ざわざわと木々を、草花を、海面を、そして私の髪を揺らす風は、まるで嵐のように轟々と唸り声を上げていた。朝のニュースの天気予報では、確かに強風注意報が発令されていた。とは言っても、注意報如きでお店が閉まる訳でも仕事が休みになる訳でもない。いつもは穏やかなミナモシティの海面を荒立てる湿った空気が鼻腔をくすぐり、嫌悪感さえ感じられる。両手で持っていたメロンパンの2口目を口に運ぼうと持ち上げたが、気怠さに負けて力なく膝の上に落とした。
どうして花屋になったのか。どうして胸を張って生きられないのか。どうして会いたい人に会いに行かないのか。どうして側にいてほしいと言ってくれた人の側にいられないのか。ルチアちゃんとランチをしたあの日に生まれた疑問は、まだ解決していない。彼女は強く、私は弱いだけだと言ったらそこまでだけれど。だったら、今までの疑問がどうして私は弱いのかという疑問に代わるだけだ。強く、なりたい。
昼食はいつも、カイナシティのベーカリーで焼き立てのパンを買っていた。町外れの海沿いのベンチで、ポケモンたちと一緒に少し遅めの昼食を取っていた。ヒザシさんは決まり事のように、毎日決まった早めの時間に昼休みを与えてくれる。有難いことだとは思っても、冷たいパンの触感にはいまだに慣れない。ミナモデパートの食材コーナーで選んだ、ビニールの袋に包装された菓子パン。焼き立てでもなんでもないそれを、喉は快く受け入れてはくれない。代わりに何度も何度も漏れてくる溜息をどうにも処理できず、膝の上に置いたメロンパンに視線を落とした。
日常を襲う虚無感。強い風に乱された前髪を整えることも忘れ、ベンチから荒れた海を見つめる。強風に運ばれてきた砂粒がパンに付着する前に、私はその食べかけの袋を閉じた。こんな憂鬱な気分を追われながら、楽しみもない毎日に嫌気が差した。いつまで、これが続くんだろうか。溜息に塗れた日々から逃亡することも脱却することも出来ず、追い掛けてくる闇に飲み込まれた世界はひどく色褪せている。今はただ、辛くても虚しくても、毎日をひたすら生きるしかない。昼休みの時間はまだあるけれど、いつまで経っても食欲は湧かない。食べかけのメロンパンを袋ごと、近くにあったくずかごに放り込み、重たい足を店に向けて動かし始めた。
異動になってから一か月も経たないのに、記憶の中の職場は次第にカイナシティからミナモシティのこの店内にすり替わってきている。ディスプレイの場所もレジカウンターの場所も全然違うのに、長年過ごしてきたカイナシティの店舗の内観はもう隅々まで思い出せない。目を閉じれば、ぼんやりと脳内に浮かぶ色鮮やかなカイナシティの店舗。目を開いたら、色のない無機質な店内。そこに放たれた一色の、ターコイズブルー。まるで何かの水彩画のように、ターコイズブルーを中心に店先の花々が色鮮やかに咲き乱れていく。真っ白のキャンバスに放たれた絵具が、色を取り戻していく。私の目には、確かにそう映った。
「…っ!」
色の失われた世界で生きていた。そこに色を落としたのは、やっぱり彼だ。無色の水に溶けていく淡い青。疑った自分の目に入り込んだのは、ヒザシさんと言葉を交わすダイゴさんの姿だった。なんで、どうして。あの日、お別れを言ったはずだ。ごくりと飲み込んだ唾液が鳴らした音が、私の意識を引っ張って我に返す。ゆっくりとこちらを振り返る彼から逃げるように、固まった足を一歩、後ろへ下げる。砂を踏む音が通りに響いた。
「ロゼちゃん!」
