お風呂に入り終え、寝床につくまでののんびりとした時間。ソファの下で膝を抱えながらテレビを見ていた一松が、不意に自分の唇に指を添えた。彼が人差し指で唇を触るのは彼の無意識な癖のようなもので、おそらく口が寂しいとかそんなことだろう。癖の後は高確率でキスをされる、しかも深い方。ねっとりじっとり、味わうように吸われ舐められ。そして身体の中心がジクジクと熱くなるのを感じながら、そのまま事に及ぶのかと淡い期待が浮上してくると、気まぐれな猫そのものみたいに一松は離れて行く。そして「何、その顔。物足りないの」と低い声で意地悪に言うのだ。

けれど今日は違う。なかなか私の方を向かず、ずっと唇をいじっている。どうしたものかとソファの上から見下ろして観察していると、いつもと触り方が違うのが分かった。

「一松、どうしたの?」

這わせるようではなくつまむように触っていて、猫背が相まってしゃくれているように見える。声をかけると、一松はテレビから私に視線を移し、こちらを見上げた。

「……痛い。」

何の脈絡もない返答で少し困惑したけれど、私は読みかけの雑誌をソファに置き、身体を下ろして一松の隣に膝をついた。一松がつまんでいる唇の隙間から、ちょうど裏に小さく盛り上がった白い突起が見える。

「口内炎?」
「…みたい。」

指を離すと弾かれたように唇が元に戻った。歯に当たって痛かったのか、顔をしかめている。口内炎にきく薬なんてうちにはないし、そもそも口内炎は時間の経過と共に消えていくものだと実家の頃の習わしがある。私にはどうしようもない。

「好き嫌いするからだよ。」

手の施しようがなく、私はソファの上の定位置に戻ると、一松はそれを追うように顔をこちらに向け、肩越しに私を見上げた。取り合ってもらえずに不満なのか、何か言いたげな様子だ。

「…別にしてないし。」
「はいダウト。この間ね、十四松くんとトド松くんに会ったとき言ってたよ。」

ソファの上で膝を立てて座り、読みかけだった雑誌を膝の上に戻して記事に目を通しながらこの間の出来事を思い出した。今の今まですっかり忘れていたけれど、二週間くらい前だったかな、何かの用事で駅に出たときに、たまたま黄色とピンクのパーカーと擦れ違った。最初は向こうも私も気付いていなかったけれど、通り過ぎて何メートルも歩かないうちに、大声を上げた十四松くんに私は振り返った。

「一松兄さんのカノジョ!」

彼女という響きが嬉し恥ずかしい。少し照れながら、十四松くんとトド松くんと挨拶を交わすと、二人はなんだかニコニコと微笑ましく私を見てきたけれど、兄弟で色違いのパーカーを着て買い物に来るキミたちの方が微笑ましいからな、という対抗心が沸き起こる。

「名前ちゃん、まだ一松兄さんと付き合ってるの?ほんと物好きだよね。」

弟からひどい言われよう。頬を膨らませる仕草は可愛らしいのに、僕にしとけばいいのになんて言葉は明らかな冗談だったので、あははと愛想笑いを浮かべておく。

「一松兄さんはね、優しいんだよ!いつも僕にアスパラガスとインゲンとピーマンくれるんだ!」

いつも、と言われるほど松野家では頻繁にアスパラガスが食卓に並ぶのだろうか。ふとした疑問を抱いていると、十四松くんは純粋に嬉しそうに、あとねインゲンとね、と言葉を続けた。それは十四松くんの好物だからあげている訳では、と思いつつも並べられる一松の偏食生活を思い浮かべると、妙に納得できる。あのいつもの無気力な感じで十四松くんのお皿に嫌いなものを移しているところとか、なんて言うか、うん。可愛い。

「あとね、最近はツナにはまってるんだって。猫と一緒に食べれるから!」

退屈そうにスマートフォンをいじるトド松くんの隣で、十四松くんは一松の最新情報を私に伝えると「一松兄さんの情報はそれくらいかな!」と満足げに笑った。いや、彼はいつも笑っているようなものなんだけど。

