その日はついていなかった。バスに乗ろうとしたら定期を忘れて一度家に戻って案の定委員会に遅刻するし、そしたら委員長にグチグチと文句を言われるし、階段でつまずいて脛を打って青アザを作るし。そして最後の最後に英語の課題が出ていたのを忘れていて、委員会が終わった後でわざわざ教室に戻らなくてはならない羽目になってしまった。
「じゃあ私ら先に帰るから。」
「はーい。」
放送室を出て委員長と共に戸締まりをしてから、そんな会話をしながら体育館の2階のギャラリーを歩いていると、体育館ではまだバレー部が自主練に励んでいた。
「あれ?夜久がいない…」
無意識のうちに彼を探して、出てきたことばにハッとして口を押さえた。確かに、体育館で練習に励むバレー部の面々の中に、夜久の姿はなかった。部活の時間帯にはいたのに、どうしたんだろ、と首を傾げたところで、委員長と目が合った。
「……」
「………な、何でもないから。」
「そう。」
それだけ言ってすたすたと歩いて行ってしまう委員長の後を、気まずくなりながら追った。
昇降口で委員長と別れ、私は暗くなった廊下を自分の教室へ向かって歩いた。消灯の時間はもう過ぎている。物静かな廊下を進んでいくと、3年2組の教室だけ明かりがついているのが見えた。誰かいるのだろうか、苦手な人だったら嫌だななんて考えながら、少し控え目にドアを開いた。
なんとなく、そんな気がしてはいた。違うや。そうであったらいいなって思ってた。教室の窓際後ろの席、私の斜め後ろの方の席で、練習着から制服に着替えた夜久が、机に突っ伏していた。がらがらと音を立てて扉を閉めると、教室の中はシンと静まり返り、落ち着かない空間を作り出していた。静寂の中で自分の席に近付くと、だんだん規則的な寝息が聞こえてきた。寝ているのかな。なんで自主練出ないで教室にいるのかな。眠いなら、帰らないのかな。色々と疑問は浮かんできたが、突っ伏した腕の隙間に夜久の穏やかな寝顔が見えて、全て飛んで行ってしまった。
「可愛い…。」
少しだけ空いた口と、呼吸をする度上下する身体。こんな無防備な夜久の寝顔を見て、可愛いと思わない人間なんて存在しないだろう。邪念を振り払うように首を横に振り、自分の机から英語のノートを取り出して鞄にしまった。ゴソゴソと音を立ててしまっても、夜久は寝息を立てたまま起きなかった。部活に疲れて爆睡してるのかな、なんて考えながら、自然と私の足は夜久の席へと向かって行った。
彼の癖っ毛が、指の先を掠める。無意識に伸ばした手は、真っ直ぐに夜久に向かっていた。指先に伝わる柔らかい感触が、胸を擽った。腕に頬を載せ、横を向いている寝顔が、次第に歪んでいく。
「ん……、苗字?」
ゆっくりと目が開き、その瞳に私の姿が映りこんでいく。その瞬間に、私の伸ばした手はそこでピタリと止まった。まさか髪に少し触れただけで起きるとは思っていなかったから、今になって鼓動が速まる。
「…よ、よだれ、ついてる。」
咄嗟に出てきたのは、そんな口から出任せだった。夜久の髪に触れた手を、さり気なくそのまま角度を変えて、彼の口元を指さした。すると夜久は寝起きでまだ頭が回り切っていないのか、私の言葉を鵜呑みにして、慌てて口を制服の裾で擦った。
「マジで?うわー、恥ずかし!」
ごしごしと擦りながら、夜久は照れたように笑いながら立っている私の方を見上げていた。
「嘘。」
「は?おい!嘘かよ!」
まんまと騙されて微かに頬を膨らませる夜久を見て、軽く笑った。そんな私を見て、夜久も笑う。消灯後の教室に、二人だけの笑い声が反響する。まるであの日のようで、鮮明に思い起こされる。そんなことを考えながら、不意に視線を向けた夜久の机に広げられたものを見て、どうしてか、運命なんてものを感じてしまったりする。
「日誌書くの忘れててさ、気付いたら寝てた!」
じっとそれを見ていると、夜久の方から事情を説明してもらった。だから、部活の時はいたのに、終わった後の自主練にはいなかったんだ。せっかく早く上がったのに、結局寝ちゃったんだね。思ったままのことを口にすると、夜久は少しだけ恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「…待ってる。」
夜久の前の席に、後ろ向きに座った。「えっ?」って、あからさまに驚きを隠せない彼に、暖かい感情が溢れてくる。これが、愛おしいっていう、感情なのかもしれない。そう思っても、否定する自分は、もういなかった。
「夜久がまた寝ちゃわないように見張ってるだけ。はい、やって。」
机の上に広げられた日誌を指さしてそう言うと、夜久は呆気に取られつつも、シャープペンを持った。でも、顔を俯かせているだけで、その手が進むことはなかった。
「…あの日、みたいだな。」
ゆっくりとこちらに上げられた顔。真っ直ぐに絡み合う視線に、心臓も胸もキュッて握られる。いつになく真剣な表情を見せた後、夜久は顔を綻ばせて微笑んだ。そう感じたのは私だけじゃなかったんだっていう安心と、期待。夜久が今も、あの時と同じ感情を持っていてくれるなら、今なら、貴方の胸に飛び込めるかもしれない。
「そ、だね。」
