むこのちまなこ –はなあらし–
――おや、聞いてくれるんだ?
どうもありがとう。
でもホント長くなりそうだからさ、キミがぜーんぶ聞き流しちゃったとしても、ボクはとやかく言わないよ。
聞き進むのが怖くなったら、途中で止めて引き返したっていい。
逆に、深く聞き入ってくれても勿論いいけど、息をするのは忘れないでね?苦しませるのは本意じゃないんだ。
ヘヘ、お酒がまずくなっちゃったらゴメンネ?
――どうか溺れないでついてきて。
***
春うらら。陽気に誘われるまま、少年は縁側で昼寝をしていた。自分の家でもないのに、此処は我が定位置であると言わんばかりに毎日のように陣取るものだから、兄からは「やぁでかい猫だな」とよく
「起きて下さい。春水さん、起きて下さい」
「ん……んん……」
「ほら、起きて」
「…ああ。おはよう。
優しくゆり
「今日は何か集まりがあると聞きましたよ。そろそろ支度なさらなくては」
「……そうだった。あーあ、面倒だなぁ」
瀞霊廷に暮らす上級貴族の次男坊には、寝ているだけの毎日など許されない。大人たちが見栄を張り合う退屈な社交場に付き添ったり、同年代の交流を目的とした学堂会や子供組にも程々に参加したりしなければならなかった。
あちらこちらの貴族が集う場というのは、いつだって将来の縁組のための品定めに精を出すいやらしい目で溢れている。少年はそれが大嫌いだった。恵まれた環境にいる者の無い物ねだりであるとは自分でも理解していたが、もっと気楽で、義務も責任も
「兄貴が仕事じゃなかったら代わりに行ってもらうのに……」
「ふふ、そう言わずに。新しい友人ができるかも知れない折角の機会なのですから」
義姉はさんざん“家”に縛られてきた人だ。だからこそ、家の外との繋がりが多いならそれに越したことはないという考えを持っていた。人との出会いは大切に。情けは人の為ならず。いつかいざという時、その縁が助けになってくれるかも知れません――そんな風に言われてしまえば、少年は毎度頷いて支度をするしかなくなるのだ。
その日の集まりというのは、道楽に
春水少年は両親と一緒に会場を回った。遠い親戚にあたる人の発表を義理で聞いてウトウトしたり、高名な先生の解読不能な書を適当に褒めたり、買い手が殺到しているらしいが何を表現したかったのかイマイチ分からない丸っこくて珍妙な立体物の前で目を眇めたりした。
両親が立ち止まって誰かと挨拶をする度に、はてこの人は誰だったかと頭を捻る。大概は分からず仕舞いだったが、一応全員にぺこぺこと愛想良くお辞儀をしておいた。春水少年は、このままではそろそろ
やっと両親から付き添いの御役を御免してもらって、やや覚束ない足取りで人気のない場所を求めて歩いた。好きな所を見て回って良いと言われたが、どこか隅っこか裏っ
そうしてふらふらと辿り着いたのは、寂びれた離れ
誰もいないのであれば、別に馬小屋だって構わないさ。この時は本当にそんな気分だった。ここの縁側はどんな具合か気になって、外から回ってみることにした。湿った石畳の片脇には、
離れ家の角まで行き着くと、日向の方から、薄桃色の
春水少年は息を殺し、覚悟を決めて日向に踏み出た。覚悟とは言うが、この時のこれはただの蛮勇である。当時の彼はまだ武術の心得など無いに等しいへっぽこだった。もし辻斬りなんかに出会したら、もれなく人生が終了する。
赤い少年がいた。
桜の木の幹に背を預けて瞼を閉じ、まるで眠っているみたいだった。顔の左半分にある大きな痣は、生まれついてのものだろうか。彼が着ている着物は、彼から流れ出ていく血液がたっぷりと染みたせいで変色していた。元は何色だったのかなんて判らない。着物がとうとう吸いきらなくなって地面に垂れ溜まった血が、周囲に散っていた花弁の色を染め変えていた。
人生で初めて
面倒事は嫌で嫌だが、このまま放っておく訳にもいくまい。文化会実行委員の中でも比較的真面そうな大人にこそっと報告するのが最善だろうか等と思案しながら、遺体から少し離れた場所に膝を突いて合掌した。第一発見者として、お祈りくらいはしておくべきかと思って取った行動だった。
