これは夢だ。もう帰れない、遥かなる故郷のにおいがしている。もう会えない、大好きな人たちがいる。
「その荷さっさと貸せ、オレが運んでやる」
「余計なお世話よ。これは私のお仕事なの」
「四の五の言うな」
その台詞を言ってくるときの彼の顔といったら、文字面とは裏腹なもので、私には覿面 なのだ。とても傲慢で勝手な命令なのに、私への思いやりしか含んでいないだなんて、本当におかしな子。照れ隠しで口が悪くなる、優しい優しい、私の弟分。
「アンタがやったんじゃ時間の無駄だぜ。オレの方がちゃっちゃとやれる」
「そうやっていつもいつも取り上げるから、いつまで経っても私は非力だったのよ」
奪われざまに、空いた手の肉刺 を一瞥される。たまいしがいっぱいに敷き詰められた麹蓋 を軽々と運びだす背中はすっかり逞 しい。それなのに、こどもに戻ったみたいにむくれて謐 くのだ。
「重いもんを持つことなんざ、いつまでも男に任せてりゃよかったんだ。針と包丁が持ててりゃ、それで充分だったってのによ」
「女もやるときはやるの。やりたくて始めたの。というかそれ、ヨネやショウさんにも同じことを言えるのかしら?男の誰も敵 わないじゃない」
「ヨネは例外だろうがよ!……それに……ディアルガさまが認めたアイツとオマエが同じみてえに言うなよ」
あーあ、拗 ねちゃった。わかりやすい。わざわざこんな宿舎裏までやって来て、私に嫌味をぶつけたかったワケでもないでしょうに。いざ顔を合わせるとこういう言い方しか出来ないのだ。まったく不器用な天邪鬼 さんめ。
「そんなに私に外でお仕事させたくないって、なぁに?私のごはんが恋しくでもなった?今度のお休みにはコンゴウ集落にも帰るつもりだし、また作ってあげるってば」
「うるせえなあ、そりゃあ……まあ馳走にはなるがよ、オレが言いてえのは……」
「わかってる。危ないことはするなって言いたいんでしょう?」
「わかってんならなあ……」
「『他の団とも協力してポケモンにもっと歩み寄ろう』。そう言ったのはセキ、あなたでしょう。みなを導くリーダーが身内贔屓なんて、みっともないわよ」
「ああわかってる、わかってんだ、そんなことはよ。けどよお」
「なら、うだうだ言わない」
「あーあーったく、すぐに音を上げると見込んでいたってのに、うまくいかねえもんだ。よりにもよって誰よりも向いていたんだもんなあ」
「そうよ。自分で希望して調査隊に入って、そしてきちんとお役に立てているの。だから今後とも応援してちょうだいね、リーダー」
「……はいはいオレの負け!降参だ降参、もう止めやしねえよ。だがな」
これは夢だ。私をじわりじわりと愁殺 する、過ぎ果てた慢心の爪痕だ。彼をもきっと自責させた、何気なく重く契 った呪言 の回想だ。
「――オレはあんたが大切だから、こんなに情けねえほど心配しちまうんだよ。頼むから、それもわかっててくれよな」
「ふふ、ありがとう。弟分にこんなに思われて、私は果報者ね。私もあなたが大切よ」
「……これだから卑怯だよなあ」
これより暫くの後、忽然と姿を消した私に対して、彼はどんな念を抱いただろうか。嗚呼、なんて想像に易 い。そんなの決まっている。「あのくらいで降参なんかしてやるんじゃなかった」。「オレがもっと強く止めていれば」。「無理矢理にでも辞めさせておけば」。馬鹿。「それは、それだけは違う」と、「誰かがどうにか出来た事だったなんて思わないことね」と、言ってやりたい。言ってあげたいなあ。
言いたかったのになあ。場面は唐突に切り替わる。これは夢だ。なぞる度に遠くなる追憶だ。置いてきてしまった普通の幸せだ。
「あら、もっと遅くなるかと思ってたわ」
「ただいま、姉さん」
「おかえり、アケヒ」
調査を終えて宿舎に帰ると、いつも囲炉裏を焚 いて待っていてくれた。村一番の料理上手の姉さんが作ってくれるご飯は、私の働きがいをより強くしてくれた。がんばった後におうちに帰っていただくご飯は、どんな高価なごちそうよりも美味しかった。温かいおつゆは、味噌汁と醤油風味のすまし汁が、だいたい日替わりでぐるぐる。この日は何だか、ものすごく具沢山だったっけ。
「『おかげでまた新たに解明できた』って、ラベン博士ったらあなたのことう〜んと褒めて、とんでもなく喜んでいたわ。いえ、跳 んで跳 ねて、だったかしらね?ついさっきね、お礼にって、一等出来の良いお野菜をモリモリ持ってきてくれて」
