいんだね」
「当たり前じゃん」
「知らなかったよ」
「俺、深澤のこと守るから」
「え?」

聞き返す私に構わず勢いよく立ち上がった及川は、じゃーな!とそのまま勢いよく去っていった。
早口だったが、私の聞き間違いじゃないはずだ。

なんだったんだろう、今のは。
まるで、クラスの女子達がキャーキャー言いながら読んでいる少女まんがに出てきそうな台詞だ。
それが及川の口から出てきたのだ。
私に向けて。

あの綺麗なお姉さんの影響なのかな、と内心で茶化してみたものの、心臓の動きが加速していくのを感じる。
はじめての体験に、今度は違う涙が出そうだった。



ねぇ、愛はここに在ります
170906