「あ、十四松兄さん終わった?じゃあ名前ちゃん、また家遊びにおいでね!」

可愛らしいウインク付きでお誘いをもらい、私はまた愛想笑いを浮かべることしかできなかった。嵐のような兄弟だった。それが二週間くらい前の出来事だったけど、今の今まですっかり忘れていた。

「嫌いな物すぐ十四松くんにあげるのやめたら、きっと治るよ。」

ちょっと小ばかにしたのが伝わったのか、一松は視界の端っこであからさまに機嫌を損ねてむくれている。でも私の言うことが間違っていないからか、反論はしてこなかった。そしてそのまま顔を正面に戻し、テレビの方に戻って行った。部屋には安っぽい漫才と観客の笑い声だけが響いていた。

雑誌の記事には、都内の今女性に話題のレストランのことが書かれていた。ビュッフェタイプのそのレストランは一流シェフの何とかさんがどこどこの産地から取り寄せた選りすぐりの野菜を使って、と事細かく書かれているが、正直興味はない。けれど内観は小洒落た凝ったものとなっていて、ランチタイムは安いし料理もとても美味しそうだ。

まあ、でも、一松は一緒には行ってくれないだろうな。こんな綺麗なレストランにジャージで行くわけにもいかないし。好き嫌い多いしね。仕方ないから今度誘ってみようかと会社の同僚の顔を思い浮かべると、不意に足に温かな何かが触れた。

「…い、ちまつ?」

突然の感触に驚きを隠せず、上ずった声が出た。少しだけ身を乗り出すと、靴下も履いていない素足の甲にそっと手が添えられているのが見えた。名前を呼んでも一松はテレビの方から視線を動かすことはなく、手だけが私の足に這わされていた。

一松の手は、いやらしいといつも思う。なんて言うか、触り方が。触れるか触れないかの瀬戸際でゆっくりと足をさする。くすぐったさで身をよじると、一松はようやくこちらを見上げてきた。そしてニヤリ、と口元を歪ませるのだ。

「く、くすぐったいよ。やめて。」

ぞわりと粟立つ背中。何ともないように平静を装って、一松を制するように声を掛けると、気を悪くしたのか一松はゆらりと立ち上がった。それはそれはもう、気怠げにソファの縁に手を置いて、よっこらせとでも言うように。ギシ、と足元でソファが軋んだ。

「十四松たちに会ったの?」
「え?う、うん…」

一松はソファに膝をつき、背もたれに手をついて私の方に身体を傾けた。自然と近まる距離に無意識のうちに身を縮こませる。あれよあれよという間に膝の上に置いていた雑誌は取り払われ、少し開いていた足の間に入り込み一松は私を逃がさないようにソファと自分の間に閉じ込めていた。って言うか、その話終わったんじゃなかったの?急に思い出したように会話を続けられ、困惑する。

「いつ?」
「えーっと…、二週間くらい前かな…」
「俺、聞いてないよ。」

言ってなかったからね、という言葉は私を見下ろす一松の不機嫌極まりない表情を読み取って割愛させていただいた。拗ねたと思ったらテレビに戻って、そしてまた何の脈絡もなくこちらに戻ってくるなんて、本当に何を考えているんだかさっぱりだ。気まぐれか、気まぐれなのかと心の中では大口を叩くけれど、ちっとも口にしようとは思わない。これ以上機嫌損ねたら何されるか分かったもんじゃないし。背後で流れる漫才に耳を傾けながら、気まずい空気を打開しようと、あははと薄っぺらい笑みを浮かべながら頭を掻いた。が、

「何笑ってんの。」

すかさず頭に置いた手をとられ、完全に身動きが取れなくなってしまった。ずい、と顔を近付けられ、反射的に目を逸らす。片手首を掴まれ、ソファに押し付けられると重みで少し沈んだ。