「お、大袈裟だなぁ。そもそも博士の仮説が優秀なのよ。私は博士の調査依頼の通りに調べて、証拠を掴んでくるだけだもの」
「それを出来る人が中々いないから大助かりなんですって」
ポケモンを戦わせること、そしてポケモンを捕まえることにおいて、ショウさんの右に出る者はいない。彼女は誰よりも勇敢で、ときに無謀だ。でも必ずやり遂げて生還する。荒ぶるキングやクイーンと直接対決して見事に鎮 め、シンオウ様からも認められ、このヒスイの地を救ってみせた。今や誰もが認めるギンガ団の英雄。ところがそんな彼女にも、意外にも不得手なことはあるようで。
彼女は、前人未到の奥地だろうと臆せず飛び込み、そしてケロリとお目当てのポケモンを捕獲して帰ってくる。特にウォーグルと共に空を飛ぶさまは私の目には一心同体に見えた。空中で手を離して地面スレスレでまた掴まるとか、とても真似できない。肝が据わっているどころかトんでいる。ヒスイの陸海空を縦横無尽に自在に駆ける彼女にかかれば、分布調査はお手のものだった。しかし、ポケモン図鑑に記載する内容はポケモンの絵図、高さに重さ、分布だけではまだ足りない。ラベン博士は、ポケモンの生態を明記することこそ肝心だとしている。そう、ショウさんは、生態調査が苦手だった。
「何だったかしら、ラベン博士があなたが調べたって……あの、ゴロンとしてニャーとかいう」
「ゴローニャ」
「そうそのポケモン、脱皮して残していく岩の殻 がどう、とか?」
「脱いで捨てていく割に栄養豊富なの。不要だから脱ぐというより、単に体が大きく成長すると剥 がれちゃうだけみたい」
「そうそう、栄養があるんだって仰っていたわ」
「ごりごりミネラルが好物だってことも分かったのよ。それをよく食べているから、岩からなる体全体にミネラルが行き渡っているんでしょうね」
「たしか、ショウさんが捕まえたっていうオヤブンのゴローニャがナバナさんの畑を手伝っているわよね?ショウさんは知らなかったの?」
「ショウさんは……えっと、どんなポケモンにも手当たり次第にオレンの実ばかり投げるから……」
「えっ、そうなの?」
「そうなの!お金に糸目をつけないで、あのシュウゾウさんから収納術を教わっているくせに!せっかく鞄にいっぱい詰めておけるみたいなのに!変なところでもったいぶり屋さんでね」
「もったいぶり屋さん?」
「『投げるのはモンスターボールとフェザーボールと、あとはオレンの実とむしくいぼんぐりだけあれば大概なんとかなりますよ』とか言うのよ!でも、便利な道具もきのみも他に山ほど持っていること、私は知っているんだから」
「あらまぁ、うふふふ」
ショウさんは、自らが捕獲したムックルを連れて何度も調査に赴き、進化させて、とても強く立派なムクホークに育て上げている。それなのに、野生のムクバードは群れで、ムクホークは単独で暮らすという生態にすら気付けていなかったようなお人だ。ゴローニャの岩殻 のことも、色の違うトリトドンが縄張り争いをすることだって、彼女はよく知らないだろう。
二人でムクホークの話をしたのは、まだ私が調査隊に入りたての頃、ギンガ団本部の廊下で、だったか。「言われてみれば!そうですね!」と驚いたお顔は年相応で可愛らしくて、あの英雄ショウさんでも抜けているところがあるんだなぁ、なんか親近感が湧くなぁ、などと失礼なことを思ったりしたものだ。通りがかりのシマボシ隊長からはこっそり「頼んだぞ」なんて耳打ちもされてしまって、新入りの身ながら「私がお力添えしなければ」と、気が引き締まったことを覚えている。
「……ねぇ、ゴローニャって凄く大きくて重たいポケモンでしょう?お願いだから、怪我しないように気を付けてちょうだいね」
「そりゃ私だって命は惜しいもの。どんなポケモンが相手でも気を抜いたりしないわ。かわいいスボミーにだってどくのトゲがあるのよ」
「本当に?ついこの前、ショウさんが抱っこして村の子たちに見せて回っていたけれど……」
「……やっぱり、うっかり怪我して休隊なんて絶対していられないわね」
「ふふっ、ショウさんにはアケヒがついていてあげないとね?」
「そうかもね。それに、姉さんの結婚式も見ないうちには死ねないわ」
