そんなこともあったね、なんて二人で微笑み合った。いや、三人か。黒尾がいなければ二人で恋人の会話が出来たのに。

4ヵ月と2週間。たぶん、それくらい経った。思いを通わせ合ったこの教室とは、今日でお別れとなる。たった3年間の高校生活も、この日をもって終止符を打たれることとなる。

「卒業したくねえ〜。」

10時から行われる卒業式までの間、私たち卒業生は各教室で待機となっている。静かに、とは言われているが、席移動するなとは言われておらず、夜久は黒尾の席まで赴いていた。そしたら自然と隣の席の私も会話に入れてもらえて、最後の休み時間を楽しむことが出来た。夜久はだらんと黒尾の机に突っ伏した。

「大学にはきっと綺麗な女がたくさんいるぞ?」
「大学行けたらいいなあ…」
「夜久、ネガティブ!」

バレー部はあの頃勝ち進んでいた春高で東京開催地代表として勝ち残り、因縁の烏野高校との再戦を果たしたようだ。勝利は惜しくも逃したが、高校生活をバレーに費やした彼らの表情は、清々しいものだった。引退をした後は猛勉強で受験へと挑むこととなった。黒尾は第三志望、私は第二志望の大学への入学切符を手にしてこの卒業式に臨むこととなったが、夜久は補欠合格繰り上がりの連絡をひたすら待っている状況だ。

「どっちにしろ今日で卒業なのは変わんねーぞ。」

黒尾の言う通りだ。なんだか感傷に浸ってしまい、私も夜久も何も言えなくなった。学校に行けば、この教室ならいつでも夜久に会える。そんな日々は、今日が最後なんだから。

「そうだねえ…」
「そうだなあ…」

二人のぼやきが丁度重なってしまい、ドキッとした私を見てか、一瞬驚いてから照れたように後頭部を掻く夜久を見てか、黒尾はくくっと喉を鳴らして笑った。ああ、こんな日常も、きっといつか楽しかったと懐かしむ日が来るんだろうな。

「お前、だいぶ髪伸びたな。」
「そう?」

突然の黒尾の指摘に、私は首を傾げた。すると夜久も頷きながら「最近、髪結んでるもんな。」と同意を示した。確かに、あの頃は結んでいなかった髪を、最近は束ねることが多い。高い位置でポニーテールを作っているのを見て、夜久は「こっちも可愛い。」なんて恥ずかしげもなく言う。そして後から自分の発言に気付いて顔を真っ赤にさせながら「別に深い意味はねえぞ」なんて。どこのツンデレかとツッコミを入れたくなる言動。でも夜久の素直な気持ちが、嬉しくない訳が無い。

「やれやれ。」

黒尾がわざとらしく肩を竦めたとき、丁度担任が教室に入ってきたことにより、夜久は立ち上がって自分の席へと戻って行った。ああ、あの制服の後ろ姿を見るのも、最後か。そう思ったら、なんだか目が離せなくなって、首を後ろに回してまで目で追ってしまった。

▼

去年後輩として卒業式に参加した際は、知らない先輩が一人一人卒業証書をもらうのも、校歌を歌うのも、校長の話も長くて長くて、こんなにも退屈なものなのかという感想を抱いていた。けれど実際に自分が卒業生となって前に並べられたパイプ椅子に座っていると、校歌も校長の話も、そして同級生一人一人の顔を見るのも最後となるのだから、欠伸をする暇もなかった。1組から順に名前を呼ばれ、卒業証書を受け取りに行く。この人とはこんな話をしたなあ、とか、その人はこういう噂があったなあ、とか。色んなことを思い出しては、懐かしく思えた。そして5組の番になり、黒尾が壇上へ上がる。その背中はとても大きく見えて、嫌味な奴だったけれど、いつもからかいながらも、私や夜久に気を配ってくれて、いい奴だったなあ。委員長とは三年間同じ委員会で、厳しい委員長だったけれど、毎日委員会が終わった後も放送室に残って、色んな話をして笑い合って、そしてたくさんお世話になったなあ。そして、周りの男子よりも小柄な身体が、一歩だけ、足を前に出した。

「夜久衛輔。」

じわりと涙が浮かんだ。はい!と大きな声で返事をし、夜久は壇上の中央に向かっていく。夜久の背中は確かに小さいけれど、私にとってはちゃんと男の子だった。大好きな、男の子。あの頃はこんなに彼に惹かれることになるなんて、思ってもみなかった。今日で高校は卒業となるけれど、別々の大学へ行っても、私は夜久の隣にいたいな。そんなことを考えながら、卒業証書を受け取って振り返った夜久のことを、席からじっと見つめていた。彼が一度礼をしてから顔を上げ、壇上から下りようとしたとき、私とばっちり目が合って、小さく微笑みを向けてくれた気がした。

