夜が近い。今日もまた西陽にさようならを告げられた大地が黒みがかって、草むらを撫でる南風は少しずつ温度を失ってゆく。
知らない土地。知らない景色。新天地。私を知る人のいない町。私に魔の手の届かないうち。美しい星。流れる水。安らぎの時。
飛ぶなら今だぞ、と思う。悪い癖かもしれない。でも、癖になっているから仕方ない。
***
彼は鳥目である。夜目が利かない。するどさの欠けたつぶらなひとみは他の鳥より集光を成さぬからして、夜は、じっと、おとなしく過ごすことにしている。程々に高さのある樹の上に毎晩お泊りをして、ずっと、そのまま朝を待つのだ。
「あっ。ムクバードだ」
足元から、ほのかに喜色の混じった声が上がった。彼はまず、そちらより先に周りの仲間たちを見やった。もう皆すやすやと静かに眠っている。寝付きが良くって羨ましい。
彼は次こそ、下を見やる。人の街の灯りはすぐそこまで伸びているけれど、こちらを見上げて立ち尽くしている人の顔には暗い影が差していて、あまりよく見えなかった。やがて人は、何かをトスンと樹の根本に置いた。よくあるような大きい旅行鞄だ。
「これね、モンスターボールが入ってるの。中にポケモンたちがいる。この近くを誰かが通ったら、それをどうにか教えてあげてくれないかな」
人は、彼にそんなお願いをしてきた。
――別にいいけど、どうしてですか?もちものを置いてあなたはどこへ?それとも、それは別の人のわすれものですか?
彼がぴこぴこ首を傾げてみせても、人は何も答えてくれない。一段下の枝にぴょんと跳んで、何とかして人の顔をよく見てみた。眼鏡を掛けて、にこにこしていた。
「じゃあね、おやすみ。よろしくね」
手ぶらになった人は手を振って、くるんと背を向けた。ゆったりした歩調でさくさく草を踏み鳴らして、向こうの坂道を上がって行ってしまった。
ここに物を置いておくと、朝になったら仲間たちがフンをかけてしまうかもしれない。しかし彼が今一匹でどかすのは少々難しそうであるし、無理をして自分のたいせつなもちものを万が一にでも落として失くしたら大変なので、諦めた。旅行鞄の明日は気になるけれど、そのままにして眠ってしまうことにした。木の葉の囁きを子守唄に、うとうと微睡む。
びゅわっ、ざざざあっ、と急に旋風が鳴った。もう少しで眠れそうだったのに。彼はまた、周りの仲間たちを見やった。やれ皆ぐうぐう眠っている。熟睡っぷりに感心する。
彼は次に、横を見やる。わりと近くに降りてきたあれは人の乗り物、そらとぶタクシーだ。お客さんを運ぶイキリンコたちは、夜でも迷わず目的地まで飛べるんだから凄い。とくせいとしては表れていなくても、中々どうしてするどいめをしているから、暗くても平気なのだろう。ちなみに海の向こうだとエアームドやアーマーガアたちの仕事らしいが、パルデアではデカヌチャンが飛ぶアーマーガアを落とす勢い、どころではなく本当に打ち落としにかかってきて危険なので採用できないらしい。
チャンプルタウンは人の行き来が盛んな所だから、街路樹や家々の屋根に留まっていると、いろんな人のいろんな話が聞ける。彼は耳は良いので、そうやってよくいろんな情報を集めている。
