目を閉じれば、遠くからゆったりとした波の音が響いてくる。先日近付いていた嵐はいつの間にかミナモシティから遠ざかったようだ。肌を撫でるようなそよ風が、花の香りを運んでくる。ダイゴさんが紡いだ言葉は、本物。あの日、そう彼自身が言った。何を言われたのか理解が追い付かない頭に、ふわりと残る温度が甦る。
「もう一度、ゆっくり考えてくれないか。」
脳裏のスクリーンに映し出された記憶の映像。二の句を継げない私に、彼は優しく言い放つ。私の頭を撫ぜていた手を離し、屈ませていた腰を伸ばすと、彼と私の物理的距離が遠退いた。それさえも、名残惜しいと思ってしまったなんて。
「僕はいつまでも、君を待ってるから。」
真剣すぎる声色に、その後は彼の顔は見ることができなかった。拒絶するような私の態度に、困ったような嘆息が耳に届いた。それから彼は、本当に忙しかったようで、休憩の合間を縫って会いに来てくれたのかすぐにエアームドを飛ばしてミナモシティから飛び去って行ってしまった。離れて行く背中に、きゅっと胸が締め付けられた。
目を開けば、ロゼリアとヤミラミは2匹で楽しげに花に水をやり、チルタリスは店先のテントでふわふわの羽を休めている、そんな見慣れたはずの景色。色とりどりの、大好きな花に囲まれているのに、どうしてか、ここに立つ自分は酷く惨めな気がした。
ダイゴさんは、確かに私を好きだと言ってくれた。弱くて、彼の真摯な言葉に背を向けた私に待つと言ってくれた。ゆっくり、考える。何を考えればよいのだろう。私は彼には釣り合わない。相応しくない。胸を張って会いに行くことも、隣に立つことも出来ないのに。わざわざ会いに来てくれたのに、今更彼の言葉を疑うことはないけれど、鵜呑みにすることも出来なかった。
一瞬だけ見せた、彼の怒気を思い出して疼いた胸元に両手を押さえ付けた。痛い、痛い。側にいてほしいという言葉も、好きだという言葉も。素直に飛び込んでいける自信が欲しい。どうすれば。
「キレイなお花ね。」
不意に掛けられた声に、ドキリと胸が音を立てた。いけない、ミナモでの勤務も慣れてきたからとは言え、仕事中なのにボーッとしてしまった。慌てて店先の花を見つめるお客様に駆け寄って、その花を勧めようとした。
トルコキキョウ。
『別れる男に、花の名を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。』とは、よく言ったものだ。忘れ去られるのは確かに苦しい。けれど私は毎年どころか、四六時中花に囲まれ、この花を見る度に彼を思い出す。教えられた方だけでなく教えた方も心に刻まれるのと同じように、贈った方も簡単には忘れられない。
「…トルコキキョウ、私も好きな花なんです。何か思い入れでも、あるんですか?」
店先で花を眺めて佇む初老の女性は、照れたようにシワを寄せて笑った。主人が昔、贈ってくれた花なんです。その言葉になぜだか、いつの日にかカイナで妻の好きなガーベラをと言って花を買っていた男性を思い出した。あの花は奥さんに届いたのだろうか。贈った方も贈られた方も、きっとその花を見る度にお互いを思い出す。この女性だって、旦那さんとの二人だけの思い出をトルコキキョウに重ねて見出している。私がこの花を見るだけでダイゴさんを思い出すように、彼もそうだったら、いいな。トルコキキョウを懐かしむように見つめる女性を見て、胸が温かくなった。
「ふふ、旦那様もきっと、トルコキキョウを見るだけで奥様を想われるんでしょうね。とても素敵です。」
「そうだと、いいわね…」
「良かったら旦那様に、いかがですか?」
「そうね…。そうしたいのはやまやまなんですけど、彼、今ルネシティにいるのよ。連絡船も無くて、私からは会いに行けなくてね。」
困ったように微笑む女性からは、言い表し難い寂しさが伝わってきた。和んだ胸が締め付けられる。ルネシティ。ミクリさんが住んでいると言っていた、まだ見ぬ街。山に囲まれるルネシティには、海底か空からしか訪れることは出来ないと聞く。特定のポケモンを持たなければ、決して足を踏み入れることは出来ない辺境の地。そんなルネシティに身を置く愛しい人を想う彼女に、自ら会いに行く術を持たず想いを馳せていた昔の自分を重ねた。会いたいのに自分からは会いに行けない。そんな彼女の気持ちが、私には痛いほど理解できる。
「……良ければ、お届けしましょうか…?」
それは頭で考えたものではなく、心から出てきた言葉だった。今の私なら理解できるだけじゃない。そのやるせない想いを払拭させる手伝いができる。花に想いをのせて、それを届けることができる。そんな私の想いを汲むように、店先のテントの上でチルタリスが羽ばたきをした。
短い命で懸命に真っ直ぐ咲き誇る花が好き。どうして花屋になったのか。それは、人が美しく咲き誇る花々に癒されるように、私自身が勇気と希望をもらったからだ。花が与えてくれる想いを、言葉を、今度は私が誰かに届けたい。
「え、配達もしてくださるの?」
女性の寂しげな瞳に、僅かに希望の光が灯った気がした。ヒザシさんの了承を得ないと勝手なことはできないけれど、私は確かにこの花を届けたいと思った。ミナモで生きた屍のように日々の業務をこなしていた自分から、初めて強い意志を感じた。ヒザシさんに自分の考えを話すことも、未知の街に赴くことも、怖いことには違いない。
