その日はついてなかった。朝から委員会の書記ノートは忘れて1回家に戻るし、お昼は購買でパンを買ったらお釣りを貰い忘れるし、そして今やっと委員会が終わって帰ろうと思ったところで、机の中に入れっぱなしだった日誌の存在を思い出すし。なんだか今日は忘れっぽいなと溜息をつき、椅子を引いて自分の席についた。委員会が終わってからそのまま放送室で友人たちとの話に盛り上がってしまったのを、今になって後悔した。他の部活もほとんど帰ってしまい、教室には残っているのは私だけとなった。日の入りがだいぶ遅くなってきてはいるけれど、この時間だともう窓の外は真っ暗だった。

「あれ?苗字?」

突然がらがらと横引きの扉を開け、入ってきたのは同じクラスの夜久だった。特別仲が良い訳ではないけれど、夜久は自転車通学で私はバス。向こうも遅くまで部活をやっているからたまに、バス停まで送って行ってくれたりする優しい人だ。

「あ、夜久だ。おつー。」
「おう!苗字もお疲れ!」

部活後だと言うのに元気で明るい笑顔を見せながら、夜久は私の席に近付いてきた。夜久はどちらかと言うと小柄で可愛い系の男子だ。女子の間でも可愛い可愛い言われている。さっきまで放送室で盛り上がっていた話にも、少し登場していた気がする。

「何してんだ?」
「日誌書くの忘れちゃってて、今から適当にやる!」
「あー、俺もそれよくやる。」

ドンマイと言いながらも夜久は、私の前の席の椅子に後ろ向きに座った。シャープペンを持ってたった今書き出そうとしていた手元をじっと見つめられると、なんだか書きづらい。帰らないのかな?疑問に思ったことをそのまま口にすると、夜久は視線を上げて私を見た。

「待ってる!」

部活の人は?とか、疲れてるんじゃないの?とか。そんな言葉は、夜久の真っ直ぐな目を見たら簡単に飲み込まれてしまった。また遅いからバス停まで送ってくれるのだろうか。気持ちは嬉しいけれど、さすがに日誌書くのまで待ってもらうのは申し訳ない。

「大丈夫だよ!こんなのすぐ終わるから。」
「いいんだよ。俺がそうしたいって思ってんだから。」

そんな言い方卑怯だ。断りづらくなってしまい、それ以上は何も言えなくなってしまった。申し訳ないなあと思っていると、夜久は「それにすぐ終わるんだろ?」なんて挑発的に笑ったから、私もムキになってすぐに取り掛かった。

今日あった授業を朝から順番に思い出して、やった内容と感想を一つずつ指定の欄に書き出していく。4限の授業が全く思い出せず、顔を上げて教室の前に貼ってある大きな時間割りを確認した。夜久は前の席に座ったままで、がっちり目が合ってしまった。え、もしかしてずっと見られてた?しかも目が合っても、逸らすことなくじっと見つめられている。教室には二人きり。さすがに気まずくなって、沈黙をやぶった。

「な、なに?」
「え、なにが?」

私が尋ねても逆に尋ねられるだけだった。本当に他意はなかったみたいで、夜久は純粋に不思議そうに首を傾げた。そうなるとますます気まずくなるだけだから、慌てて話題を探した。

「あー…のさ、4限の数学って何やったっけ?」
「数学は確か、演習のプリント解かされた。」

そうだそうだ。お昼休み前の授業は昼ごはんに意識を奪われるから授業の内容は全く頭に入らないんだ。そんなこともやったなあと、随分昔のことのように感じた。

「苗字、黒尾にすごい絡まれてたよな。」
「あ、そうだ!あいつ自分が出来るからって邪魔してくるんだよね。ムカつく!」

夜久と部活が同じ黒尾は、私の隣の席だ。私はすぐにムキになってしまうから、黒尾はからかいやすいのだろうか。よく絡まれてはイライラしている気がする。早く席替えしたいものだ。

「でも楽しそうだよ?」
「うそ!内心すごいムカついてるよ!」

意にそぐわないことを言われ咄嗟に否定すると、自分から話を振ってきたくせに、夜久はふーんと興味無さそうにしていた。どうしよう、なんだか機嫌が悪そう。夜久は私の机に肘をついて、下からじっと見てきた。

「ど、どうしたの?」
「まだ?」

威圧のある声に心臓が跳ねて、慌ててペンを走らせた。少し重みのあるこの空気では、先帰っていいよなんてもう言えなくなっていた。のろのろしているせいで夜久の機嫌を損ねてしまったのだろうか。急いで終わらせよう。

「なあ、苗字。」

不意に掛けられた声に、思わず顔を上げそうになった。これ以上待たせる訳にはいかない。作業を止めないように集中しながら、「なに?」とだけ返した。あとは今日の感想欄だけ。それも一日中絡んできた黒尾のあの嫌な笑みへの苛立ちしか思い出せない。何を書こうと頭を悩ませ手が止まってしまい、恐る恐る顔を上げたら夜久が真っ直ぐに私を見ていた。呼び掛けたくせに、何も言わない。何を考えているんだろう。

「夜久?どうしたの?」

目が合ってはいるのに、夜久はどこか別のものを見ている気がした。ベージュ色の短い髪に、整った可愛らしい顔立ち、のはずなのに。真剣なその表情を見ると、鼓動が速まるのを感じた。続く沈黙に我慢が出来なくなって、感想欄は適当に埋めた。そして早々にそれを持って席を立った。

「終わった!急いで出してくるからちょっと待ってて!」

そんなことを言って、本当はこの二人きりの空間を逃げ出したかった。この後もバス停までは一緒だが、やっぱり閉鎖された空間とは違う。小走りで机の間を通り抜け、ドアに向かう。

「苗字!」

すると再び名前を呼ばれ、引き止められた。ガタンと大きな音がして、振り返ると夜久は椅子から立ち上がっていた。まるで今から叫び出しそうなほどの気迫を感じて、咄嗟にぴしっと背筋が伸びた。

「は、はい?」
「好きだ!」
「…はい?」
「好きです!」

怒られると思ったから、聞き返したのに、返ってきたのは同じような言葉だった。何が?という言葉は夜久の必死な顔を見たら、喉に引っかかったまま出てこなかった。日誌を持つ手が震えた。誰もいない教室、夜久の真っ赤な顔。これは、告白、なのか。

「え…」
「何度も言わせんな!分かれよ!」

真っ直ぐ過ぎて、彼の頬が真っ赤に染まり過ぎていて、咄嗟に視線を下に落とした。夜久の気持ちが、じわりじわりと伝わってくる。私だって現役の女子高生であって、好きな人に勇気を出して告白したことだってある。本当に夜久が私を想ってくれていたなんて、にわかに信じがたいけれど。どんなに緊張して、勇気のいる行為なのかって、分かる。

「あ…りがと。」

だから、最初に出てきたのは感謝の気持ちだった。こんな私を、って。夜久とは仲が良かった。いい人だ、優しい人だとずっと思っていた。そんな人に好きだって言ってもらえて、確かにドキドキしている。でも、思わず目を逸らしたのは、夜久の気持ちが痛かったからだ。

「夜久はさ、いい人だよね。でも…」
「俺は“いい人”なんかじゃねーよ。」

夜久が短い眉をひそめて、複雑そうな表情を見せたとき、後悔した。ずっと好きだった人に、“いい人だけど”と言って振られる悲しさも悔しさも、私は知っていたはずなのに。傷付けない言い方なんて、この世に存在するのだろうか。

「…ごめん。」

苦し紛れに出た謝罪が、3年5組の教室の空気を震わせた。