白鳶と右の片翼

死ぬれば死神
はくえんとみぎのかたよく

 ぐろん、うるりとうねる空気。感じたことのない波が圧しかかってくるような気持ち悪さで一気に目が覚めた。隣を見遣れば、修兵少年はすやすやと暢気のんきに寝息を立てている。何処かで誰かが戦っているのは間違いない。衝撃音や人の声は聞こえてこないが、ぶつかり合った霊圧の余波がここまで届いてきているのだ。多数の死神と、虚のようなそうでないような……集中して辿り、けていく。するとその中に、今朝に知り合った人と似たものが混ざっていた。しかし気のせいだと思いたかった。だって、あの二人に似ていると感じる霊圧は、虚のように変質してしまっているから。そしてそれが戦う相手の霊圧こそ、まぎれもなく死神のものだと分かった。
 嫌な汗が耳の傍を伝い、心臓の音はばくばくとうるさい。あの二人は護廷十三隊の隊長と副隊長だ。私とは比べ物にならないほど強く、経験だって桁違いなんだ。大丈夫、きっと大丈夫。魂魄消失事件だって彼らが解決してくれるはず。

 けれど。私はそのとき、恐怖と不安に覆われた心の中奥なかおくに、僅かに好奇心を抱いていた。渦中に寄りたくないのは確かだが、気になるのも確かで。

 冷や汗で滑る手を袴でぬぐい、万一のために斬魄刀も持って、私は戸外こがいに踏み出た。霊圧が放たれている中心の方へ近付いていくにつれ、身に掛かる波は強くなっていく。戦いの音も聞こえてくるようになり、その激しさは力強く和太鼓を叩いたときのように腹にくる。繁みや木々に隠れながら様子を窺える所まで来て、目に飛び込んできたものに驚愕した。


「ウオアアアアアッ!!!!」


 虚のような仮面で顔を覆い狂乱したように暴れ回っている“何か”は、九の数字を背負っていた。


「縛道の九十九!!『禁』!!!」


 その“何か”が地に伏せっている金髪の死神に飛び掛かるのを抑え込もうと、誰かが強力な縛道を繰り出した。空に現れた大きな黒十字の帯が“何か”を締め上げ、体の自由を奪う。落ち着いたところでその周りに集まった面々を見て、私はまた驚愕した。三番隊隊長鳳橋楼十郎。五番隊隊長平子真子と、その脇に抱えられているのは十二番隊副隊長猿柿ひよ里。更に七番隊隊長愛川羅武。八番隊副隊長矢胴丸リサ。そして滅多に表に出ないという鬼道衆の副鬼道長有昭田鉢玄。隊長格が揃いに揃ったその様は、今起こっていることが如何に尋常ではないかを物語っていた。
 頭が理解することを拒み逡巡しゅんじゅんしていたのだが、やはりあの“何か”は六車隊長だった。そして更に向こうには、既に巨大な柱の縛道によって捕らえられている久南副隊長が見えた。いったい、二人に何が起こってしまったのだろう。


「オオオオオオオオッ!!」


 思考を中断させたその咆哮は、猿柿副隊長が発したものだった。つい先程まで弱りきった様子で平子隊長に抱えられていた彼女は、口から白い液体を吐き出したかと思うと、それがみるみるうちに虚のような仮面になった。そして九番隊の二人と同じように霊圧も変質し、突如、平子隊長に牙を剥いたのだ。見ていた限り、その変質は本人の意思だとは思えなかった。
 誰がやったのか。または、未知の病原菌のような見えないもののせいなのか。原因が分からない以上、この近くにいたら私もあのようにして仮面を吐き出し、錯乱してしまう可能性だってある。護廷十三隊の隊長たちでさえどうにもできていないこの事態に、私が何かできるはずもない。ここから離れよう。それから、どうにかして瀞霊廷の偉い人たちにでも伝えなければ――



 キン、と周りの空気が一気に冷えて静まり返った。それと同時に、目の前が真っ暗になり、平衡感覚を失った。



 気が付いたときには、私は繁みの陰に倒れ込んでいた。でも、それだけだ。五感だってもう何ともない。
 向こうでは、さっきまで立っていた者はみな倒れていた。そして、さっきまでいなかった者がひとり立っている。あの人にも見覚えがある。彼は、仮面で顔を隠していた六車隊長の部下だ。私は彼に気付かれて何かされたのではないのか?どうして私だけ斬らない?彼が一連の事件の犯人だったのか?……それらを考える暇もなく、私のすぐそばで草を踏む足音が聞こえた。嗚呼――まずい。油の切れた歯車のようにぎこちなく首を回すと、また新たに現れた死神が二人、そこにいた。二人はこの場に似つかわしくない薄い笑みをたたえて、向こうで地に這いつくばっている死神たちを見物している。どう見ても助けに来た感じではないそいつらは、五番隊副隊長藍染惣右介と……その後ろを歩く白髪の若い死神には見覚えがなかった。