「はい!」
でも、もう止まらない。私はいつかの真っ直ぐにキラキラと輝いていたルチアちゃんのように、力強く頷いた。
▼ ▲ ▼
初めて降り立つルネシティは、ムロシティやカイナシティ、ミナモシティといった私が今まで見てきた街とは立地も雰囲気も全然違うものだった。初めて見る、白い石造りの街並み。坂道に沿って上まで続く階段。日照りはカイナシティのように強いけれど、その光が照らす家々や水面は見たこともない。地下から入り込んだ海水から形成された大きな池も、未知の景色だった。
でも、初めて来た土地への感動に明け暮れている場合ではない。ポケットから配達先の住所のメモを取り出す。紙袋に入れた包装紙で包まれたトルコキキョウの花束とメモを交互に見つめると、こんな自分を励ます、ちっぽけな勇気が湧いてくる気がした。流れるように書いた文字を頼りに、歩みを進めた。
探し人の家は、ポケモンセンター脇の階段を上った高台の上にあった。強い日射に汗を流しながら階段を上り切り、指定の家を探し出す。インターホンを前にして、不在であった場合の不安が思い浮かんだ。
「はい。…どちら様?」
しかし、その不安は鍵の開錠音によって掻き消された。扉の中から姿を現した初老の男性。その雰囲気は、配達を頼まれた女性のものとそっくりで、私はそこで直感した。
「サン・ミナモのロゼと申します。奥様から依頼され、配達に伺いました。」
仕事用の対外的な笑みを浮かべて頭を下げると、見ず知らずの顔に抱いた警戒心を解いて彼は扉を開けてくれた。予想外の訪問に、彼は垂れ目を丸くしていた。花束の入った紙袋をそんな彼の目前に掲げる。
「あ、ありがとう…」
呆気に取られながらも、紙袋を受け取って中身を開く。そして先ほど丸くした瞳が、中の花束を映すことで僅かに揺らした。奥様からの突然のプレゼントが信じ難いのか、トルコキキョウの花束を震える手で持ち上げた。
「…トルコキキョウ…。」
堅まっていた表情が穏やかなものへと変化していく。頬を僅かに赤らめながら皺を寄せて笑った。それにとてもよく似た奥様の笑みが思い起こされる。このお二人には、きっと離れていても強い絆があって、その絆の一つとしてこのトルコキキョウがあるのか。彼らもこの花に希望をのせて、贈りあったのだろうか。
「奥様との思い出があるんですよね?」
「ああ…、彼女の好きな花でね。結婚記念日に贈ったことがあるんだよ。」
照れたようにはにかむ男性につられ、私まで笑みが浮かんでしまう。幸せな様子に胸が温まる。長い間会えていないのか、彼は彼女のことを思い返しながら目尻に小さな水滴を浮かべた。そして花束を胸に抱えながら、何度もありがとうと微笑んだ。ああ、私はこの顔が見たかったんだ。誰かの想いを、美しく咲く花にのせ、届けたい。チルタリスが華麗に飛び回るモンスターボールを一瞥し、真っ直ぐに胸を張って男性に向き合う。
「こちらこそ、ありがとうございまいた。」
深々と頭を下げた。今の私には、出来る。
カエデさんもヒザシさんもポケモンを持っている訳でなく、カイナシティから徒歩圏内のキンセツシティやシダケタウンは別として、この店に遠方配達なんてシステムは存在しない。でも、もしその配達も承ることが出来たら、電話対応で注文を取れたら、もっともっとたくさんの人に花を、想いを、届けることができる。笑顔を、幸福を提供することができる。真っ暗で道も分からなかったような不確かな自分の未来に、一筋の光が射し込んだ。
配達を終え、ミナモシティの店舗に戻ると、ヒザシさんが笑顔でおかえりと迎えてくれた。チルタリスをボールに返し、看板をくぐって中に入る。まだ、言いたいことが纏まっていない。一従業員の私が、こんな提案をするのは何様かと思われるかもしれない。黙って言われた通り働けと言われるかもしれない。カエデさんもヒザシさんも、そんなこと言うような人じゃないと分かっているのに、私はどこまでもネガティブだ。
「あの…、今日配達に行って思ったんですけど。」
ヒザシさんはレジカウンターで依頼された花束を包んでいた手を止めて、私の方に視線を移した。ドクンドクンと嫌な音が耳の奥に張り付いている。早く、早く言わなきゃ。一人で勝手に緊張している私の言葉を、ヒザシさんは黙って待っていてくれる。口内に溜まっていた唾液を一気に喉の奥へと流し込み、大きく息を吸い込んだ。
「私に、配達をさせていただけませんかっ!」
自分の決意を伝えようと、いつもより大きめに声を出したら、意外と声量があったようで静かな店内に反響してしまう。それに驚いたヒザシさんは、作業の手を止めてぱちくりと瞬きを繰り返していた。言葉が足りなかったかもしれない。慌てて、今日の業務を通して感じたこと、私がこれからしたいことを、支離滅裂になりながらも言葉に続けた。それを、ヒザシさんは優しく頷きながら、黙って聞いていてくれた。
「お願い致します。どうか私に、このお店で花の配達をさせてください!」
上司に頭を下げて、自分の爪先に視線を落とす。その場から少しも動かない足だけれど、私はようやく一歩、前に進むことができた気がした。