溜息が尽きない。昨日の出来事を一日そこらで忘れることも出来ず。彼本人がどう思っているのかは知らないけれど、あの日誌を出してきた後、まるで何もなかったかのように「おかえり」と笑った夜久が目に焼き付いている。バス停に着くまでの道も、その日部活であったこととか、他愛のない話ばかりで、夜久自身がなかったことにしようとしているかのようにも思えた。
「おーっす。」
ドカッと机に置かれるエナメルのスポーツバッグ。朝礼ぎりぎりに教室に戻ってきたバレー部の姿に、少しだけ肩の力が入った。
「おい、朝から無視か。」
「黒尾うるさい。」
なんとなく黒尾とも気まずい。同じ部活ならば、やっぱり昨日のことは知っているのではないか。まさか人の恋愛ごとに首を突っ込むような中学生みたいな真似は、さすがの黒尾でもしないと思うけど。視線を合わせないように、反対側に顔を向けた。すると黒尾は何やら新しいおもちゃを見つけたような笑みを浮かべ、自分の席からこちらに身を乗り出してきた。
「夜久のこと振ったんだって?」
「おいっ!」
幸いにも私たちの席から夜久の席はだいぶ離れている。だけど他の人にも聞かれたくはないことだし、やはりこいつ、デリカシーのかけらもないな。ふるふると拳を握ってみせると、心底面白いというようにお腹を抱えて笑っている。
「あーカワイソー。」
笑い過ぎたのか目に浮かんだ涙を拭って、そんなことを言ってくる。棒読みにも程があるだろ。「…別にいいじゃん。」とばつが悪くなって、気を取り直して前を向いた。黒板の上に掛かった時計は、少しだけ進んでいる。
「まあな。俺関係ねーし。」
だったら話振ってくるなよと内心イライラが沸き起こる。いやだめだ、相手にするとまたつけ上がるから、無視だ無視。早く担任来いよと普段は全く思わないことを考えた。
「今朝、あいつ頭抱え込んでたからさ。」
「…え?」
「これからどうしよーって。女々しいよな、意外と。」
いや、見たままが一番女々しいと思うけど。女の子としてでも通用する可愛らしさだと思っているのは秘密だ。夜久はやっぱり、私のことを好きでいてくれているのか。昨日のことは、夢じゃない。ただ、これから夜久とはどういうスタンスで付き合っていけばいいんだろう。今までどおりには、いかないんだろう。ちらりと斜め後ろの方にいる夜久を盗み見ると、前の席の女の子と楽しげに話していた。
今日も今日とて放送委員会の活動がある。主に校内放送のネタ探し、原稿作りなどが大部分を占めている。放送室は体育館の舞台の2階にあり、ギャラリーを歩いて行かなければならない。下ではバレー部が練習に励んでいるのが見えた。
「わー、今日も夜久は可愛いね!」
「むさいバレー部の唯一の癒しだよねえ!」
「いや孤爪くんも負けてないよ。」
女子がほとんどの放送室では雑談と称してこんな失礼な会話が飛び交っているのを、下の人たちは知らない。私たち放送委員会の中でも、夜久の人気は高い。活動中も、休憩時間になったらギャラリーに出て体育館で練習をしている部活を観察したりする。それがバスケ部だったり、バドミントン部だったりは曜日によって異なる。
「今日はバレー部だね。」
「苗字ー、来ないの?」
休憩中も放送室にこもって作業を続けていたら、委員長に大きな声で呼ばれた。これ聞こえていないだろうか。外の方からはナイッサーというバレー部の掛け声が聞こえる。きっと、夜久もいるんだろうな。少し、いや非常に気まずい。
「今日はいいやー。原稿作る。」
「真面目だねー、感心感心。」
なんとかその場はごまかせたし流せたけれど、さすがに人間の生理現象にまでは抗えない。お手洗いに行きたくなって、恐る恐る放送室を出ると、体育館には誰もいなくなっていた。バレーのネットと床に転がったボールが、窓から差し込んだ夕日に照らされ、物寂しさを漂わせていた。ロードワーク中かもしれない。なんてタイミングがいいんだ、と思ってしまったとき、夜久のことを避けてしまっていることに気が付いた。
手を洗ってから、鏡の前で溜息をついた。夜久はこんな私のことを好きだと言ってくれた。なのに私は夜久のことを避けてしまっている。不条理だと、あんなに傷付いたのに、同じことをしている。鏡の中の自分は、酷く醜い顔をしていた。
お手洗いを出ると、ちょうどロードワークが終わったバレー部がぞろぞろと戻ってきたところだった。自然と肩に力が入る。さっさと放送室に戻ってしまおう。
「お、苗字じゃねーか。」
今1番会いたくない顔だ。給水機にずらりと並んだ列から名前を呼ばれ振り返ると、タオルで汗を拭きながらニヤリと笑う黒尾がいた。そしてその後ろには、夜久の姿。ばっちり目が合ってしまって、慌てて黒尾の方に視線を向けた。
「今日も委員会か?」
「え、うん。」
「そうか、頑張れよ。」
あれ、意外と普通の会話だ。その表情からして、もっと嫌がることを言ってくるのかと思いきや。本人がいる前ではからかってこないのか。それが当然なんだけど。
「黒尾も頑張ってね。」
さっさとこの場を立ち去りたい。それだけ言って、手を振ってから背中を向けた。「苗字!」と私を呼ぶ声がする。一瞬にして昨日のことが鮮明に蘇った。罪悪感がもやもやと胸を覆い始める。でも、振り返る勇気なんてなかった。
「や、夜久もがんばれ!」
今、彼がどんな顔をしているかなんて想像もつかない。想像もしたくない。私の行動が、夜久にどう思われるかなんて分からない。傷付けたかもしれない。明らかにいつもと違う態度に、気付かない訳がない。逃げたくて、走って、走って、走った。熱い空気が肺を支配していく。どうしてこんなことになってしまったんだろう。夜久は友達だったのに、どうして。もう戻れない関係に、涙がこぼれた。