むこのちまなこ –けいこく–
「――君、帰れと言ったろ。付いて来るな」
「散歩だって言ったでしょ。気にしないで」
どこまでも追尾してやろうという気などない。ただ、折角この辺りまで来たのだから、向こうにある小川に沿って歩いてみようと思ったのだ。そうしたら彼も偶々そちらに行くようだから、そう、たまたまだ。
赤い少年は歩きながら溜息を吐いた。そこまで
ちょろちょろと水の流れる音が聞こえてきた。芝生を踏めばさくりと鳴って、腕を振ればたまに小さな羽虫とぶつかった。そして小川の周りには、ふわふわと小さな光の粒たちが舞っていた。
――
前方を歩く彼がふと足を止めた。胸の前に右手をもってきて、人差し指だけをすっと寝かせ伸ばすと、近くを飛んでいた蛍がそこにとまった。蛍はゆっくりと点滅を繰り返し、その度に彼の赤い胸元が淡く照らされる。
「臆さず寄ってくるとは。こいつはまるで君だな」
「エェ……虫と一緒にされたのなんて初めてだよ……」
「お邪魔虫だと言うんじゃないさ。夏の風物詩に
「そりゃどうも?」
「おい、なぜ語尾を上げた」
春水少年も彼の真似をして人差し指を伸ばしてみた。けれども一向に何もとまってくれなくて、そのうえ計ったように風がヒュウと吹いた。虚しくなって手を引っ込めると、その様子を見ていた赤い少年の口元が緩んだ。つられて自分の口元も緩んでしまったので、尚更「笑わないでよ」なんて言えなかった。
二人で暫くその場に佇んでいると、他の虫も寄ってきた。
――ぞっとした。
春水少年は気付いてしまった。あれらは、彼の血に吸い寄せられ、彼の血を吸いに来ている。夜目の利かない虫が鼻を利かせ、それが何の汁であるかも解さないまま、
気付いてしまったからにはじっとしていられなかった。駆け寄り、叩き落として、無我夢中で腕をぶんぶん振って追い払った。赤い少年はそうされて初めて、自分が食い物にされていた事に気付いたようだった。赤い目を丸くして、刹那、そこに翳りが差した。
「すまんな。……礼の方が良かったか?」
「…はっ……はぁ?……はー……まったく……」
「――君、ひどい顔してるぞ」
「もう、誰のせいだよ……はぁ…うぅ、手に粉がついた……嫌だなァ……」
「小川の水で洗うといい。それから、もうこんな事はしてくれなくていい」
「じゃあもうちょい気張ってよね!黙ってやられてないでさァ……!」
汚れた両手を自分から遠ざけながら責めた。責めたのに、責められた彼は手元から発った蛍を眺めて微笑んでいた。
――違う、見たいのはそっちの笑顔じゃない。
二人とも黙りこくっていたら、赤い少年にまた虫が近寄ってきた。春水少年は無性に苛立って、さっきみたいなのは二度と見たくなくて、またその手で虫を追い払おうとした。
「寄るな」
赤い少年は沈着に言い放った。決して
「君の手が汚れる。そんなことなら自分でやるさ」
そう言ったものの、彼は身動きを取ろうとしない。虫がもうすぐそこまで近付いて、嗚呼、腕にとまった――矢先から、はらりといなくなった。次から次へと、なくなった。
「何…を……したの?」
「もう世間知らずではないのだろ?
赤い少年は急に
『君も彼の噂話はおおかた耳にしているだろう?そして、こう思ったはずだ。そんなの嘘に決まっている、ただの誇張だ妄言だ、とね。だが、生まれてすぐに人の目を焼き潰したというのは真実さ!』
時灘少年の笑みが脳裏に浮かぶ。事実を述べるだけで嫌がらせができるとは
『老齢の彼女は、瀞霊廷で最も多く貴族の出産を助けてきた人らしい。ああ、双子や
時灘少年は言葉尻を窄めながら目を閉じ、朗読を終えた役者のように自ら余韻に浸っていた。そして胸いっぱいに息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、やがて口角を三日月みたいに吊り上げて、更にこう続けた。
『ああ、
――改めないさ。だって見てみなよ、わざとボクを遠ざけようとしているのが見え見えだ。
慣れない脅迫なんてして滑稽だ。「深く関わろうとするなら
たった
大勢から
「キミ、家族の他に好きなものは何?」
「なんだい
「無いとは言わせないよ。花は好きでしょ?埋れたくなるほど。蛍も好きでしょ?指にとまらせてあげるくらい。ああそれから、彫刻もだ。違うかい?」
――何だっていい、好きなものをどんどん増やしてしまえ。そして死にたくなんてなくなれ。あれを観たい、これを愛でたい、それをやりたい……何とも離れがたいと欲を出せばいい。この世界にキミを繋ぎとめるものを、もっと、もっとたくさんに。
「……君、少し怖いな。占い師とか向いてるんじゃないか?」
図星を突かれて否定しないところは潔いといえる。だが、あからさまな作り笑いで弧を描いた口元が意味するところは、
――しかしだ。そう素直に言う事を聞く性格をしていたのなら、そもそも
「あの時の文化会、承認欲求の塊みたいな奴らばっかり集まってた。それなのに、一位を獲っておいて名乗りを上げない作者なんて……途中で帰った名前失くしたがりのキミ以外考えらんないよ」