「ちょっ、ちょっと……!」
これは夢だ。私に永劫のしかかり続ける後悔が、更に膨 れ上がるために見せてくる罠だ。姉さんに一生ものの心の傷を負わせたであろう姉不幸者への、至極順当な罰だ。
「こんばんは。ごめんくださいませ」
「おっと、噂をすればですよ?姉さん」
「アケヒっ」
「はーいどうぞー!いらっしゃいノボリさん!」
「おやアケヒさま、お帰りでしたか。本日のお勤めも大変お疲れさまでございました」
「ノボリさんもね!あっ、ご飯お先にいただいてます」
「わ、私、用意しますから。ノボリさんはどうぞお座りに――」
「いえいえ、ご相伴 に与 らせていただく身ですから、自分で。アケヒさまとご一緒にお召し上がりになっていてくださいませ」
最初の頃は、姉さんまで無理してコトブキ村に付いて来なくても良かったのに、と思っていた。でもいつからか、姉さんのお目当ては実は妹の私のお世話を焼くことだけではないようだ、と勘付いていた。
姉さんを奪 られちゃうみたいな気がして、ちょっと悔しいなぁとも思ったけれど、姉さんが幸せになってくれるなら、それは私にとっても何よりの喜びだったから。
「……とっても良い旦那様になりそうよね?」
「〜〜っ、アケヒ……!」
「? いま何か仰いましたか?」
「はい!今日のおつゆは具沢山で美味しいですよ!姉さんがいつにも増して腕を揮 ってくれたので!」
「それはそれは、楽しみです」
こんなに温かな空間を過ごせる時は二度と戻りはしない。二人の幸せも見届けてあげられないまま、後生も何も知れぬまま。いつかは共に囲む食卓からお暇 しようとは思っていた。でも、こんな形でなんて望んじゃいなかった。嗚呼、私が抜けた食卓で二人はどんな顔をしているか。私のことを全部忘れてくれていたらどんなにいいか。お願い忘れて、幸せになって、こんな妹のことは案じてくれなくていいから。無理。そんなワケはない。二人はずっと私の安否を気に掛けてくれていたことだろう。いつまでも、いついつまでも。ねぇ、結婚式、ちゃんと挙げた?私に見せられなくても、私が見られなくてもさ。
夢でもいいから見たかったなぁ。明るい食卓が暗転する。これは夢だ。失った平穏を再度突き付けてくる非現実の再現だ。戻らない時間を空想の中でだけ巻き戻してみる現実逃避の限界だ。
「アケヒは近いうちに結婚したりしないの?」
「しない」
「えー?デンボクさんがアケヒにいくつかお見合い話もってきてたって聞いたのになぁ」
「お断りしたわ」
「えー?しなよ結婚!……あ。ねぇ、その……もしかして、まだニアさんのこと……」
「もう、かしましい髪結いさんだこと。そんなに言うならヒナツ、あなたがしちゃいなさいな」
「あ、あたしにはまだ早いって!」
「口ばかり動かさず手を動かしなさい」と言いたくなるが、手が止まっているわけでもないのでその文句は使えない。先代のサワさんが「安心して任せられる」と太鼓判を押した腕前だ。調査任務で少々ヘマをして焦がしてしまった毛先が、細いハサミで軽やかに切り落とされる。だいぶ短くなってはしまうが、出来るだけ見目は良いように、流れるように整えられていく。
向こうで順番待ちの椅子に腰掛けている弟分その二は、美しく巻かれている髪をくるくるいじり、視線は鏡に向けたまま、得意そうに呟 くのだ。
「ヒナツは先日見たシンジュ団の花嫁のような髪や衣装をまた見たいがために、そんなおませを言っているのだろう?フフン、このツバキにはお見通しだよ」
「見たいっていうか、その……やってあげたいというか……」
「花嫁さんの髪結いを?」
「うん!普段は着けないような華やかな飾りをあしらって、たっぷりとさせて……」
「ですってツバキ。ふふっ、何がお見通しよ、ハズレよハズレ」
「なんだようニヤニヤして!ボクはワサビではないのですから、そんなときもあるさ!」
「呼んだ?」
「うわあ!急に出てくるなよう!心臓に悪いぜ」
ツバキの背後にある窓から店内を覗き込んできたワサビは、「あたしも入れて」とお喋りの輪に加わる。自由奔放なワサビは、姿を見掛けない日が続くこともある。だから、会う度に背丈が少しずつ伸びていたように思う。成長期真っ盛りだと、女子でも三日会わざれば何とやらだ。
「アケヒさん、髪を焼かれてしまったのね」