一瞬だった。ダイゴさんが私の姿を視界に収め、驚くように目を見開き、大股でこちらへ向かってきて、それから逃がすまいと手首を掴まれるまで。今まで滞りなく流れていたはずの時間は、古いビデオテープのようにブツブツと飛び飛びに途切れた。店先の色とりどりの花に囲まれて、私は彼に捕まった。掴まれた手首に熱が篭る。皮膚の表面がカッと熱くなるのに、心臓は凍った血液を送り出しているのか、身体中が冷え切っていく。矛盾した温度に戸惑いを隠せないでいると、彼は困ったように笑った。
「ごめんね。会いに来てしまったよ。」
胸が痛い。まだ答えは出ていない。会いに行けない理由も、胸を張って隣に並べない理由も、私が弱いままの理由も、てんで解けそうにない難問だ。会わせる顔がない。なんで、会いになんて。あの日の彼の言葉が、本物であったと裏付けるようなこと、しないで。強く掴まれた手は容易に解けるものではなく、力強く拳を握った。いつまでも堂々と立ち振る舞う彼に、腰が引けてしまう。真っ直ぐに私を見つめるその瞳から、逃げ出したい。
「わ、私…、仕事が…」
これ以上、心を掻き乱さないで。ダイゴさんの側にいると、彼が強く逞しい分、私の弱く脆い部分が明るみに照らされる。恥ずかしくてたまらない。彼の側にいることも、彼の言葉を信じてあげられないことも。話がしたいんだ、と彼は私の心を揺さぶる。無理だ。これ以上側にはいられない。振り解こうとした手が、控えめに名前を呼ばれたことによって音も無く止まった。
「ロゼ、行っておいで。」
もう一度、名前を呼ばれて店内に視線を移すと、全てを諦めたかのように優しく笑みを浮かべたヒザシさんがこちらを見ていた。ダイゴさんはそれに深く頭を下げ、もう一度私に、話があるんだと言った。真剣な眼差しに、視線を逸らせなくなり、私は彼に従うほかなくなった。手が離され、彼は私に自由を与える。でも今さらもう逃げ出せなくて、先導するその背中を追うように小幅の一歩を踏み出した。
話とは一体なんだろうか。あの日のことは冗談だから忘れてくれとかかな。それなら心配しなくても、私は偽物だったと気付いているから、大丈夫だよ。私の手を引く彼の背中に、心の中で声を掛ける。無意味なことだと分かっていても、この沈黙に耐えるには、こうして移動の時間を潰すしかなかった。
けれど連れられて来たのは、店先から数十歩の路地裏だった。私の仕事を考慮して、手短に済ませてくれるつもりなんだろうか。いつだったか、何もかもが嫌になって流した涙を拭ってくれたことを思い出した。私も目元を掠めた彼の骨ばった手も、触れた指の温度も、指輪の冷たさも。カイナシティでの生活を忘れても、たった数分の出来事は鮮明に思い出せるなんて、皮肉。彼はくるりと振り返って私に向き合う。視線が合ってしまわないように、咄嗟に俯いた。
「君に謝りたくてね。」
本当はもっと早く会いに来るつもりだったんだ、と続ける彼に、言葉を失う。謝ることなんて、何もない。全て、私が弱いのが悪いんだ。彼の隣まで行けない私が。そう自分を責めて、彼の綺麗な革靴を見つめながら下唇を噛み締めていると、不意に俯かせた頬に優しく手を添えられた。温かい手の平が下から持ち上げるように力を篭め、私の顔を上げさせる。絡まる視線。その瞳には私を責める様子はなく、穏やかに下げられた目尻に息を飲んだ。
「あ、謝る…?」
「ああ。僕は自分の気持ちを君に押し付けてしまった。見苦しいことをしてしまったね。悪かったと思ってる。」