ところで、ムクホークだって大概するどいめをした力持ちなのだし、そらとぶタクシーの飛び手のお鉢が回ってきてもおかしくない。彼は、進化して群れを出た仲間が働いているところを想像してみた。様になっていて、かっこいい。でも、夜に飛べないうえに小柄な自分には決して務まらない役だな。そこまで考えて、彼はちょっとやぶれかぶれな気持ちになった。
ややあって、そらとぶタクシーは東の方角へ飛び去っていった。そこに、ぽつんと残る人影。こんな夜分にこんな場所で降りたお客さんの立ち姿は、彼にとってはとても見覚えのある猫背だった。この辺りの野生のポケモン相手に、たまに勝負をしかけていく人だ。いつも黒いスーツを着ていて、黒いビジネスバッグを左手に提げているから、わかりやすい。
彼も何日か前に、その人がくりだしたノココッチとバトルしてみたことがある。勝敗は、まあ、お預けで。
ひゅう、と今度は寂しげな風が吹いた。風上に立っていた人は自然と何となしに、風下であるこちらに顔を向けた。おや、見つかった。
「……そこのムクバード」
人は、樹の上の彼を見据えたまま歩いてくる。するとそこの旅行鞄にゴスンとつまづいて、よろけて、幹に手をついてきた。多少なり揺れた。
彼はやはりというか、周りの仲間たちを見やった。今のでも誰も起きないとなると、さすがに心配になる。ペルシアンが襲ってきたときにはどうしよう。
彼は次いで、下を見やる。人は、思いがけずそこにあった旅行鞄を暫く無言で見つめていた。それから、ぬっと顔を上げて問うてきた。
「これがどなたの物か、あなたはご存知ですか」
彼は多分ご存知なので、うん、と頷いた。
「そうですか。今日……はもう遅いですし……明日以降にでも、持ち主を見かけしだい、自分に知らせていただけるとありがたいのですが」
人は、彼にそんな頼みごとをしてきた。重たそうな旅行鞄の取っ手を億劫そうに掴んでおきながら、ひょいと軽々持ち上げている。両手に鞄が妙に似合う。持ち帰って、預かっておいてくれるつもりなのだろうか。ここに置いたままではフンだらけになりそうだと予想したのかもしれない。
明日。引き受けるのは構わないけれど、彼は何となく、早くしてあげたほうがいいんじゃないかしら、と思った。今ならまだ、さっきの人に追いつける。遠くへ行かれてしまったら、明日以降に探し当てられる保証もないのだし。
「えっ。あ、ムクバード、ちょっと……」
彼はえいやっと人の頭の上に降りて、バサっと右翼を開いた。
――さあ、出発進行です。ぼくがご案内しましょう。……あれ?しまった、これだと、あなたからは、ぼくが見えませんね。
狭くて不安定な足場を、ぐいぐい、びたびた、覚束なく移動する。
「……髪が乱れました……」
ぼやきながらも、人は彼の意図を理解してくれたようだった。鞄を二つとも右手にまとめて、空いた左腕は水平になるあたりまで上げてくれた。見かけによらず気の回る人だ。むぎむぎ、ばさりと肩を経由して、ありがたくその肘に留まらせてもらい、改めて、進むべき方に羽の先を向けた。
「はぁ……そっち、ですか」
小柄な彼に案内されて、人は夜のプルピケ山道を進む。この辺りはまだ開けているが、真っ直ぐ行った先にはピケタウンへと続く暗く細い洞窟しかない。ただでさえ道が悪いのに、夜に通行しようとするのは危険だ。
――旅行鞄の持ち主は、本当にこんな時間にこんな場所へ?