「うん。火吹き島で溶岩に浸かっているブーバーを観察していたら、後ろからトコトコ来ていたブビィに気付くのが遅れちゃって」
「まったく、気を付けておくれよ。それも大概心臓に悪い話だからね」
「アケヒの髪、長くてキレイだったから残念だけど……これくらいで済んでよかったよ」
「ススキさんがくれたおまもりのおかげかも?エイパム山の小屋に寄ると、毎回何かしら持たせてくれるのよね」
「あの人、怖がりで心配性だもんね。でもねアケヒさん、おまもり、もっと持ち歩いた方がいいかもよ?」
「……ワサビ、もしかして私がまたヘマする未来でも見えた?」
「あたしはアケヒさんの未来が見えた?それとも見えなかった?さて、どっち?」
千里眼をもつワサビの、いつものお決まりの問いかけ。私もヒナツもツバキも慣れっこだったはずなのに、このときは揃って小さく息を呑んだ。けれど静まったのも一瞬のこと。ガラッと入口の戸が開かれたかと思えば、すかさずヨネの喝が飛んでくる。
「邪魔するよ!こらあんたたち、忘れていないだろうね!?年に一度の祭りが近いから人手がいるんだ、くっちゃべってないでさっさとしな!」
「ごめんもうちょっと!アケヒ、ちょうど出来上がりだよ。どうかな?」
「いい感じよ、ありがとうヒナツ。首元が少しスースーするけど、まぁ慣れるでしょう」
「待ってよ!次はツバキの番のはずだろう!?どうしてくれるんだよう、散髪してもらってサッパリしてから手伝おうと思っていたのに!」
「ごちゃごちゃうるさいね!伸びた髪が鬱陶しいならワサビみたいに結っちまえばいいじゃないか!」
「おさげ髪のツバキ、似合う?似合わない?さて、どっち?」
「似合うはずがないんだよう!?」
これは夢だ。私が愛おしんで止まない、細 やかで和 やかで溢 れてしまった日常だ。みんなの笑う声が絶えない、賑 やかで晴れやかでありふれていた奇跡だ。
「ほらとっとと行くよ!みんな着いて来な!」
「はーい!……あのねアケヒさん、後でおまもり、あげるからね!」
「あたしも!お参りして買ってこようっと」
「ではボクからも差し上げよう!あなたは危なっかしいからね」
「ん?なんだいアケヒ、モテ期かい?それならあたしからも何かくれてやろうか!出店 で何か気に入ったもんがあれば遠慮せず言いな」
「いいの?やった!みんなありがとう」
先のことが分かっていたら、離ればなれになると知っていたら、皆の声を、呼吸すらも聞き漏らさないように、表情を網膜に焼き付けるように、もっと一瞬一瞬を一分 の隙もなく心に刻むようにして、大切に過ごしたのに。でも、それは無理な相談だ。実際は後から気付くことばかりなのだ。
ワサビはとても優しい子だ。天冠 の山麓で起きた大大大発生で困っている人を見たときも、純白の凍土で怪我をして動けなくなった人を見たときも、躊躇 いなく真っ先に助けに向かうような子だ。そんな子が、後に私に降りかかる変事を具体的に予知できていたなら、どうして教えずにいられるだろうか。千里眼だって万能ではない。あの子のそれは、意思で制御して使いこなせるような代物ではなく、予告なしに与えられる天啓に近しいものだった。どんな未来が見えても、見えなくても、ワサビはなにも悪くない。だがそれでも、優しいあの子は要らぬ自罰をしたことだろう。どうか、あの無垢で明るい笑顔が、私を思って陰 ることなどありませんでしたように。
――そろそろ、目が覚める頃だ。
ただいまの時刻は午前七時。ベッド際の壁に埋め込まれているデジタル時計のアラームが鳴りだした。
ここは無難なビジネスホテルの客室だ。格安というわりには隙間風ひとつだって吹かない堅牢な造りである。素晴らしい建築技術だ。建築隊のサザンカさんだったら目を輝かせて隅々まで見て回ることだろう。
きなり色の遮光カーテンを開けると、今日は生憎の雨模様だった。空高くには、ころころ豆のまめつぶほどに見える飛行機が二便行き交っている。眼前には、見渡す限りに大小様々なビルが立ち並んでいる。それぞれ高さも向きもばらばらで、壁の素材や色はまちまちで、整然とは言い難い。気取った雰囲気が全然しない、賑々 しくごちゃついた印象の街だ。コトブキ村とは似ても似つかない。
これは現実だ。
私の大好きな人たちは、もう誰もこの世にいない。私は遠い未来の世界に飛んできてしまった。それももう何年も前の話である。時と運は、唐突に冷徹に、皆と私を隔 ててしまった。私が皆の元へ行くには、おそらく死んであの世に逝くしか方法はないのだ。