 しかしどういう訳か、足を伸ばせば蹴れそうな距離にいるというのに、私の方には目もくれない。そのまま一瞥いちべつだってすることなく私のすぐ隣を素通りした藍染副隊長は、優雅な足取りで手負いの平子隊長に歩み寄っていった。一方で、藍染副隊長の後に続かずその場で立ち止まっている若い死神と……かちり、と視線が合った。ああ、そういう――邪魔な雑魚は部下に処理を任せるということか。
 私は今度こそ斬られることを覚悟した。しかし、待てども彼は一向に行動に出ない。それどころか、ふいと視線を外し素知らぬ振りをして、向こうへ歩いて行ってしまったのだ。


「…藍……染…!!やっぱし…お前やったんか…」

「気付かれていましたか。流石ですね」


 当然のように、私の存在を無視して繰り広げられる問答。平子隊長は、はじめから藍染副隊長を疑っていて、だからこそ自分の直属の部下に据えて監視していたのだと話した。お前が何か企んでいたことには気付いていたのだ、と。それを聞いた藍染副隊長は一切動揺を見せず、むしろ得意そうに語り出す。


「いいえ。気付かなかったでしょう?この一月、あなたの後ろを歩いていたのが僕ではなかったという事に」

「…な…!?」

「“敵”にこの世界のあらゆる事象を僕の意のままに誤認させる。それが、僕の斬魄刀『鏡花水月きょうかすいげつ』の真の能力です。その力を指して――“完全催眠”という」


 そんな能力を前に、どうあらがう術があるというのだろうか。この場にいない護廷の死神たちは、一連の事件の首謀者は藍染副隊長だということを知らない。もしこのまま平子隊長たちが始末されてしまったら、藍染副隊長は何事もなかったように瀞霊廷に戻り、真実は闇の中にほうむり去られてしまうだろう。

 でも私は見た。真実を知っている。というか何故、私はさっきから誰にも認知されていない風なのだ。一人は目だって合っただろう!この場にいる隊長格たちと比べたら、私の霊圧なんて羽虫のようなものではあるが!それにしたって!流石にこの距離で気付かないなんてことがあるか!?


(――分かっているではないか。そうだ、お前の霊圧などこの場においては羽虫に過ぎぬ)

(ハク!?)


 蝋燭ろうそくの火の如く揺らめきながら、ぼんやりとした輪郭のハクが私の右肩に乗っている。そして周りを見ると、さっきまでいた林とはまるで違う場所に私はいた。見渡す限りに広がる、天を衝くかのような黒い巨塔の群れ。微かに星々が輝く東雲しののめの空。眼下はまばゆい白の花畑かと思いきや、そのすべては海のようにさざめく白い焔が燦燦さんさんと燃えているものだった。そんな空間で、私は巨塔のひとつを取り巻く螺旋階段の中ほどに腰掛けている。


言霊ことだまというのは、ことほかに強い力を持っていてな)

(突然なんの話です?)

(我は文字にするなら『白鳶』……と、こう書く。ハクエン。しろとび、またはしろとんび)

(はあ。)

(「しろとんび」というのは、暗に白昼堂々の盗人のことも示すのだ。それをやってのけるには、どうすべきか?)

(え?えっと……こそこそと隠れ忍ぶ…?)

(その通り。我は「白鳶」として神力を持ち、そこに意味こそ異なれど同じ読みである「白鳶」が言霊となって意味と力を及ぼす。すると強い“隠れる力”をふるえるのだ)


 唐突としか思えない話を、ハクは身振り翼振りを交えて続ける。


(それで、つまり?)