恥ずかしくなって、少し俯きながら小さく頷くと、夜久は満足そうに「おう。」って言って頷いてから、今度は黙々と作業を始めた。どこにやる気スイッチがあったのかは謎だが、カリカリとペンを動かして日誌の空欄を埋めていく。二人だけの教室に、ペンの音だけが鳴り響いた。
「2限の数学って、またプリントだっけ?」
「うん、そうだよ。」
突然の質問に少々驚いたが、すぐに今日の授業を思い出してそう頷いた。そういえば、あの日も数学の授業があって、授業内容を夜久に尋ねたなあ。
「苗字、今日も黒尾に絡まれてたな。」
それは問い掛けなのか、独り言なのか、一瞬分からなくて、けれど彼がどこか寂しげだったから、目を白黒させながら夜久の方を見た。当の本人はペンを動かす手は止めていないから、後頭部しか見えないけれど。この言葉の違和感は、あの時は感じなかった。あの、私が日誌を忘れて居残りをしていた、数学の授業について夜久に質問をしたあの瞬間。でも今なら分かる。
「…それ、ヤキモチ、だったの?」
自分で言葉にしてみて、全てが繋がった気がした。黒尾の話をしてから、なんだか夜久が冷たくなったと言うか、怖くなったと言うか。様子がおかしくなったのも、もしかして。
「そうだよ。」
夜久はペンを持つ手を止め、じっと私の方を見つめていた。私も夜久も何も話さない瞬間に、ドクンドクンとやけに騒がしい心臓の音が耳を支配していた。それが凄く心地悪くて、何か話さないとと、余計に急かされている気がした。色んな方向に目を泳がせても、何の言葉も見付からない私を見兼ねてか、夜久は困ったように笑った。
「気付くのおせーよ。」
その表情を、何度見たことだろう。その度に胸を掴まれ、罪悪感に苛まれて。夜久の好意が突き刺さる痛くて痛くて仕方ない、そんな日々、だったな。でも、今は、どうしてかな。夜久の好意が、ヤキモチが、嬉しくて堪らない。
「ん、終わった!」
私がぼーっとしている間にか、いつの間にか日誌を書き終えて、夜久は席を立ち上がった。「急いで出してくるから、待ってて」と、そう言って、夜久は私の前を通り過ぎて扉へ向かう。あ、行ってしまう。どうせ提出したらすぐに戻ってくるのに。どうしてだろう。
「夜久っ!」
名前を呼ばずにはいられなかった。引き止めずにはいられなかった。あの日、日誌を手に教室から出ようとする私を引き止めた夜久の気持ちが、今なら分かる。だって、
「私も……、好き。」
だって、好きだから。今まで複雑に絡み合っていたパズルのような感情が、そのたった一言によって紐解かれていく。そっか、私はいつの間にか、夜久のことを好きになっていたんだね。
扉に届く数歩手前で、夜久はゆっくりと振り返った。時間が止まったような無音の時間が続き、唾液を飲み込む音と、心臓が慌ただしく私を急かす音に、引き戻された。たかが日誌の提出で教室から出ていこうとする彼を、そんな言葉で引き止めた。でも、だって、だから。次に続く言葉が見付からない。ただ、好きだから。行かないで欲しいって、思うんだ。もう少しだけ、少しでいいから、側にいて欲しいって。だから夜久も、あの日あの時、そう言って私を引き止めたんでしょ?
「…夜久?」
夜久はその場に立ち止まったまま、目も口もポカンと開けて、でもじっと私の瞳だけを見つめていた。何も言ってくれない。次第に不安が募る心が、額に嫌な汗をもたらした。しばらく、と言っても10秒くらいたって、ようやく夜久は微かに足を動かしたのか、静寂な教室に、上履きのゴムが床に擦れる音がした。だんだんと近付いてくる夜久に比例するように、心拍数が急増している。目の前まで戻ってきて、向かい合うように立ったと思いきや、突然腕を引かれ、身体がぐらりと傾いた。
「…苗字」
震えるような声が聞こえると同時に、私の傾いた身体は、夜久に向かって雪崩込み、そして気付けば腕の中にすっぽりと収まっていた。苗字、苗字と何度も何度も耳元で名前を呼ばれ、私は夜久に抱き締められていることを実感する。夜久の身体との間から彼を見上げると、縋るように私の肩に額を載せていた。そっか、そうだよね。私は一度、夜久の気持ちを拒絶したんだ。
「俺も。俺も好き。本当に好き。マジで。」
それでも、夜久は私のことを好きでいてくれた。私のことを見ていてくれた。感謝の気持ちが溢れてくる。夜久の今までにないくらいの好意の言葉に、「ありがとう」って素直に口にすると、夜久の腕の力が強まった気がした。少しだけ、苦しい。でもきっと夜久はもっと、苦しかったんじゃないのかな。良い人だ優しい人だと言われて、好きな人に拒絶される苦しみも悲しみも遣る瀬無さも、全部知っていたはずなのに。
「夜久、好きだよ。」
大丈夫だよって、そう言うように、私も夜久の背中に腕を回し、ぎゅって抱き締めた。もし、これからも私と一緒にいてくれるなら、今までもらった夜久の愛情とか優しさとかを、少しずつ返していきたい。
「ごめんね。お待たせ。」
どれくらいかして、ようやく身体が離されたときに、夜久の方を見上げて、そう微笑んだ。何の意地を張っていたのだろう。真っ直ぐに向き合えば、今までのもやもやと不透明だった心が、こんなにも晴れやかに変化した。繋いだ手から伝わってくる熱が、ただただ幸福感を運んで来てくれているような気がして。だらしなく緩んだ私の顔を見て、夜久も幸せそうに微笑んでいた。