でも、おまもりが私の命だけは守ってくれたから。皆が心を込めて贈ってくれたものが、私を生かしたから。それが厚意の結果だったから。自死することはつまり、もらった厚意を否定して裏切ることと同意になってしまうから。だから、なかなか踏み切れないのだろう。潔く割りきって、とびきり振り切ってしまいたいのに、飛びきれない。
もう帰れないのかな。帰れないんだろうな。
現状を変えられたらな。変えられないよな。
過去に戻れたらな。戻れるわけがないよな。
……いいや、私は未来に飛ばされてきたのだ。だったら、過去に飛ぶまさか だってあるかもしれない。そんなふうに考えてしまって、どうしても諦めきれないでいる。頭を打って何か忘れたなら、同じようにしてもう一度打てば思い出せる……とかいう、古くからありがちな迷信の類でしかないけれど。
私は意を決しないまま「どうにかなれ」と飛びたがる。あの変事 の再現が叶いそうな崖を見ると、つい。ここから飛んだら帰れるかも、戻れるかも、と。崖縁に隣り合う底なしの闇の底に、一縷の希望があるのではと夢みてしまう。再現が叶って時を渡れたら万々歳。物理法則にしたがって落下しただけの場合でも、大好きな皆が待っているであろうあの世行きなら、それはそれで構わないとすら思う。「命を粗末にして」と方々 から怒られそうだが、私にとって、この自殺行為は同時に生きる希望の体現でもあるのだ。ややこしいだろうが本心だ。
実は昨日も飛ぼうとしていた。しかしそれは未遂の失敗に終わった。親切なあの背広の人の忠告を無視してまで敢行するのはやめておいた。こんな狂気の沙汰は、人目に晒してやるものではない――重い後悔と未練をズルズルと引き摺ってすれきった心でも、それくらいの自制は利いた。
この未来の世界においては、私の生まれも育ちも誰一人にも知られていない。私という人を知る人はいない。人であるかを問われて応と即答する自信もとうに失ってしまった。私の最初の二十余年を私と少しも共有していないこの世界では、私の存在を証明できるものは何一つない。戸籍も、身内も、知己もない。私の存在はおぼろげだ。不確かだ。間違いみたいだ。まるで幽霊と変わりがない。そのくせ、消えることも出来ずにいる。
私はまだ夢みている。元いた時代、ありし日の生まれ故郷に帰ることを。ありもしない、夢みがちだと知りながら。
「その荷さっさと貸せ、オレが運んでやる」
「余計なお世話よ。これは私のお仕事なの」
「四の五の言うな」
その台詞を言ってくるときの彼の顔といったら、文字面とは裏腹なもので、私には
「アンタがやったんじゃ時間の無駄だぜ。オレの方がちゃっちゃとやれる」
「そうやっていつもいつも取り上げるから、いつまで経っても私は非力だったのよ」
奪われざまに、空いた手の
「重いもんを持つことなんざ、いつまでも男に任せてりゃよかったんだ。針と包丁が持ててりゃ、それで充分だったってのによ」
「女もやるときはやるの。やりたくて始めたの。というかそれ、ヨネやショウさんにも同じことを言えるのかしら?男の誰も
「ヨネは例外だろうがよ!……それに……ディアルガさまが認めたアイツとオマエが同じみてえに言うなよ」
あーあ、
「そんなに私に外でお仕事させたくないって、なぁに?私のごはんが恋しくでもなった?今度のお休みにはコンゴウ集落にも帰るつもりだし、また作ってあげるってば」
「うるせえなあ、そりゃあ……まあ馳走にはなるがよ、オレが言いてえのは……」
「わかってる。危ないことはするなって言いたいんでしょう?」
「わかってんならなあ……」
「『他の団とも協力してポケモンにもっと歩み寄ろう』。そう言ったのはセキ、あなたでしょう。みなを導くリーダーが身内贔屓なんて、みっともないわよ」
「ああわかってる、わかってんだ、そんなことはよ。けどよお」
「なら、うだうだ言わない」
「あーあーったく、すぐに音を上げると見込んでいたってのに、うまくいかねえもんだ。よりにもよって誰よりも向いていたんだもんなあ」
「そうよ。自分で希望して調査隊に入って、そしてきちんとお役に立てているの。だから今後とも応援してちょうだいね、リーダー」