「……まだ仏さまになっちゃいないんだが?」
びっくりが過ぎて、口から心臓が飛び出るかと思った。反射で目をかっ開くと、前方の赤い少年も目を開いていて、がっつんと視線がぶつかった。彼は瞳までもが赤かったが、最初に見た姿が
「だっ、な、なにキミ生きっ、生きてんの!?それで!?……大丈夫!?いやダイジョブ!しっかるぃし、て!」
「君がしっかりしろ。そう騒がずとも大事ない」
「嘘だァそんな血だらけで!お医者さん呼んでくるよッ!?」
「あー……頼むから、それだけはやめてくれ」
「なんで!?」
「それよりだ、其処に転がってる刀でもう一突きしてみる気はないか」
「どうして!?」
「それで俺が死んだなら、君は英雄になれよう」
「頼むから助けてくれ」ならまだ分かったが、ちんぷんかんぷんだった。こんなに意味の分からない事態も当然初めてで、まだただ死んでくれていた方が心臓に悪くなかったなんて、最低な冗談だ。
「キミの言ってること全然わかんない!やるもんか!」
「……そう。まぁ、いいさ。死に場所はまた別にあるのだろう」
「ねぇ、いったい誰にやられたの」
「さぁ?初めて見る顔ぶれだった。どこかの御家に新しく雇われた人らじゃないか」
「ア…暗殺ってことかい?それに……どういう意味?もしかして、こんなこと初めてじゃないの?」
「そ、中途半端な斬り込みだけ入れていかれてこの様よ。向こう
「は……?ボクとそう年変わらなそうなのに、キミなんかやらかしたの?実は大悪人とか?」
「悪事を働いた覚えはない。だが、そうさなぁ。言うならば、生まれてきてしまった」
一方的に
「色々訊いといてなんだけど、もっと意味わかんなくなった……」
「それで
「……キミ、どこの家の子なの?お医者さんが嫌なら親御さん呼んでこようか?」
「…ふ。ふふっ……」
「なに笑ってんのよ!?」
「不快にさせたならすまない、馬鹿にするつもりはない。しかし君、少々世間知らずだな。今時めずらしい程の」
「……馬鹿にするつもりなくてソレなの?ウソでしょ?」
赤い少年が微笑む。機微には
「君、貴族の集まり事には消極的かい?」
「顔出さないで万事済むなら、それがいいやと思ってる」
「ほう。同年代の友人はいないのか?」
「……
「成程、最低限ってこと。噂話や愚痴は好かない?」
「言っても聞いても腹が立ってくるだけじゃない、そういうの」
「真面でご尤も。……ふむ。だがそれだと浮いてしまわんか?放り込まれる度に嫌々していたのでは、ろくに解け込めてないのだろ」
「なに?解け込むために
ややムキになって言い返せば、彼は困ったように眉尻を下げた。春水少年は「困ったやつはどっちだよ」と胸の内で毒づいたが、彼が心から忠言してくれているのだということは何となく察してしまったから、その毒は
赤い少年はゆっくりと立ち上がった。さも普通に動いていることに目を
「しかしまあ、次の機会には下衆の会話にも多少は耳を傾けてみるとよかろ」
「気が進まないね、得体の知れない
「そりゃすまんな。しかし興が乗らんでも、案外そういう
赤い少年はもうそろそろ赤黒い少年になってきていたが、両瞳の赤だけはまだ鮮血の色を保っている。彼は「じゃあな」と言ってこちらに背を向けた。どこに帰るのか知らないが、どこかには帰るのだろう。そんな全身血塗れで。……独り。
心の底から以後関わり合いたくないと思ったが、それでも思わず、掛けてしまった。
「――君、何してくれてる?汚れるぞ」
「もう汚れたよ。だからハイ、これはあげる。返さなくていいから」
自分が羽織っていた鳶色の上着を、彼の肩に、掛けた。
「そんな節介焼かずとも……ちゃんと人の目汚さず触れないように帰れたよ、俺は」
「ボクの目の前で思いっきりドバドバダバダバしてたでしょうが。ボクのこともちゃんと人扱いしてよね」
「そうかい。俺のことは人扱いせんでいい」
「うるさいなァもう、ほら、帰った帰った!なんか知らないけどさ、追撃されて死んだりしないでよ。寝覚め悪くなるから」
「……どうも。じゃあな変人、もう会わんといいな」
「キミに言われたくない!じゃあね狂人!