▼

式が終わって最後のHRが終わると、そこからはもう自由時間だ。部活の顧問や後輩と写真を撮りに行ったり、中庭にサッカーをしに行ったり、放課後のように教室の隅でガールズトークをしていたり。みんな名残惜しいのか、教室の机には学生鞄を置きっぱなしにしてクラスメイト達は思い思いの最後の時間を過ごしていた。かく言う私たちも、委員会で集合して写真を撮ったり、お別れの言葉を交わし合っていた。

「苗字先輩…!」

涙ぐみながら、名前を呼ぶ後輩たちを前に、私は小さく笑ってしまった。自分たちも、先輩が卒業してしまうときはこんな表情だったかもしれない。委員長なんて意外と泣きそうなのを必死に我慢している。

「本当に、ありがとうございました!」

放送委員会は部活のように忙しいくせに、部活のような達成感は得られない。それでも、私はこの委員会に入ったことをとても誇りに思っている。後輩たちは私たち卒業生にそれぞれ1枚ずつ色紙を渡してくれた。あ、やばい、泣きそうだ。カラフルに彩られた色紙の真ん中には、苗字先輩へ、と大きな文字で書かれていた。隣の委員長なんてもう号泣だ。もう、そんなに泣かれたら私が泣けない。

「委員長、しっかりしてよ〜、もう。あ、私たちからもみんなに、手紙書いてきたよ。」

持ってきた手紙を渡そうとした時だ。その時まで、手紙を教室に忘れてきたことを思い出さなかった。我ながら抜けてるな、なんて思ったけれど、委員長は未だに後輩たちに囲まれながらわんわん泣いていたから、私は小さく笑ってそこから離れた。

急いで教室に戻ると、そこはもう既にもぬけの殻だった。帰った人も多いのだろうけれど、ところどころ机の上に鞄が残っていて、きっとまだみんな部活で集まっているのだろう。教室の窓際後ろの方の夜久の席にも、私の隣の黒尾の席にもまだ鞄が置いてあったから、きっとバレー部でお別れ会でもしているのかな。二年生の山本くんとか、泣きついてそうだな、なんて想像してみると、一人でくすりと笑ってしまう。そんな山本くんに、夜久と黒尾は「山本うるせえ」なんて言い放っている場面が、容易にイメージできた。

「あれ、苗字も帰ってなかったんだ?」

がらがらと音を立てて私しかいなかった教室に入ってきたのは、その姿を目に入れなくても、声だけで分かる存在だった。夜久、とその名を呼べば、彼はふわりと優しく笑ってくれる。

「もう帰んのか?」
「ううん、まだ委員会で集まってるよ。夜久は?」
「俺もまだ。山本がわんわん泣いててうるせーんだよ。」

苦笑を浮かべつつも、なんだかんだ後輩に慕われて、嬉しいんだろうな。口角が少しだけ上がっているのが分かる。「何してるんだ?」と夜久に言われ、手紙のことを思い出した。委員長が大泣きしていることや、後輩への手紙を忘れてきたことを伝えると、夜久は自分の机に向かいながら「放送委員会も楽しそうだな」と笑った。

「夜久は?」

机に入れておいたと思ったが、そこに封筒の姿形はなく、教室の後ろにあるロッカーを開け、彼に聞き返した。背後からはごそごそと鞄の中をあさる音がして、何か忘れ物なのかなーと勝手に答えを予想する。机もロッカーも、この卒業式の日までに中身を空にしなければならなかったから、何も入っていない。三年間使ったジャージとか、端が折れた教科書とか、ここにあった物がなくなっていて、本当に卒業してしまうんだと、なんだか虚しくなった。ロッカーの中にも手紙はやはり入ってなく、もしかして本当に家に忘れてきてしまったのかと懸念を考えたが、その思考は全て一瞬で攫われた。

「わっ!…び、びっくりした…」

机に戻ろうと振り返った瞬間、何も返事をくれなかった夜久が、背中にぴったりとくっつくように、背後に立っていた。急激に鼓動が加速し、驚きと緊張で頭が真っ白になってしまう。振り返っても夜久はその場から動こうとはせず、私はロッカーと夜久によってこの狭い空間に挟まれることとなってしまった。

「夜久?」

私よりも少しだけ高い位置からじっと見つめられ、その場を動こうともしないから、ざわざわと胸が騒いだ。どうしたんだろう、と彼の反応を待っていると、視界の端っこで彼の手が、微かに動いた。次第に近づいてくる手に、どうしてか、身体が大袈裟にびくりと反応を示した。まさか、教室で、そんな。夜久が教室でそんなことをするはずがない、と心の中で言い聞かせても、頬に近付いてくる手に、目を瞑ることしか出来なかった。