「……はいはいオレの負け!降参だ降参、もう止めやしねえよ。だがな」
これは夢だ。私をじわりじわりと
「――オレはあんたが大切だから、こんなに情けねえほど心配しちまうんだよ。頼むから、それもわかっててくれよな」
「ふふ、ありがとう。弟分にこんなに思われて、私は果報者ね。私もあなたが大切よ」
「……これだから卑怯だよなあ」
これより暫くの後、忽然と姿を消した私に対して、彼はどんな念を抱いただろうか。嗚呼、なんて想像に
言いたかったのになあ。場面は唐突に切り替わる。これは夢だ。なぞる度に遠くなる追憶だ。置いてきてしまった普通の幸せだ。
「あら、もっと遅くなるかと思ってたわ」
「ただいま、姉さん」
「おかえり、アケヒ」
調査を終えて宿舎に帰ると、いつも囲炉裏を
「『おかげでまた新たに解明できた』って、ラベン博士ったらあなたのことう〜んと褒めて、とんでもなく喜んでいたわ。いえ、
「お、大袈裟だなぁ。そもそも博士の仮説が優秀なのよ。私は博士の調査依頼の通りに調べて、証拠を掴んでくるだけだもの」
「それを出来る人が中々いないから大助かりなんですって」
ポケモンを戦わせること、そしてポケモンを捕まえることにおいて、ショウさんの右に出る者はいない。彼女は誰よりも勇敢で、ときに無謀だ。でも必ずやり遂げて生還する。荒ぶるキングやクイーンと直接対決して見事に
彼女は、前人未到の奥地だろうと臆せず飛び込み、そしてケロリとお目当てのポケモンを捕獲して帰ってくる。特にウォーグルと共に空を飛ぶさまは私の目には一心同体に見えた。空中で手を離して地面スレスレでまた掴まるとか、とても真似できない。肝が据わっているどころかトんでいる。ヒスイの陸海空を縦横無尽に自在に駆ける彼女にかかれば、分布調査はお手のものだった。しかし、ポケモン図鑑に記載する内容はポケモンの絵図、高さに重さ、分布だけではまだ足りない。ラベン博士は、ポケモンの生態を明記することこそ肝心だとしている。そう、ショウさんは、生態調査が苦手だった。
「何だったかしら、ラベン博士があなたが調べたって……あの、ゴロンとしてニャーとかいう」
「ゴローニャ」
「そうそのポケモン、脱皮して残していく岩の
「脱いで捨てていく割に栄養豊富なの。不要だから脱ぐというより、単に体が大きく成長すると
「そうそう、栄養があるんだって仰っていたわ」
「ごりごりミネラルが好物だってことも分かったのよ。それをよく食べているから、岩からなる体全体にミネラルが行き渡っているんでしょうね」
「たしか、ショウさんが捕まえたっていうオヤブンのゴローニャがナバナさんの畑を手伝っているわよね?ショウさんは知らなかったの?」
「ショウさんは……えっと、どんなポケモンにも手当たり次第にオレンの実ばかり投げるから……」
「えっ、そうなの?」
「そうなの!お金に糸目をつけないで、あのシュウゾウさんから収納術を教わっているくせに!せっかく鞄にいっぱい詰めておけるみたいなのに!変なところでもったいぶり屋さんでね」
「もったいぶり屋さん?」
「『投げるのはモンスターボールとフェザーボールと、あとはオレンの実とむしくいぼんぐりだけあれば大概なんとかなりますよ』とか言うのよ!でも、便利な道具もきのみも他に山ほど持っていること、私は知っているんだから」
「あらまぁ、うふふふ」
ショウさんは、自らが捕獲したムックルを連れて何度も調査に赴き、進化させて、とても強く立派なムクホークに育て上げている。それなのに、野生のムクバードは群れで、ムクホークは単独で暮らすという生態にすら気付けていなかったようなお人だ。ゴローニャの
二人でムクホークの話をしたのは、まだ私が調査隊に入りたての頃、ギンガ団本部の廊下で、だったか。「言われてみれば!そうですね!」と驚いたお顔は年相応で可愛らしくて、あの英雄ショウさんでも抜けているところがあるんだなぁ、なんか親近感が湧くなぁ、などと失礼なことを思ったりしたものだ。通りがかりのシマボシ隊長からはこっそり「頼んだぞ」なんて耳打ちもされてしまって、新入りの身ながら「私がお力添えしなければ」と、気が引き締まったことを覚えている。
「……ねぇ、ゴローニャって凄く大きくて重たいポケモンでしょう?お願いだから、怪我しないように気を付けてちょうだいね」
