破滅を請う聖職者
女神でさえこの世の全ては知らない。ならば、男が知っていることなど高が知れているというものだ。
鷺の民エルランとしての自分を何百年と遥か昔に捨て、女神との約束を果たすためにラグズとべオクが共に繁栄する世界を育もうと腐心する日々。一向になくならない争い、戦い、差別。虐げられるラグズの存在があっても沈黙を保ち、動かないゴルドア。どんなに心を砕いても、砕いても、もうどうすることも出来ないのではないか――。
而して、男は最後の希望の光を見つけた。女神に祝福されなかったのだとばかり思っていた我が末裔は、女神の声を聞ける呪歌謡いの力を継いでいたと知った。ベグニオン帝国第36代皇帝、神使ミサハ。彼女は偏見に囚われない良識あるベオクで、心から世の平和を願い、ラグズとベオクの共存を望んでいた。
彼女は元老院の反対を押し切ってラグズ奴隷解放宣言を成した。更に、神使の血筋は迫害の対象とされてきた混血であり、自身も印付きであると世に公表することを決意した。
混乱は避けられないだろう。だが、民に篤く慕われる高潔な彼女が真っ直ぐに訴えれば、皆に真実を受け入れて貰えるかもしれない。ラグズとベオクの婚姻は女神の意思に背く禁忌だなどという誤解は、なくなるかもしれない。男は彼女に、争乱を終わらせうる光を見出した。
しかし、彼女は殺された。身勝手な企みをもつ野蛮な人の手によって。
元老院は、神使ミサハを暗殺したのはセリノスの鷺の民であると発表した。男は、それが真っ赤な嘘であるとすぐに見抜いた。鷺の民は人を傷つける術をもたない温厚な種族だ。何より、自分もそうだったのだから、よく知っている。
ところが、ベグニオンの多くのベオクたちは神使を喪った悲しみと怒りで我を忘れ、暴徒と化した。爆発した感情のぶつけ先を提示され、あろうことか狂喜をもって憎しみの矛を向けたのである。そうして貫いた先には、無抵抗のまま命を落とした亡骸が山になったというのに。
男は再び絶望に見舞われた。人の残虐性、愚かさ、冷たさをまざまざと見せつけられ、誰も信じられなくなった。
――これほど醜いものは消えてなくなるべきだ。千年の審判を待つ必要はない。早く、滅び去らなければ。
平和な世界を築くことはあれほど難しく、遂ぞ叶わなかったのに、滅ぼすと決めてからの方針は簡単に決まった。何という皮肉だろうか。大陸全土を巻き込む戦乱を起こす方法は、湯水のように頭の中に湧いて出た。
デイン王族には戦いと力を渇望するアシュナードがいる。ベグニオンの元老院は既に腐敗しきっている。キルヴァスは血の誓約のためもうずっと元老院の言いなりだ。他のどの国でもラグズとベオクは啀み合い、お互いを貶し合っている。護りたかった鷺の同胞は悉く殺され僅かな生き残りも息絶え絶え、我が力を受け継いだ子孫ももうこの世にいない。
どうぞ滅茶苦茶にしてください、と舞台の方から整って寄って来ていた。
「リーリア、あなたはもう独りです。こんな澱のような世界は嫌でしょう。人は……これ以上、世界を汚してはいけない……後を濁さず消えるしか、ないのです……」
涙の跡もそのままに、腕の中で意識を失っている鷺の王女に静かに語り、方針を固めた。
この弱りきった命も、いずれは消える定めにある。それが少し早まろうと些事に過ぎないだろう。何故なら、女神には全人類の消滅を請うのだから。
後日、男は負の女神ユンヌが封印されているメダリオンとリーリアをアシュナードに引き渡し、デイン王族の末端である彼が王となれるよう“血の誓約”を手引きした。これが、大陸全土を巻き込む大乱の引き金となることを期待して――。
男は忘れていた。自分が世の平和を諦めようと、それを勝ち取らんとする若き次代が生まれくることを。子らの幸せを願う親たちがいることを。
男は見誤っていた。リーリアはアシュナードの脅しにも屈しない、清く強い心を持っていたことを。あれほどの仕打ちを受けてなお、人の滅亡を望まないことを。
男は知り得なかった。リーリアから歌と願いを託されるべオクの夫婦が歩むことになる、数奇な運命を。その夫婦の子が類稀なる英雄の素質を持って生まれることを。
男は知らなかった。人と女神との橋渡しができる我が力を受け継いだ子孫が、まだこの世に生きていたことを。その子がデインを祖国として愛するようになることを。
男は気付かなかった。この計略から密かに逃れて生き残ることになる少年が将来最も厭う傲慢をこそ、自分は抱えていたことを。その罪を赦す寛容が存在することも。