「そうかい。捨てる代わりに
「げっ。もしかして今はじめて知ったの?」
「君こそ。よく今までそんなの覚えてたな」
お互い呆れたようにジトリと見合っていたが、互いが心中を見抜かれたくないと思って、互いにぷいと顔を背けた。
「……しかしこれでハッキリしたろ。名前なんて無い方がいい。俺が作ったと知れたら、皆
「元々目が曇ってるような奴らに審美眼なんて備わっちゃいないって。それに、少なくともボクは……アレ、今でもイイと思ってるよ」
赤い少年の纏う黒焔が不自然に揺れ動いたように見えた。その焔は防壁だ。他人と自分を隔てようとする意志の表れだ。
でも、そんなものは邪魔だ。春水少年は臆さず歩み寄った。
「キミさ、もっと家の外とも繋がり作っときなよ。ちゃんとした友達つくろうとしてみなよ」
「上辺の付き合いがどうたらと言っていた君の台詞とは思えんな」
「好きでそんな風にしてきた訳じゃない。真面な感性してる子が身近にいたなら、ボクだって……時灘みたいな性悪じゃなくて、もっと良い友達つくってたさ」
「……ああ、彼。自分で被った猫まで
「それって――」
なんという脅迫だろうか。出欠は回答無用で、『時間内に来なければ家に暗殺者を送り込みます』と言い換えられる。暗殺目的で呼ばれていると解っていながら『無駄な集まり』に来る理由はこれで明らかになったが、とてもすっきりしなかった。
「だが意外と話を聞いてくれる。今日『俺は二度と家に帰らない』と伝えたら、『それなら招待状を送るのは
「……キミ……ホント
「俺はもう決めている。
「何それ忠言のつもり?指図しないでよね。どこ向いてようとボクの勝手でしょうよ」
「
「溝って……余所の奴らの方がそうじゃない。やめなよ自分の事そんな風に卑下するのはさァ、キミ全然そんなんじゃないでしょ」
「はは、そんなに“
「待ってよ!ボクはキミと――」
「黙れ!!」
赤い少年の意志は凝り固まっていた。頑迷として、もう少しも揺れてはくれなかった。それどころか轟々と熱と勢いを増していく。「その先は言わせない」という明確な拒絶だった。
「君、帰れ」
「なんで!」
「俺の目に付くところに二度と現れるな」
「どうして!!」
「言うこと聞けよ!!…聞けよ……この…聞かず屋!!」
赤い少年は右腕を大きく振りあげ、号令を出すようにして前方に――こちらに突き出した。彼の周囲で渦巻いていた黒焔が、春水少年に向かって
『――しかしまあ、彼に手を出した辻斬り共は、未だ一人も彼の手で殺されていないという話だがな。自分を殺しにきた者を見逃してやるとは、お優しいことだ。聖者のようではないか?私にはとても真似できないよ。
春水少年は咄嗟に踵を返し、一心懸命に走った。被っていた菅笠を落としてしまったが、戻らなかった。己の限界を越えたような速さで地を蹴り続けて黒焔から逃げた。
『私は是非とも知りたいね。どうにかして確かめたいところだが、これが何年経っても不明なんだ。……刺客は生きて戻っているのに?ああ、刺客ではなく辻斬りだがな、そうさ。不思議だろう?私が
着物の袖に黒焔が触れた。しかし布地は燃えず、されど焔は確かにくっついている。付いた焔が広がる前に急いで懐刀を取り出して、袖を切り落とした。
『信じられないだろう?雇い手も勿論そんな事は信じられず、初めの数年は全員みっともない嘘吐きとして罰を下されてしまったそうだ。だがあまりにも同じ例が続いたものだから、頭の固い者達も、それを事実として受け入れるしかなくなってしまった。彼は頑として誰も殺していないにも拘わらず、いとも簡単に人を処す貴族達から、更なる恐怖の対象に格上げされたんだ。なんと遣る瀬無いのだろうな?くく、救いようがない。……もしかすると、私も君も、気付かぬ内に“何か”を消されているかもしれないな?』
――多分、
「ボクのため」を建前に、「キミのせい」の我侭で、繋ぎかけた縁すら
土に踵を食い込ませ、一本の真っ直ぐな
「忘れてやるもんか!!いってらっしゃい!!」
間抜けで恰好のつかない
――結局、最後まで素直に言えなかった。たった一言。『友達になろう』って。
赤い少年は暗闇の奥に消えた。
『無駄な集まり』は其れ切り開かれなくなって、以降百余年、瀞霊廷で彼の姿は見掛けられなくなった。
***
――ボク、本当は知ってたんだ。
人の口からキミの下の名前が聞けたことはなかった。噂話や愚痴じゃ大抵「例の忌み子」とか「あの化け物」とか呼ばれていたから。でも、ボクはキミの名前をちゃんと知りたかった。人に尋ねたら
キミは「天鷹」でしょ。
その二文字を見つけて真っ先に思い出したのが、あの鳥の木彫りだ。静物ながら生き生きとして、優雅かつ勇猛、皆が称賛した作者不詳の無銘の逸品。
名が刻まれていない?よく言ったもんだ。あんまりな詭弁じゃないか。今にも天に飛び立ちそうな鷹を彫っておいて、そりゃないよ。
自分の名前、大好きじゃないか。
※まだまだ続く。
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