「そりゃ私だって命は惜しいもの。どんなポケモンが相手でも気を抜いたりしないわ。かわいいスボミーにだってどくのトゲがあるのよ」
「本当に?ついこの前、ショウさんが抱っこして村の子たちに見せて回っていたけれど……」
「……やっぱり、うっかり怪我して休隊なんて絶対していられないわね」
「ふふっ、ショウさんにはアケヒがついていてあげないとね?」
「そうかもね。それに、姉さんの結婚式も見ないうちには死ねないわ」
「ちょっ、ちょっと……!」
これは夢だ。私に永劫のしかかり続ける後悔が、更に
「こんばんは。ごめんくださいませ」
「おっと、噂をすればですよ?姉さん」
「アケヒっ」
「はーいどうぞー!いらっしゃいノボリさん!」
「おやアケヒさま、お帰りでしたか。本日のお勤めも大変お疲れさまでございました」
「ノボリさんもね!あっ、ご飯お先にいただいてます」
「わ、私、用意しますから。ノボリさんはどうぞお座りに――」
「いえいえ、ご
最初の頃は、姉さんまで無理してコトブキ村に付いて来なくても良かったのに、と思っていた。でもいつからか、姉さんのお目当ては実は妹の私のお世話を焼くことだけではないようだ、と勘付いていた。
姉さんを
「……とっても良い旦那様になりそうよね?」
「〜〜っ、アケヒ……!」
「? いま何か仰いましたか?」
「はい!今日のおつゆは具沢山で美味しいですよ!姉さんがいつにも増して腕を
「それはそれは、楽しみです」
こんなに温かな空間を過ごせる時は二度と戻りはしない。二人の幸せも見届けてあげられないまま、後生も何も知れぬまま。いつかは共に囲む食卓からお
夢でもいいから見たかったなぁ。明るい食卓が暗転する。これは夢だ。失った平穏を再度突き付けてくる非現実の再現だ。戻らない時間を空想の中でだけ巻き戻してみる現実逃避の限界だ。
「アケヒは近いうちに結婚したりしないの?」
「しない」
「えー?デンボクさんがアケヒにいくつかお見合い話もってきてたって聞いたのになぁ」
「お断りしたわ」
「えー?しなよ結婚!……あ。ねぇ、その……もしかして、まだニアさんのこと……」
「もう、かしましい髪結いさんだこと。そんなに言うならヒナツ、あなたがしちゃいなさいな」
「あ、あたしにはまだ早いって!」
「口ばかり動かさず手を動かしなさい」と言いたくなるが、手が止まっているわけでもないのでその文句は使えない。先代のサワさんが「安心して任せられる」と太鼓判を押した腕前だ。調査任務で少々ヘマをして焦がしてしまった毛先が、細いハサミで軽やかに切り落とされる。だいぶ短くなってはしまうが、出来るだけ見目は良いように、流れるように整えられていく。
向こうで順番待ちの椅子に腰掛けている弟分その二は、美しく巻かれている髪をくるくるいじり、視線は鏡に向けたまま、得意そうに
「ヒナツは先日見たシンジュ団の花嫁のような髪や衣装をまた見たいがために、そんなおませを言っているのだろう?フフン、このツバキにはお見通しだよ」
「見たいっていうか、その……やってあげたいというか……」
「花嫁さんの髪結いを?」
「うん!普段は着けないような華やかな飾りをあしらって、たっぷりとさせて……」
「ですってツバキ。ふふっ、何がお見通しよ、ハズレよハズレ」
「なんだようニヤニヤして!ボクはワサビではないのですから、そんなときもあるさ!」
「呼んだ?」
「うわあ!急に出てくるなよう!心臓に悪いぜ」
ツバキの背後にある窓から店内を覗き込んできたワサビは、「あたしも入れて」とお喋りの輪に加わる。自由奔放なワサビは、姿を見掛けない日が続くこともある。だから、会う度に背丈が少しずつ伸びていたように思う。成長期真っ盛りだと、女子でも三日会わざれば何とやらだ。
「アケヒさん、髪を焼かれてしまったのね」
「うん。火吹き島で溶岩に浸かっているブーバーを観察していたら、後ろからトコトコ来ていたブビィに気付くのが遅れちゃって」
「まったく、気を付けておくれよ。それも大概心臓に悪い話だからね」
「アケヒの髪、長くてキレイだったから残念だけど……これくらいで済んでよかったよ」
「ススキさんがくれたおまもりのおかげかも?エイパム山の小屋に寄ると、毎回何かしら持たせてくれるのよね」
「あの人、怖がりで心配性だもんね。でもねアケヒさん、おまもり、もっと持ち歩いた方がいいかもよ?」