そして、男は知ることになる。
愛は世界を救うのだと。
鷺の民エルランとしての自分を何百年と遥か昔に捨て、女神との約束を果たすためにラグズとべオクが共に繁栄する世界を育もうと腐心する日々。一向になくならない争い、戦い、差別。虐げられるラグズの存在があっても沈黙を保ち、動かないゴルドア。どんなに心を砕いても、砕いても、もうどうすることも出来ないのではないか――。
而して、男は最後の希望の光を見つけた。女神に祝福されなかったのだとばかり思っていた我が末裔は、女神の声を聞ける呪歌謡いの力を継いでいたと知った。ベグニオン帝国第36代皇帝、神使ミサハ。彼女は偏見に囚われない良識あるベオクで、心から世の平和を願い、ラグズとベオクの共存を望んでいた。
彼女は元老院の反対を押し切ってラグズ奴隷解放宣言を成した。更に、神使の血筋は迫害の対象とされてきた混血であり、自身も印付きであると世に公表することを決意した。
混乱は避けられないだろう。だが、民に篤く慕われる高潔な彼女が真っ直ぐに訴えれば、皆に真実を受け入れて貰えるかもしれない。ラグズとベオクの婚姻は女神の意思に背く禁忌だなどという誤解は、なくなるかもしれない。男は彼女に、争乱を終わらせうる光を見出した。
しかし、彼女は殺された。身勝手な企みをもつ野蛮な人の手によって。
元老院は、神使ミサハを暗殺したのはセリノスの鷺の民であると発表した。男は、それが真っ赤な嘘であるとすぐに見抜いた。鷺の民は人を傷つける術をもたない温厚な種族だ。何より、自分もそうだったのだから、よく知っている。
ところが、ベグニオンの多くのベオクたちは神使を喪った悲しみと怒りで我を忘れ、暴徒と化した。爆発した感情のぶつけ先を提示され、あろうことか狂喜をもって憎しみの矛を向けたのである。そうして貫いた先には、無抵抗のまま命を落とした亡骸が山になったというのに。
男は再び絶望に見舞われた。人の残虐性、愚かさ、冷たさをまざまざと見せつけられ、誰も信じられなくなった。
――これほど醜いものは消えてなくなるべきだ。千年の審判を待つ必要はない。早く、滅び去らなければ。
平和な世界を築くことはあれほど難しく、遂ぞ叶わなかったのに、滅ぼすと決めてからの方針は簡単に決まった。何という皮肉だろうか。大陸全土を巻き込む戦乱を起こす方法は、湯水のように頭の中に湧いて出た。
デイン王族には戦いと力を渇望するアシュナードがいる。ベグニオンの元老院は既に腐敗しきっている。キルヴァスは血の誓約のためもうずっと元老院の言いなりだ。他のどの国でもラグズとベオクは啀み合い、お互いを貶し合っている。護りたかった鷺の同胞は悉く殺され僅かな生き残りも息絶え絶え、我が力を受け継いだ子孫ももうこの世にいない。
どうぞ滅茶苦茶にしてください、と舞台の方から整って寄って来ていた。
「リーリア、あなたはもう独りです。こんな澱のような世界は嫌でしょう。人は……これ以上、世界を汚してはいけない……後を濁さず消えるしか、ないのです……」
涙の跡もそのままに、腕の中で意識を失っている鷺の王女に静かに語り、方針を固めた。
この弱りきった命も、いずれは消える定めにある。それが少し早まろうと些事に過ぎないだろう。何故なら、女神には全人類の消滅を請うのだから。
後日、男は負の女神ユンヌが封印されているメダリオンとリーリアをアシュナードに引き渡し、デイン王族の末端である彼が王となれるよう“血の誓約”を手引きした。これが、大陸全土を巻き込む大乱の引き金となることを期待して――。
男は忘れていた。自分が世の平和を諦めようと、それを勝ち取らんとする若き次代が生まれくることを。子らの幸せを願う親たちがいることを。
男は見誤っていた。リーリアはアシュナードの脅しにも屈しない、清く強い心を持っていたことを。あれほどの仕打ちを受けてなお、人の滅亡を望まないことを。
男は知り得なかった。リーリアから歌と願いを託されるべオクの夫婦が歩むことになる、数奇な運命を。その夫婦の子が類稀なる英雄の素質を持って生まれることを。
男は知らなかった。人と女神との橋渡しができる我が力を受け継いだ子孫が、まだこの世に生きていたことを。その子がデインを祖国として愛するようになることを。
男は気付かなかった。この計略から密かに逃れて生き残ることになる少年が将来最も厭う傲慢をこそ、自分は抱えていたことを。その罪を赦す寛容が存在することも。
そして、男は知ることになる。
愛は世界を救うのだと。