(我は咄嗟とっさにその力でお前を隠したのだ。姿も気配も、霊圧すらも。あの六車拳西の部下だった死神が何かの能力を使い、死神たちを斬ろうとした、あの瞬間に)


 漸く合点がいった。目の前が暗くなり様々な感覚を失ったあのとき、私は完全に、彼の何らかの能力が及ぶ領域に入ってしまっていた。だから見つかったものと思っていたが、彼は私の存在を欠片かけらも認知していなかったのだ。後からやって来た藍染副隊長も同じだ。すぐ目の前にいながら、あちらからは私の姿は見えないし、霊圧知覚もできなかったという訳だ。あれ、じゃあ藍染副隊長に引き連れられたあの若い死神は、偶々なのか。たまたま何の気なしにこちらを向いたから目が合った気がしただけなのか?考えにくいが、現にこうして見過ごされている以上はそういうことなのだろう。だって、見えているのに何もしてこないなんて、それこそあり得ない。


(それ、なんだか破格の能力じゃないかい)

(いいや、我が右翼にて操りしこの力にも限界はある。故意にでも不意にでも試しに誰か小突いてみろ、途端にあばかれるぞ)

(人に触れた瞬間にその場面では力が無効になると。不意打ちできるのは一回きりってことね)

(既に姿が見つかっている状態から隠れるのも無理だ。一旦、人から見えない所まで離れる必要がある。しかし見えなくなってすぐ力を使えば、相手からすれば急に気配も感じられなくなるのだから、そういう力を持っているということが知れてしまう。遠い所から霊圧を探られている場合などは攪乱かくらんしてどうとでもなるがな)

(ううむ……諜報には使えるかもしれないけど、戦闘には不向きなわけか……)

(さきほども間一髪であった。あと少し遅ければ、奴らに見つかって一溜まりもなかっただろう)

(そうだね。ハク、ありがとう)

(この右翼の力のことは何者にも秘匿しておくのが良い。如何に使うことになるか分からぬのだから)


 言いたいことは言い終えたのか、ハクの輪郭は徐々に融けるようにして消えてゆく。いで、幻想的なこの空間も震動した後ぼやけて崩れ去った。ふと周りを見れば元いた世界に戻ってきていて、ちょうど更なる新人物が登場したところだった。


「さようなら。あなた達は素晴らしい“材料”だった」


 そう言いながら平子隊長を斬るべく斬魄刀を高々と振り上げた藍染副隊長を急襲したのは、つい九年前に十二番隊隊長となった浦原喜助だった。続いて、握菱鉄裁大鬼道長も姿を現す。彼らは平子隊長たちを助けに駆けつけたのだと思われる。刹那、謎の違和感があったが原因がすぐには分からず、私はもどかしさに眉根を寄せた。それから少しの間を置いて、その正体にハッとする。なんと、浦原隊長は目の前にいるというのに、彼の霊圧を感じ取れないのだ。今さっき私が得たような力と似たような力を彼も持っているのか、それともあの妙な外套の作用かもしれない。


「藍染……副隊長」

「はい」

「ここで何を?」

「何も。ご覧の通り、偶然にも戦闘で負傷した魂魄消失案件始末特務部隊の方々を発見し、救助を試みていただけのことです」

「……何故嘘をつくんスか…?」

「嘘?副隊長が隊長を助けようとすることに何か問題が?」

「違う。ひっかかってるのはそこじゃない。『戦闘で負傷した』?これが『負傷』?嘘いっちゃいけない。……これは『虚化ホロウか』だ」


 そう述べた浦原隊長の目は確信を持っていた。虚化とはそのまま“虚に化ける”という現象を指す言葉だがしかし、虚とは現世の彷徨さまよえる霊魂が成り果てる可能性があるものであって、尸魂界に住まう者がなるなどあり得ないし、してや死神など。教本でも噂話でも、一例だって見聞きした覚えはない。明らかに異常なこの事態は、藍染副隊長が何か禁じられた方法によって作為的に起こしたものであるとしか考えられなかった。


「…成程。やはり君は思った通りの男だ。今夜ここへ来てくれて良かった。退くよ、ギン、要」

「! 待……」
「お避けくだされ浦原殿ォッ!!!破道の八十八!!
飛竜撃賊震天雷炮ひりゅうげきぞくしんてんらいほう』!!!!」


 それまで口を開くことのなかった握菱大鬼道長が高位の鬼道を放ち、物凄い密度と速度の衝撃波が放たれた。月までつんざくかのような高さまで立ち昇る衝撃波は、間違いなく、立ち塞がるものことごとくを薙ぎ払い掻き消すほどの威力を持っていた。だが、藍染副隊長は詠唱破棄し元より威力が落ちているはずの縛道『断空だんくう』で難なく止めてしまった。衝撃波は『断空』の壁にぶつかり、その境界より奥はそよ風すらも吹いていない。尸魂界で最も鬼道に優れているに違いないその人をもってしても、藍染副隊長を止めることはできなかったのだ。彼の実力は、もはや肩書のそれでは収まらない。愕然とする握菱大鬼道長に何か言葉を掛けることもせず、黒幕の三人は瞬く間に闇の中に消えてしまった……