人は訝しんだ。道標の看板がある洞窟前で足を止め、周りの様子を確認してみる。右手は崖壁 で、左手はナッペ山登山道入り口となる長い坂道になっている。顔を上げると、向こうで夜の散歩を楽しんでいるアルクジラがあくびをしているのが見えた。つられて眠気がおそってくる。
――残業帰りなのに。ああ、腹も減った。
そのとき、厚い雲からまあるい月が顔をのぞかせた。闇に慣れてきていた目がくらりと眩んで、彼も人も、ギュッと目を瞑った。ゆっくりまぶたを開けてみると、さっきよりも夜道が明るくて、さっきよりも遠くまで見渡すことができた。坂道を上がっていく、小さな人影を見つけた。
人影はじきにそこを上りきって、右へ曲がってまだ上る。その先はもっと危険だ。この季節であっても、急に吹雪いてくることが珍しくない。山の天候は予測不能だ。人は、最近テレビでみた若い天才スノーボーダーの事故のニュースを思い出して、眉間に皺を寄せた。
先ほどまでよりもやや駆け足で、人影を追いかける。正体は何者だろうか。地元の人間ではなさそうだ。無謀なやまガール?それとも向こう見ずなかんこうきゃく?なんにしろ、目についてしまったからには放っておくわけにいかない。チャンプルタウンの、自分たちの住む街のすぐ近くでこれから事故死などされようものなら、最高に後味が悪い。暫くメシが喉を通らなくなるかもしれない。それはごめんだ。
そこも上りきったところで、やっと人影の背中をすぐそこに捉えた。
「あの、すみません」
あまり大きな声は出なかった。それでも、人影は気付いて不思議そうにこちらを振り向いた。眼鏡を掛けた若い女の人だった。
左肘に小柄とはいえムクバードを留まらせ、右手に重たい鞄を二つまとめて持って坂を駆け上がった人は、さすがに息を切らしていた。そして、驚いてもいた。自分が追いかけていたのは、素行の悪い不良か、派手めな外国人か何かだと思っていた。目の前にいる彼女は、大人しそうで、どこか儚げで、とても予想とは違っていた。だからこんらんしてしまって、「なぜ」と思った。――ここにこの人は、似つかわしくない。
続けるに相応しい言葉が思い浮かばず、涼しく静かな草むらのなか、不可抗力で見詰め合う。欠片も悪意のないくろいまなざしというのが、実は存在していたらしい。瞳の深い黒に魅入られて、逸らすことができなかった。心臓がうるさくなってきて、風の音で誤魔化せているか、心配になった。
「あっ。私の鞄」
先に口を開いたのは彼女のほうだった。人の手にある鞄に目を落とし、なぜか、申し訳ないというより残念そうな表情を浮かべた。でも、それも一瞬だった。ぱっとすぐに人好きのする微笑みに切り替わって、タッタッとこちらに駆け寄ってくる。
「すみません、わざわざ」
「……いえ……これはあなたの物で間違いないですか」
「はい、私の鞄です。ありがとうございます」
「忘れて置いて行くような大きさでもないでしょう。どうして」
「……少し散歩したくなって。それ、重たいでしょう」
「一時置き、ですか。自分はいらんことをしましたか」
「いいえ!忘れ物と思って届けてくださったんですよね。私がややこしいことをしたせいであって……そんな、ご親切を『いらない』なんて。あの、持ちます」
彼女は旅行鞄を受け取り、ひかえめに頭を下げた。多分いらないことをしてしまったのに、こちらを邪険にしている風にはちっとも見えなかった。きっと、優しい人なのだろう。そう思ったら、よけいに「なぜ」の気持ちも強くなった。
「……どちらからお越しに?」
「えっと、シンオウからです」
「なるほど。北国といわれる地方ですね。それなら、自分の心配は無用なものかもしれませんが……この辺りは急に冷え込むことがありますから、そんな薄着でしかも夜に行くのは危ないですよ」
「そうなんですね。ご忠告ありがとうございます」
「それでも行くというなら、強引には止められませんが……宛ては?どこまで散歩されるおつもりで?」