「苗字さ、本当に髪伸びたな。」

けれど予想に反して、その手は頬の横を通り過ぎ、後頭部で髪を束ねているシュシュに辿り着いた。髪をほどきたかったのか、少し前のめりになって私の後頭部に手を伸ばしているから、自然と夜久の胸が目の前に迫っていた。しゅるりとシュシュをほどかれ、肩の上に髪が落ちてくる。それを見て無意識なのか、夜久は満足げに口角を緩めたからキュッと心を掴まれる。

「う、うん…、そうだね。」

肩に落ちた髪を一束掬い取り、夜久はそれを指で弄んだ。教室も廊下も静かで、窓の外から校庭で遊んでいる男子の笑い声が聞こえてくる。背中はロッカーについていて、夜久も目の前に立っているだけで、退路を奪われた訳ではない。なのに足はそこに生えているかのように一歩も動けなくて、更に髪を弄られていることによって、身体も金縛りにあったかのように、微動だに出来なくなってしまっている。ただただ、ドクンドクンと耳に張り付くような心臓の音が、余計に私を追い詰めている気がした。

「俺さ、苗字はずっと、罪悪感で俺と付き合ってるって思ってたんだ。」

掬い取った髪に視線を落とし、少し寂しげに、呟くようにそう言った。そんな姿に、胸が締め付けられる。そんなつもりはなかった。最初こそ、“良い人”だと思っていた夜久の気持ちに応えることが出来ないことに罪悪感に押し潰されそうになっていたが、彼と過ごすうちに次第にそんなものは消え去っていた。そう彼に思わせてしまっていたのは、私の責任なんだろう。心寂しげに目を伏せた夜久の向こうで、あの日の私たちが見えた気がした。私のことを初めて好きだと言ってくれたのも、背中を向けて彼を拒んだのも、彼を好きだと実感してそう告げたのも、全部この教室だった。全部、ここから始まったのかな。

「…好きだよ?」

夜久ならその一言で、分かってくれる気がした。真っ直ぐに目を見つめてそう告げれば、夜久は一瞬驚いたようにその大きな目を更に見開いてから、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに顔を綻ばせながら微かにはにかんだ。

「後ろ髪を、引かれたのかな?」

柔らかく微笑む彼を前にしたら、温かくてふわふわとした、形容しがたい感情が胸を覆い尽くす。ああ、これが、愛しいっていう感情なのかな。髪をいじる彼の手を取り、両手で包むように握った。自分で上げた質問に、それを口にすることでやっと納得できた。最初はね、きっと後ろ髪を引かれていた。申し訳ないって、どうしようって。でも、引っ張られすぎて、振り返っちゃったのかもしれない。夜久が、強引だったせいだ。そうやって夜久のせいにしたところで、現状は変わらないのに。

「でもいつの間にか、こんなに惹かれてた。」

自分でも、びっくりするほど。握った手の平から、熱が伝わってくる。この熱を、手放したくない。高校を卒業して、進む道が違ったとしても、夜久の隣にいるのは、私であってほしい。

そんなことを考えながら、彼の右手をぎゅっと握り締めていると、もう片方の手が私の肩に触れた。そして、少しだけ力を籠められ、私の身体は後ろに傾く。倒れるかと考える暇もなく背中がロッカーにぶつかり、視界を影が覆った。夜久が何をしようとしているのかが分かってしまい、肩に力が入った。教室だということを忘れているんじゃないだろうか。残っている人が少ないとは言え、いつ誰が戻ってくるか分からない。夜久、と押し止めようと出した声は、当の本人によって飲み込まれてしまった。触れただけなのに、この鼓動の速まりは何だろう。顔を傾け、私の目元に微かに掛かった彼の前髪。幸せそうに伏せられた目を見たら、もう何も言えなくなってしまう。唇に触れた柔らかい感触に、私はいつになっても慣れそうにない。ロッカーと夜久に挟まれたこの狭い空間で、私はひたすら騒ぎ立てる心臓を押し殺すことしか出来ない。私は彼に委ねるように、そっと目を閉じた。

「ナイショ、な?」

感触が離れたかと思って閉じた目を開くと、夜久は鼻がぶつかりそうな距離で、顔の前に人差し指を立てた。指の向こう側で、さっきまで触れていた唇が綺麗な三日月形を作っている。してやったり顔の夜久を見ると、何でも許してしまえる気さえする。いつからこんなに甘くなってしまったんだ。ああ、やっぱり夜久は全然、“良い人”なんかじゃない。そんな夜久だから、私はこんなに好きになれたのかな。これからも色んな彼のことを知っていきたい。これからも、彼の隣で笑っていたい。そう願いを込めて私も夜久と同じように、唇の前に人差し指を立てた。