赤い少年は上半身だけ鳶色になって、二度は振り向かずに帰っていった。春水少年は勿論、彼の背中が見えなくなるまで見送るなんてことはせず、脱兎の如くこの場から逃げ去った。こんな所を誰かに見られてあらぬ嫌疑をかけられたりしたら、絶対に七面倒な事になるからだ。
走って走って、両親と待ち合わせしていた場所には約束の時間前に着けた。両親はまだ来ていなかった。其処は西側の御屋敷の玄関脇で、中に入ってすぐの大広間ではまだ催し物が行われている様子だった。暇潰しにと思って覗いてみると、展示作品の人気投票の結果発表中だった。
来賓は入場の際に
――まァいいや、そんなに興味ないし。
上位の作品が下から読み上げられていき、春水少年はほぼ納得のいく順位だと思いながら聞いていた。最後に同率一位として舞台に上げられた二作は、一つは今にも飛び立ちそうな鳥の木彫りで、もう一つはあの丸っこくて珍妙な立体物だった。
――ナイでしょ。
司会が大仰な身振り手振りで熱弁している隙に、春水少年は会場の一番後ろから舞台上に向かって蜻蛉玉を投げた。
両親と共に家路につくと「上着はどうした」と尋ねられてしまった。「風に
――げっ、あいつの血だ。
羽織を掛けてやったときに
――――――
断じてあの赤い少年の言う事に従ったのではない。皮肉にも、最も関わり合いたくないと思う相手が、最も興味の湧いた相手だった。ただそれだけの事だ。こういうとき人の感情に整合性などないから、いよいよ厄介である。
あれから春水少年は、人々の噂話や愚痴に以前より耳を傾けてみるようになった。すると貴族の間で酷く嫌われている“忌み子”の話題がよく挙がっていた。嫌う相手の話を好んでするなど、やはり度し難い奴らだと思った。
呪われた赤い瞳の子。人の胎に紛れ込んだ鬼。我先にと押しやって出できた、双子の忌むべき上の方。疾く祓わんとした人の目を、真黒く焼いて潰した化け物。遥か昔に神を殺した、邪悪なる魔の生まれ変わり。降りた大罪。
目が合うと呪われる――らしい。気に障ったら燃やされる――そうだ。あれは人の
わからなくて、おそろしいから、いなくなってほしい。
――ばかばかしい。どれも
やっぱり聞いているだけで腹が立った。嬉々として多勢で子供一人を差別し排除したがるような
――――――
「春水、
この日も、春水少年は貴族の集まりに参加していた。同年代の子息子女が
「だってさァ、もっと楽しい話をしないものかな。子どもを見にやって来ておいて『例の子どもはまだ死んでないそうですよ』って、どういう神経してるの」
「大人達の神経を疑うか?私からすれば、不機嫌を隠そうともしない君の神経こそどうなっているのか気になるね」
隣の少年はにっこりしながら言った。綱彌代時灘――上辺の付き合いはお互い様という、
「彼らは彼らの
「……時灘はその志波家の子に会ったことあるかい?」
「………ク、フフッ…………そうか、そうか」
「え……なに?笑う要素どこ?気は確か?」
「ああ、きっと君よりはな。フフ、いやなに、気にするな」
「? ……変なの。いつもだけど」
「お互い様だろう。まあいい、答えよう。勿論あるとも。私は君に会った回数より、彼に会った回数の方が多いくらいだ」
「ふうん、そうなの。五大貴族だけの集まりとかで?」
「それはあまり無いな。五大貴族が会したところでやることもない。仲が良い訳でもないしな」
「んじゃまたどうして」
「……君がこういう場に出てくる時は『やむを得ず』というのが多いだろう?もっと無駄な集まりにも顔を出せば、頻繁に会えると思うぞ」
「別に会いたくなんてないさ。でも
顔を見ずに問いを投げ続けていたら、そこで急に沈黙が訪れた。何か言いづらい事でもあったのだろうか?一瞬だけそんな考えが頭を過ったが、「
隣人の顔を見遣ると、既に隠す気もなさそうな
「――ああ。ああ、そうだ。何故だと思う?」
「……どうせ下らない嫌がらせとかじゃないの」
「どうした?そちらから訊いてきた割に随分と投げやりじゃないか?……くくっ、まあいい。では教えてやろう」
各々が好き勝手に話し込んでいる室内は明るくざわざわとして活気がある。周囲の人々は冷めた男子二人の会話など微塵も気に掛けていないことだろう。時灘少年はゆっくりと口を開いた。
聞くだけで
「春水、また顔に出ているぞ?そう射貫くような目で見てくれるな。不敬なやつめ」
締めにそう言った時灘少年は、言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべていた。
***
『もっと無駄な集まりにも顔を出せば、頻繁に会えると思うぞ』
たとえば、顔を出したとして。
…………。
行ったところで。
何も。
ボクは何をも止められないだろう。
それどころかクズの仲間入りだ。
下衆の
其処により強固に組み込まれて終い。
ああ、面倒だ。嫌だ嫌だ。
狂人のことなんか知ったこっちゃないんだよ。この先も関わり合いたくない。キミなんか嫌いだ。ボクに無力を思い知らせる、死にたがりのキミなんか――。
※続く。
- 栞 -