きくと、彼女は目を泳がせた。やがて、登山道の奥へと続く方向に顔を向けて、そっと口を開く。
「……街をこっち側に出てすぐの場所から、大きくて立派な滝が見えて……そこまで行ってみようかと……」
「ああ……それなら、一つ左隣の道を行けばよかったんです。そうすれば、今頃は滝の下に着いていたでしょう」
「そうでしたか。そのぅ、因みに……その滝の上 に行くとしたら……こちらの道で合ってます?」
「……いえ、無理ですね。登山道を上りきって山を越えても無理です。あそこは山の上にあるフリッジタウン近くの水源から幾つも滝を経由した先にある最後の滝なので、ろくに道がありません。険しい崖が何段も……とても人の足では辿り着けんでしょう。そらをとべるポケモンに乗って行くなら話は別ですが」
前に手持ちのたよれるあいぼうのムクホークの背に乗せてもらい、近辺を飛び回ってパトロールしたときに見た景色を思い出しながら説明した。それはそれは誰かに教えたくなる素晴らしい絶景だったが、かなり飛行慣れしているひこうタイプのエキスパート相手でないと、危なくて下手に紹介できない。そういう場所だ。更にいえば、仮にあの場所に降り立てたとして、ゆきなだれが起きてしまう可能性も否定できない。
「……私、手持ちにそらをとべる子はいなくて。ふむ……そうですか。残念です。それにしても、ずいぶん地理にお詳しいのですね」
「まあ……パルデア暮らしが長いもので」
なんだか左手が手持無沙汰で、空色のネクタイをくいっと直してみた。そういえば、左肘に留まっていたムクバードの彼は、いつの間にか地べたに降りて二人の間に佇んでいた。彼女は今さら彼の存在に気付いて、目を丸くする。
「あれっ、またムクバードだ。……そうだ、きみに連れて行ってもらおうかな?」
「……それは無茶でしょう」
「へへ、ですね。ごめんね無理言って」
――むむ、お二人とも厳しい評価ですね。まあ……妥当なのですが。
彼は再び想像してみた。人をのせて、大空を飛んでいくムクホーク。いいなあ、キマってる。そういえば、彼はちょっと前に見掛けたことがあった。とても立派で強そうなムクホークと、その背に乗ってそらをとぶ、そこの人。
「とにかく今日は諦めてください。雪山で行き倒れたらシャレにならんでしょう」
「……そうします。あの、そのムクバード……あなたのポケモンですか?」
「いいえ、自分のではありません。でも近辺でよく見かける……まあ、顔見知りですね」
「野生の子なんですか?ふふっ、あまりそうは見えませんね。何だかひとになれてて」
言われて、彼はきょとんと首をかしげた。いっぽう、人はパッと見では視認が難しいくらい、ほんの僅かに口角を下げた。
「……そうですね」
それから彼と人はお互いを見上げて見下ろして、じっと黙った。今度は、彼女が首をかしげた。
「仲が良さそうですが……それでもゲットしないんですか?」
「はい……まあ……無理みたいなので」
「?」
「そんなことより、とっととチャンプルタウンに戻りましょう。どこか宿はとっていますか?それともポケモンセンター?」
「え、えーっと……実は、まだ……」
「……それはまた、女性一人なのにずいぶんと無茶な旅ですね。通りすがりのお節介が嫌でなければ、賑やかな通りにある無難なビジネスホテルに案内できますが……」
「では……お言葉に甘えて、その。お願いします」
彼女はそう言ってお辞儀をすると、体の前に提げ持っていた重たい旅行鞄のせいでバランスを崩して、ぐらり、ふらついた。けっこうな急な坂道でくだりを向いて転ぶとなると、けっこうシャレにならない。人は、反射的に彼女の身体を抱きとめた。鞄がみぞおちに直撃して、「ぐぅっ」と小さく声が漏れた。やれやれ、格好はつかなかった。
「っ! すみません!ぁ、あの、本当にすみません色々……」
「これくらい構わんですが……足元、気を付けてください」
「……はい」
「鞄、貸してください。自分が持ちます。元はと言えばここまで持って来てしまったのも自分ですし」