「アイツらと何かしたら言ってって、俺いつも言ってるよね。」

何かって、別に何もしていない。街でたまたま会って、少し喋ってお別れしただけだ。そもそも私だって今の今まで忘れていたし、そういうことは兄弟の方が話すんじゃないの。なんて、抵抗したらますます機嫌悪くなるんだろうな。彼は相変わらず半開きの目で、じっと私を見つめている。

「ご、ごめんね?」
「……聞き飽きた。」

おや。普段は素直に謝れば大抵許してもらえるのに、本当に虫の居所が悪いのかぶすっとしたまま大して機嫌は直らない。どうしたものかと考えていると、一松は私の手を掴んでいない方の、空いている右手で自分の唇へと運んだ。あ、まただ。今度はさっきとは違って撫でるように人差し指を添えている。顎を少し上に向けじっとりと張り付くような視線で見下ろされ、薄く開かれた唇から色気と相まったのか、途端に身体の中が熱くなるのを感じた。

「一松、そろそろ…離れよ?」
「ヤダけど。」
「わ、私が悪かったから!」
「うん、名前が悪い。」

手首を押さえ付けられ身動きが取れない上に、目前で繰り広げられる光景に恥ずかしくて堪らなくなり、私はぎゅっと強く目を瞑った。まるでそれを待っていましたと言わんばかりに、真っ暗になった視界の向こうから、クヒ、とこもるような笑い声が聞こえた気がした。それは決して聞き間違えではなかったのだろう。目を瞑った瞬間、唇に温かな感触を感じ、そのまま押されて後頭部がソファに沈み込む。触れるような、なんて可愛らしいものじゃなく、最初から深く深く舌を絡ませ、絶対に離さないとでも言うような一松らしいキスだった。

「んぅ…」
「はっ、何それずいぶん可愛い声出すじゃん、名前ちゃん。」

一松はこういう時だけ、ちゃん付けをする。仕返しが出来ないのが悔しいはずのに、頭がぼうっとして思わず溶けてしまいそうになる。一松が喋るたびに吐息が、唇が私を掠める。無意識なのか手首にこめられた力が次第に強くなって少し痛い。吐息をも奪うように口内に舌を挿入し、容赦なく暴れ回る。もっともっと距離を詰めるために一松が体重をかけてソファがさっきよりも大きく軋んだ。

「っ…!」

けれど突然、沈みかけた身体が一気に浮上するのを感じた。口内から一松の存在も消え、私は薄く目を開いた。

「一松?」

さっきまでふて腐れていた一松が、何が起きたのか目をぎゅっと閉じて必死に我慢するように眉間に皺を寄せていた。手首も呆気なく離され、私は晴れて自由の身になった訳だけど、さっぱり腑に落ちない。どうしたの、と声を掛ける前に一松は痛そうに唇をつまんで前に突き出していた。

「口内炎、痛い…」

ああ。上昇した熱が一気に冷めていくのを感じた。あれだけ激しいキスをすれば、さすがに痛いだろう。半泣きで膝を抱えているのにスウェットの股間辺りが僅かに盛り上がっているのがなんとも虚しい。キスが出来ないのは少し寂しいけれど、乾燥してしまうまでべろべろに舐められなくて済むのはありがたい。痛みに顔をしかめる一松の姿をソファの上から眺めていると、情けなくなったのか一松は抱えた膝に顔をうずめた。

「…もう好き嫌いするのやめる……」

小さな小さな声で呟かれた決意。ああ、私はどうしようもなく一松に甘いみたい。膝を抱えてうずくまる一松に近寄り、乱れた髪をそっと撫でた。

「うん、私も協力するね。」

優しく声を掛けると、一松は膝にうずめていた顔を上げて私の方を見た。そんなに痛かったのか、情けないのか、僅かに涙を浮かべている。そんな彼を見て心がほわっとするのを感じ、今度アスパラガスとインゲンとピーマンを使った美味しい料理を作ろうと心に決めた。