 そんなことをぶつくさ考えている私はというと、衝撃の余波に巻き込まれて吹っ飛んでいる真っ最中である。普通ならこうなりますって、藍染副隊長の野郎!幸い怪我を負った訳でもなく吹っ飛んでいるだけなのだが、困ったことに、もうじき私が落下する地点に浦原隊長が立っているのだ。換気扇に吸い込まれた埃のようにぐるぐるされるがままになっているこの身では、もうどうにもなりそうにない。浦原隊長と握菱大鬼道長の二人が何か真剣に話しているのだって全然頭に入ってこない。どうしよう。


「今から彼等八人全員を、この状態のまま十二番隊舎へ運びます。隊舎の設備があれば彼等の命は救えましょう!」

「この状態のまま…!?そんな…どうやって……イタッ!?」


 ぶつかった。浦原隊長の肩に背中を打ちつけた。力のことは秘匿しておけとハクに言われたそばからこのザマだ。ぶつかってから地面に足がつくまで、世界が回るのがゆっくりになる。振り向けば、驚きに目を丸くした浦原隊長と視線がかち合った。握菱大鬼道長は私に背を向けているから、まだ気付いていない。


「“時間停止”と“空間転移”を使います。どちらも禁術……故に今より暫しの間、耳と眼をお塞ぎ願いたい!」


 足が着いた瞬間、少しでも彼から距離を取ろうと力の限り踏み込んだ。


「なっ…誰っスか!?いや、ちょっと、待っ……」


 浦原隊長の手が伸びてくる。彼の指は、私のつま先を掠めて行き場を失くした。その僅か一秒後、私の背後の空間がごっそり無くなった。浦原隊長も、握菱大鬼道長も、“虚化”した隊長格たちも、そこにあった地面も草も木もまるごと。空間転移とか言っていた気がするから、きっとそのせいだ。


「あ…っぶ……もう少しずれてたら、体ちょっと持ってかれてたかも……」


 辺りは一転して静寂に包まれていた。緩やかに風が吹く宵のときは、抉られた地面だけを証拠に残し、あとはあったことなど嘘だったのだと嘲笑うかのようにさっぱりとした空気を纏っている。

 そんな空気に呑まれてしまわない内に、見たことを反芻はんすうして整理してみよう。魂魄消失事件の調査に来た隊長格たちに手を出したのだから、藍染副隊長が事件に関わっていたことは間違いない。はじめは、流魂街の民を手にかけて魂魄消失させたことを隠蔽するために調査隊も消そうとした……のかと思ったが、どうやら様子は違っていた。虚化した彼らに対して、藍染副隊長は『素晴らしい材料だった』とのたまい、斬魄刀で斬り殺そうとしていた。虚化がじきに魂魄消失を引き起こすなら、わざわざ直接手を下す必要はないはずだ。つまり、藍染副隊長は魂魄消失させるために虚化を行ったのではなく、何か別の目的があったということになる。『材料』というからには、彼らを贄として何か作り出すか……いや、それなら殺さずに連れ去るだろう。もしかすると、“虚化”を行うこと自体が目的だったのではないだろうか。藍染副隊長は危ない研究者な側面も持っていた、とか?

 何れにしろ、今の私にどうこうできる案件ではない。「あなた、隊長たちを虚化させましたね」なんて言って瀞霊廷に対する謀反むほんでひっ捕らえようとしても、あっという間に返り討ちに遭うだけだ。加えて、今日この場にいなかった死神たちに「藍染副隊長がこんなことしたんですよ」と訴えたとして、“完全催眠”などという最高にずるい能力にかかればたちまち私の頭がおかしいという事にされてしまうだろう。そして消される。


「……強くなって機を待つしかないか」


 藍染副隊長が今後も平気な顔をして死神をやっていくと思うと恐ろしい。積極的には関わりたくないが、私は死神になると決めたのだ。いつかこの先、逃れようのない場面に出会すことだってあるかもしれない。
 死神とは、世界の魂の調整者バランサー。現世の彷徨える魂を導き、尸魂界の秩序を守り、すべての魂魄を護る者であり、決して魂魄を脅かす存在であってはならない。まだ死神でもない私が偉そうに語れることでもないが、少なくとも、私の憧れる死神とは、志波や六車隊長のように誰かを護って戦える人だ。
 藍染副隊長がこのまま引き下がるとは思えない。真実を隠して瀞霊廷に居座り続けるかもしれないし、能力に物言わせて多くの魂魄に危害を加える可能性もある。


(強くなりたいな――)


 とりあえず修兵少年の家に戻って寝よう。寝て食べて動いて、強い死神になりたい。


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