「さすがにそこまでは、悪いですよ」
「四の五の言わずに」
どんな顔をして、その台詞を言ったのか。人は、鏡がなければ自分で自分の顔は見られないから、まったく分かっちゃいないことだろう。正面からまともにくらった彼女はというと、鞄を取り落としそうになってあわあわしている。
「……どうしました?ほら」
「はっ はい、……あの、」
「何か?」
「……お優しいんですね。ありがとうございます」
逆もまた然り。当人は仕返しのつもりなんて全くなかっただろう。だが実に見事なカウンターだった。正面の人はもろにくらって、鞄を受け取りそびれかけてわたわたしている。
――話はつきましたか?では、行きましょう。ぼくも仲間たちのところへ帰ります。またお世話になりますね、よいしょ。さあ、出発進行です。
ばたばた、ぐりぐり、彼は行きと同じようにまた人の腕に留まらせてもらった。鞄二つにムクバード。大変そうだが、この人ならば問題ない。意外と力持ちだ。がんばれ、がんばれ。
人をのせて飛べない小柄なムクバードは、人にのせてもらって帰路につく。さっきよりも月明かりが優しい。彼は、一度だけ後ろを振り返ってみた。彼女が少し立ち止まって、名残惜しそうに坂の上を眺めている。……ん?名残惜しそう?本当に、そうだろうか。
彼は鳥目である。夜目が利かない。気のせいか、彼女が別の誰かとダブって見えた。なにか、大切なものを見落としているような心地がした。
知らない土地。知らない景色。新天地。私を知る人のいない町。私に魔の手の届かないうち。美しい星。流れる水。安らぎの時。
飛ぶなら今だぞ、と思う。悪い癖かもしれない。でも、癖になっているから仕方ない。
***
彼は鳥目である。夜目が利かない。するどさの欠けたつぶらなひとみは他の鳥より集光を成さぬからして、夜は、じっと、おとなしく過ごすことにしている。程々に高さのある樹の上に毎晩お泊りをして、ずっと、そのまま朝を待つのだ。
「あっ。ムクバードだ」
足元から、ほのかに喜色の混じった声が上がった。彼はまず、そちらより先に周りの仲間たちを見やった。もう皆すやすやと静かに眠っている。寝付きが良くって羨ましい。
彼は次こそ、下を見やる。人の街の灯りはすぐそこまで伸びているけれど、こちらを見上げて立ち尽くしている人の顔には暗い影が差していて、あまりよく見えなかった。やがて人は、何かをトスンと樹の根本に置いた。よくあるような大きい旅行鞄だ。
「これね、モンスターボールが入ってるの。中にポケモンたちがいる。この近くを誰かが通ったら、それをどうにか教えてあげてくれないかな」
人は、彼にそんなお願いをしてきた。
――別にいいけど、どうしてですか?もちものを置いてあなたはどこへ?それとも、それは別の人のわすれものですか?
彼がぴこぴこ首を傾げてみせても、人は何も答えてくれない。一段下の枝にぴょんと跳んで、何とかして人の顔をよく見てみた。眼鏡を掛けて、にこにこしていた。
「じゃあね、おやすみ。よろしくね」
手ぶらになった人は手を振って、くるんと背を向けた。ゆったりした歩調でさくさく草を踏み鳴らして、向こうの坂道を上がって行ってしまった。
ここに物を置いておくと、朝になったら仲間たちがフンをかけてしまうかもしれない。しかし彼が今一匹でどかすのは少々難しそうであるし、無理をして自分のたいせつなもちものを万が一にでも落として失くしたら大変なので、諦めた。旅行鞄の明日は気になるけれど、そのままにして眠ってしまうことにした。木の葉の囁きを子守唄に、うとうと微睡む。
びゅわっ、ざざざあっ、と急に旋風が鳴った。もう少しで眠れそうだったのに。彼はまた、周りの仲間たちを見やった。やれ皆ぐうぐう眠っている。熟睡っぷりに感心する。