「……ワサビ、もしかして私がまたヘマする未来でも見えた?」
「あたしはアケヒさんの未来が見えた?それとも見えなかった?さて、どっち?」
千里眼をもつワサビの、いつものお決まりの問いかけ。私もヒナツもツバキも慣れっこだったはずなのに、このときは揃って小さく息を呑んだ。けれど静まったのも一瞬のこと。ガラッと入口の戸が開かれたかと思えば、すかさずヨネの喝が飛んでくる。
「邪魔するよ!こらあんたたち、忘れていないだろうね!?年に一度の祭りが近いから人手がいるんだ、くっちゃべってないでさっさとしな!」
「ごめんもうちょっと!アケヒ、ちょうど出来上がりだよ。どうかな?」
「いい感じよ、ありがとうヒナツ。首元が少しスースーするけど、まぁ慣れるでしょう」
「待ってよ!次はツバキの番のはずだろう!?どうしてくれるんだよう、散髪してもらってサッパリしてから手伝おうと思っていたのに!」
「ごちゃごちゃうるさいね!伸びた髪が鬱陶しいならワサビみたいに結っちまえばいいじゃないか!」
「おさげ髪のツバキ、似合う?似合わない?さて、どっち?」
「似合うはずがないんだよう!?」
これは夢だ。私が愛おしんで止まない、
「ほらとっとと行くよ!みんな着いて来な!」
「はーい!……あのねアケヒさん、後でおまもり、あげるからね!」
「あたしも!お参りして買ってこようっと」
「ではボクからも差し上げよう!あなたは危なっかしいからね」
「ん?なんだいアケヒ、モテ期かい?それならあたしからも何かくれてやろうか!
「いいの?やった!みんなありがとう」
先のことが分かっていたら、離ればなれになると知っていたら、皆の声を、呼吸すらも聞き漏らさないように、表情を網膜に焼き付けるように、もっと一瞬一瞬を
ワサビはとても優しい子だ。
――そろそろ、目が覚める頃だ。
ただいまの時刻は午前七時。ベッド際の壁に埋め込まれているデジタル時計のアラームが鳴りだした。
ここは無難なビジネスホテルの客室だ。格安というわりには隙間風ひとつだって吹かない堅牢な造りである。素晴らしい建築技術だ。建築隊のサザンカさんだったら目を輝かせて隅々まで見て回ることだろう。
きなり色の遮光カーテンを開けると、今日は生憎の雨模様だった。空高くには、ころころ豆のまめつぶほどに見える飛行機が二便行き交っている。眼前には、見渡す限りに大小様々なビルが立ち並んでいる。それぞれ高さも向きもばらばらで、壁の素材や色はまちまちで、整然とは言い難い。気取った雰囲気が全然しない、
これは現実だ。
私の大好きな人たちは、もう誰もこの世にいない。私は遠い未来の世界に飛んできてしまった。それももう何年も前の話である。時と運は、唐突に冷徹に、皆と私を
でも、おまもりが私の命だけは守ってくれたから。皆が心を込めて贈ってくれたものが、私を生かしたから。それが厚意の結果だったから。自死することはつまり、もらった厚意を否定して裏切ることと同意になってしまうから。だから、なかなか踏み切れないのだろう。潔く割りきって、とびきり振り切ってしまいたいのに、飛びきれない。
もう帰れないのかな。帰れないんだろうな。
現状を変えられたらな。変えられないよな。
過去に戻れたらな。戻れるわけがないよな。
……いいや、私は未来に飛ばされてきたのだ。だったら、過去に飛ぶ
私は意を決しないまま「どうにかなれ」と飛びたがる。
実は昨日も飛ぼうとしていた。しかしそれは未遂の失敗に終わった。親切なあの背広の人の忠告を無視してまで敢行するのはやめておいた。こんな狂気の沙汰は、人目に晒してやるものではない――重い後悔と未練をズルズルと引き摺ってすれきった心でも、それくらいの自制は利いた。
この未来の世界においては、私の生まれも育ちも誰一人にも知られていない。私という人を知る人はいない。人であるかを問われて応と即答する自信もとうに失ってしまった。私の最初の二十余年を私と少しも共有していないこの世界では、私の存在を証明できるものは何一つない。戸籍も、身内も、知己もない。私の存在はおぼろげだ。不確かだ。間違いみたいだ。まるで幽霊と変わりがない。そのくせ、消えることも出来ずにいる。
私はまだ夢みている。元いた時代、ありし日の生まれ故郷に帰ることを。ありもしない、夢みがちだと知りながら。