どこまで行ってもダイゴさんには敵わないし、届かない。彼は歩み寄っているつもりなんだろうか。逆効果だということに、気付かないんだろうか。私には、こんな真似できない。どこまでも大人で、どこまでも残酷な人だ。私のことなんて、本気じゃないくせに。暇つぶしでしょう?息抜きでしょう?退屈凌ぎでしょう?側にいてほしいって、戯言みたいな彼の甘い声を思い出した。ここまで追い詰められたら、言い聞かせて自我を保っているようなものだった。あんなの、嘘に決まってる。
「…気持ち……」
彼は力強く頷く。私が自分の力で顔を落ち上げるのを確認すると、再び彼の手はあっさりと離れて行った。
「気持ち、って……」
だって、嘘でしょ。冗談でしょ。あんなの、本気な訳がないでしょ。ダイゴさんが私に側にいてほしい理由も、私がダイゴさんの側にいられる資格もないのに。今度は顔は俯かせず、視線だけ左下に落とした。彼の胸元で、真っ赤なアスコットタイが強い風に吹かれ揺れている。遮断するように目を閉じ、強く拳を握った。彼は一体、私をどうしたいんだろうか。これ以上踊らされて、彼に甘えず拒絶するなんてこと、自分に出来る気がしなかった。
「な、なんで…」
「なんで?」
至極不思議そうに自然に首を傾げる。ダイゴさんは、そうやってまた。一度だけ強く、切れてしまうんじゃないかってくらいの力で下唇を噛み締めてから、意を決するように息を大きく吸った。
「なんで、私のことなんか…っ!なんで、私になんか、会いに来るの!?」
ぼろぼろと情けなく涙が零れ落ちたのは、強風でゴミが入ったからではない。ドライアイでもない。彼の前で八つ当たりのように声を荒げたのは、実質初めてだ。今までどんなに恋い焦がれても嫉妬しても、本心を隠して笑顔を浮かべていたのに。全部、全部ダイゴさんのせいだ。私が弱いのも、釣り合わないのも、毎日がこんなに辛いのも。全ての責任を転嫁して、私は逃げた。
「私なんか、私なんか…、こんなに弱くて、ダイゴさんの隣に立つことも、釣り合わないような私、なんかに…、なんで…」
うわ言のように自己否定の言葉を繰り返す私に、ダイゴさんは小さく嘆息してから、ズボンのポケットからハンカチを取り出して濡れた頬に添えてくれた。支離滅裂で意味を成さないような言葉たちに、ダイゴさんは真剣に耳を傾けてくれた。
「そうだね。だけど僕は、そんな弱くて、でも真っ直ぐなロゼちゃんに、惹かれたんだよ。」
涙で濡れた視界で、ダイゴさんが照れたように笑った。子供のように泣きじゃくる私の頭に、ふわりと優しい手の平がのった。自分が嫌いなところも全部ひっくるめて好きだと、彼がそう言ってくれている錯覚に陥る。
「何、ですか、それ……。本気でも、ない、くせに…」
「僕の気持ちを、君が勝手に決めつけないでくれ。」
いつもより少しだけトーンの落とした冷静な声色。驚いて涙が引っ込んでしまうかと思った。怒ったのだろうか。冷や冷やしていると、彼は先ほどとは異なる優しめで、そして悲しげな声で言葉を続けた。
「僕が君に贈った言葉は、全部本物だよ。」
今度こそ涙が引っ込んだ。頬を流れる涙を拭ってくれていた手が、ぴたりと止まった。たぶん、私が今までにないくらい不安げな表情で彼を見上げたからだと思う。彼はそれを安心させるように、いつもの優しい笑みを浮かべた。途端に沸き起こる鼓動。今まで止まっていたのかと誤解してしまうほど静かだったはずの心臓が、その存在を思い出したように主張し始める。
「本物…?」
彼の言葉は、本物だったの?本当に?いまだに半信半疑で、だらしなく半分開いた口を見て、彼は私の心情を理解したのか、絡まる視線に言の葉をのせ、私の息も思考も時間も全部まとめて止めてみせた。
「僕は、ロゼちゃんのことが、好きだ。」