彼は次に、横を見やる。わりと近くに降りてきたあれは人の乗り物、そらとぶタクシーだ。お客さんを運ぶイキリンコたちは、夜でも迷わず目的地まで飛べるんだから凄い。とくせいとしては表れていなくても、中々どうしてするどいめをしているから、暗くても平気なのだろう。ちなみに海の向こうだとエアームドやアーマーガアたちの仕事らしいが、パルデアではデカヌチャンが飛ぶアーマーガアを落とす勢い、どころではなく本当に打ち落としにかかってきて危険なので採用できないらしい。
チャンプルタウンは人の行き来が盛んな所だから、街路樹や家々の屋根に留まっていると、いろんな人のいろんな話が聞ける。彼は耳は良いので、そうやってよくいろんな情報を集めている。
ところで、ムクホークだって大概するどいめをした力持ちなのだし、そらとぶタクシーの飛び手のお鉢が回ってきてもおかしくない。彼は、進化して群れを出た仲間が働いているところを想像してみた。様になっていて、かっこいい。でも、夜に飛べないうえに小柄な自分には決して務まらない役だな。そこまで考えて、彼はちょっとやぶれかぶれな気持ちになった。
ややあって、そらとぶタクシーは東の方角へ飛び去っていった。そこに、ぽつんと残る人影。こんな夜分にこんな場所で降りたお客さんの立ち姿は、彼にとってはとても見覚えのある猫背だった。この辺りの野生のポケモン相手に、たまに勝負をしかけていく人だ。いつも黒いスーツを着ていて、黒いビジネスバッグを左手に提げているから、わかりやすい。
彼も何日か前に、その人がくりだしたノココッチとバトルしてみたことがある。勝敗は、まあ、お預けで。
ひゅう、と今度は寂しげな風が吹いた。風上に立っていた人は自然と何となしに、風下であるこちらに顔を向けた。おや、見つかった。
「……そこのムクバード」
人は、樹の上の彼を見据えたまま歩いてくる。するとそこの旅行鞄にゴスンとつまづいて、よろけて、幹に手をついてきた。多少なり揺れた。
彼はやはりというか、周りの仲間たちを見やった。今のでも誰も起きないとなると、さすがに心配になる。ペルシアンが襲ってきたときにはどうしよう。
彼は次いで、下を見やる。人は、思いがけずそこにあった旅行鞄を暫く無言で見つめていた。それから、ぬっと顔を上げて問うてきた。
「これがどなたの物か、あなたはご存知ですか」
彼は多分ご存知なので、うん、と頷いた。
「そうですか。今日……はもう遅いですし……明日以降にでも、持ち主を見かけしだい、自分に知らせていただけるとありがたいのですが」
人は、彼にそんな頼みごとをしてきた。重たそうな旅行鞄の取っ手を億劫そうに掴んでおきながら、ひょいと軽々持ち上げている。両手に鞄が妙に似合う。持ち帰って、預かっておいてくれるつもりなのだろうか。ここに置いたままではフンだらけになりそうだと予想したのかもしれない。
明日。引き受けるのは構わないけれど、彼は何となく、早くしてあげたほうがいいんじゃないかしら、と思った。今ならまだ、さっきの人に追いつける。遠くへ行かれてしまったら、明日以降に探し当てられる保証もないのだし。
「えっ。あ、ムクバード、ちょっと……」
彼はえいやっと人の頭の上に降りて、バサっと右翼を開いた。
――さあ、出発進行です。ぼくがご案内しましょう。……あれ?しまった、これだと、あなたからは、ぼくが見えませんね。
狭くて不安定な足場を、ぐいぐい、びたびた、覚束なく移動する。
「……髪が乱れました……」
ぼやきながらも、人は彼の意図を理解してくれたようだった。鞄を二つとも右手にまとめて、空いた左腕は水平になるあたりまで上げてくれた。見かけによらず気の回る人だ。むぎむぎ、ばさりと肩を経由して、ありがたくその肘に留まらせてもらい、改めて、進むべき方に羽の先を向けた。
「はぁ……そっち、ですか」
小柄な彼に案内されて、人は夜のプルピケ山道を進む。この辺りはまだ開けているが、真っ直ぐ行った先にはピケタウンへと続く暗く細い洞窟しかない。ただでさえ道が悪いのに、夜に通行しようとするのは危険だ。
――旅行鞄の持ち主は、本当にこんな時間にこんな場所へ?
人は訝しんだ。道標の看板がある洞窟前で足を止め、周りの様子を確認してみる。右手は
――残業帰りなのに。ああ、腹も減った。
そのとき、厚い雲からまあるい月が顔をのぞかせた。闇に慣れてきていた目がくらりと眩んで、彼も人も、ギュッと目を瞑った。ゆっくりまぶたを開けてみると、さっきよりも夜道が明るくて、さっきよりも遠くまで見渡すことができた。坂道を上がっていく、小さな人影を見つけた。
人影はじきにそこを上りきって、右へ曲がってまだ上る。その先はもっと危険だ。この季節であっても、急に吹雪いてくることが珍しくない。山の天候は予測不能だ。人は、最近テレビでみた若い天才スノーボーダーの事故のニュースを思い出して、眉間に皺を寄せた。
先ほどまでよりもやや駆け足で、人影を追いかける。正体は何者だろうか。地元の人間ではなさそうだ。無謀なやまガール?それとも向こう見ずなかんこうきゃく?なんにしろ、目についてしまったからには放っておくわけにいかない。チャンプルタウンの、自分たちの住む街のすぐ近くでこれから事故死などされようものなら、最高に後味が悪い。暫くメシが喉を通らなくなるかもしれない。それはごめんだ。
そこも上りきったところで、やっと人影の背中をすぐそこに捉えた。
「あの、すみません」
あまり大きな声は出なかった。それでも、人影は気付いて不思議そうにこちらを振り向いた。眼鏡を掛けた若い女の人だった。
左肘に小柄とはいえムクバードを留まらせ、右手に重たい鞄を二つまとめて持って坂を駆け上がった人は、さすがに息を切らしていた。そして、驚いてもいた。自分が追いかけていたのは、素行の悪い不良か、派手めな外国人か何かだと思っていた。目の前にいる彼女は、大人しそうで、どこか儚げで、とても予想とは違っていた。だからこんらんしてしまって、「なぜ」と思った。――ここにこの人は、似つかわしくない。
続けるに相応しい言葉が思い浮かばず、涼しく静かな草むらのなか、不可抗力で見詰め合う。欠片も悪意のないくろいまなざしというのが、実は存在していたらしい。瞳の深い黒に魅入られて、逸らすことができなかった。心臓がうるさくなってきて、風の音で誤魔化せているか、心配になった。
「あっ。私の鞄」
先に口を開いたのは彼女のほうだった。人の手にある鞄に目を落とし、なぜか、申し訳ないというより残念そうな表情を浮かべた。でも、それも一瞬だった。ぱっとすぐに人好きのする微笑みに切り替わって、タッタッとこちらに駆け寄ってくる。
「すみません、わざわざ」
「……いえ……これはあなたの物で間違いないですか」
「はい、私の鞄です。ありがとうございます」
「忘れて置いて行くような大きさでもないでしょう。どうして」
「……少し散歩したくなって。それ、重たいでしょう」
「一時置き、ですか。自分はいらんことをしましたか」
「いいえ!忘れ物と思って届けてくださったんですよね。私がややこしいことをしたせいであって……そんな、ご親切を『いらない』なんて。あの、持ちます」
彼女は旅行鞄を受け取り、ひかえめに頭を下げた。多分いらないことをしてしまったのに、こちらを邪険にしている風にはちっとも見えなかった。きっと、優しい人なのだろう。そう思ったら、よけいに「なぜ」の気持ちも強くなった。
「……どちらからお越しに?」
「えっと、シンオウからです」
「なるほど。北国といわれる地方ですね。それなら、自分の心配は無用なものかもしれませんが……この辺りは急に冷え込むことがありますから、そんな薄着でしかも夜に行くのは危ないですよ」
「そうなんですね。ご忠告ありがとうございます」
「それでも行くというなら、強引には止められませんが……宛ては?どこまで散歩されるおつもりで?」
きくと、彼女は目を泳がせた。やがて、登山道の奥へと続く方向に顔を向けて、そっと口を開く。
「……街をこっち側に出てすぐの場所から、大きくて立派な滝が見えて……そこまで行ってみようかと……」
「ああ……それなら、一つ左隣の道を行けばよかったんです。そうすれば、今頃は滝の下に着いていたでしょう」
「そうでしたか。そのぅ、因みに……その滝の
「……いえ、無理ですね。登山道を上りきって山を越えても無理です。あそこは山の上にあるフリッジタウン近くの水源から幾つも滝を経由した先にある最後の滝なので、ろくに道がありません。険しい崖が何段も……とても人の足では辿り着けんでしょう。そらをとべるポケモンに乗って行くなら話は別ですが」
前に手持ちのたよれるあいぼうのムクホークの背に乗せてもらい、近辺を飛び回ってパトロールしたときに見た景色を思い出しながら説明した。それはそれは誰かに教えたくなる素晴らしい絶景だったが、かなり飛行慣れしているひこうタイプのエキスパート相手でないと、危なくて下手に紹介できない。そういう場所だ。更にいえば、仮にあの場所に降り立てたとして、ゆきなだれが起きてしまう可能性も否定できない。
「……私、手持ちにそらをとべる子はいなくて。ふむ……そうですか。残念です。それにしても、ずいぶん地理にお詳しいのですね」
「まあ……パルデア暮らしが長いもので」
なんだか左手が手持無沙汰で、空色のネクタイをくいっと直してみた。そういえば、左肘に留まっていたムクバードの彼は、いつの間にか地べたに降りて二人の間に佇んでいた。彼女は今さら彼の存在に気付いて、目を丸くする。
「あれっ、またムクバードだ。……そうだ、きみに連れて行ってもらおうかな?」
「……それは無茶でしょう」
「へへ、ですね。ごめんね無理言って」
――むむ、お二人とも厳しい評価ですね。まあ……妥当なのですが。
彼は再び想像してみた。人をのせて、大空を飛んでいくムクホーク。いいなあ、キマってる。そういえば、彼はちょっと前に見掛けたことがあった。とても立派で強そうなムクホークと、その背に乗ってそらをとぶ、そこの人。
「とにかく今日は諦めてください。雪山で行き倒れたらシャレにならんでしょう」
「……そうします。あの、そのムクバード……あなたのポケモンですか?」
「いいえ、自分のではありません。でも近辺でよく見かける……まあ、顔見知りですね」
「野生の子なんですか?ふふっ、あまりそうは見えませんね。何だかひとになれてて」
言われて、彼はきょとんと首をかしげた。いっぽう、人はパッと見では視認が難しいくらい、ほんの僅かに口角を下げた。
「……そうですね」
それから彼と人はお互いを見上げて見下ろして、じっと黙った。今度は、彼女が首をかしげた。
「仲が良さそうですが……それでもゲットしないんですか?」
「はい……まあ……無理みたいなので」
「?」
「そんなことより、とっととチャンプルタウンに戻りましょう。どこか宿はとっていますか?それともポケモンセンター?」
「え、えーっと……実は、まだ……」
「……それはまた、女性一人なのにずいぶんと無茶な旅ですね。通りすがりのお節介が嫌でなければ、賑やかな通りにある無難なビジネスホテルに案内できますが……」
「では……お言葉に甘えて、その。お願いします」
彼女はそう言ってお辞儀をすると、体の前に提げ持っていた重たい旅行鞄のせいでバランスを崩して、ぐらり、ふらついた。けっこうな急な坂道でくだりを向いて転ぶとなると、けっこうシャレにならない。人は、反射的に彼女の身体を抱きとめた。鞄がみぞおちに直撃して、「ぐぅっ」と小さく声が漏れた。やれやれ、格好はつかなかった。
「っ! すみません!ぁ、あの、本当にすみません色々……」
「これくらい構わんですが……足元、気を付けてください」
「……はい」
「鞄、貸してください。自分が持ちます。元はと言えばここまで持って来てしまったのも自分ですし」
「さすがにそこまでは、悪いですよ」
「四の五の言わずに」
どんな顔をして、その台詞を言ったのか。人は、鏡がなければ自分で自分の顔は見られないから、まったく分かっちゃいないことだろう。正面からまともにくらった彼女はというと、鞄を取り落としそうになってあわあわしている。
「……どうしました?ほら」
「はっ はい、……あの、」
「何か?」
「……お優しいんですね。ありがとうございます」
逆もまた然り。当人は仕返しのつもりなんて全くなかっただろう。だが実に見事なカウンターだった。正面の人はもろにくらって、鞄を受け取りそびれかけてわたわたしている。
――話はつきましたか?では、行きましょう。ぼくも仲間たちのところへ帰ります。またお世話になりますね、よいしょ。さあ、出発進行です。
ばたばた、ぐりぐり、彼は行きと同じようにまた人の腕に留まらせてもらった。鞄二つにムクバード。大変そうだが、この人ならば問題ない。意外と力持ちだ。がんばれ、がんばれ。
人をのせて飛べない小柄なムクバードは、人にのせてもらって帰路につく。さっきよりも月明かりが優しい。彼は、一度だけ後ろを振り返ってみた。彼女が少し立ち止まって、名残惜しそうに坂の上を眺めている。……ん?名残惜しそう?本当に、そうだろうか。
彼は鳥目である。夜目が利かない。気のせいか、彼女が別の誰かとダブって見えた。なにか、大切なものを見落としているような心地がした。