「私、夜久のこと傷付けてる気がする。」
不意に出てきた言葉は、左隣の席の黒尾に向けたものだった。昼休みを終え、5限目の数学ではやっぱりプリント演習の時間になった。この時間、先生は一度教員室に戻るから私たち生徒の雑談時間となる。周りががやがやとざわめき立つ頃、私も便乗して言葉を発した。
「は?」
黒尾はお得意のペン回しをしながら演習プリントを怠そうに解いていた。そんなところで突拍子もないことを言ったから、なんともマヌケな顔をしている。けれどすぐに私の言いたいことが分かったのか、眉間に皺を寄せた。
「あのな、お前何様だよ。」
「…あんたに言われたくないわ。」
自ら黒尾にこの話を振るなんて、何を血迷ったのだろう。数秒前の自分を恨みながら、やっぱり何でもないと一蹴した。我ながら自分勝手だとは思ったが、黒尾の言い方や突っかかり方は私とは相性が悪い。苛々してしまう。そんな黒尾にこの話題を振ってしまうなんて。だけど、黒尾の方はもうすっかり乗ってきてしまったようで。
「苗字が振った時点で夜久は相当傷ついてるぞ。」
いつもの人をおちょくるような言い方ではなく、本当に友人のことを考えているような言い方。ぎくり、と嫌な効果音が聞こえたような気がした。そりゃそうだ。当然のことを言われてしまい、何も言い返せない。
「今更、そんなこと考えんな。」
投げ捨てるような物言いに、苛立ちよりも先に嘆きの言葉が浮かんだ。じゃあ、どうすればいいの。黒尾に助けを求めたところで何もならない。分かっているのに。
「何をそんなに悩んでんだよ?」
「何を、って…」
自分で何を悩んでいるのかも、一瞬分からなくなった。夜久を傷付けてしまっていること?この先、どう付き合っていくかっていうこと?友達のままいてもいいのかっていうこと?どれも何となく違っているような気がした。
「そんなに考えんだったら、もう付き合っちゃえばいいだろ?」
あ、これは冗談で言っている。予想通り、黒尾の表情はいつもの悪巧みをしているような嫌な笑みでいっぱいになっていた。何も考えていないようで、からかっているようで、黒尾は夜久のことよく分かっているんだろうな。どういうわけか少しだけ、羨ましく思ってしまった。
本日すべての授業が終わり、帰りのHR、そして教室掃除を終え、晴れて委員会活動に身を投じることができる。委員長と二人で体育館二階の放送室に向かって歩いていると、体育館に大勢のバスケ部が入っていくのが見えた。今日はバスケ部か、と内心呟いたところで、何か忘れているような気がした。それはちょうど放送室に着いたところで、蘇ってきた。
「あ、数学のプリント出すの忘れた!」
はっと思い出したのは先程授業で与えられた演習プリントだ。黒尾と喋った後、一人でずっと考え込んでしまって結局プリントの問題は解き終わらなかった。あの演習プリントは授業中と、その放課後までだ。委員長に断りを入れ、放送室から教室まで走った。数学の教師は帰るのが早く、そのせいで提出できなかったという話を何回か聞いたことがある。
「あ、苗字!」
息を切らしながら教室の扉を開けると、掃除後で机は綺麗に真っ直ぐに並んでいた。そんな中で、窓側の方の席で同じように演習プリントに取り組んでいる夜久の姿があった。名前を呼んだ彼は、どことなく嬉しそうだ。一度、目を逸らし、扉を閉めて教室の中に入った。
「夜久もプリント?」
「うん、もう全然わからん。」
むう、と唇を尖らせ、腕を組みながら彼はそう言った。遠くからでも見えた彼のそんな様子に、自然と笑みがこぼれた。誰もいない教室に二人だけ。緊張の中に、柔らかい雰囲気も感じられたのは、夜久がそういう人だからだろうか。自分の席について机の中からプリントを出した。クラスメートなのに遠い席に座って、二人だけなのに別々に同じプリントを解くのか。一緒にやった方が、早く終わるに決まっている。
「夜久は今日も部活?」
上下赤いジャージを着込み、勉強に励む彼の方を振り返って、そう尋ねた。その時、夜久の机の上には二人分の筆箱とプリントがあったのが見えてしまった。
「おう!今日はコート半面だからロードワークとか多めだけど。」
放送室のある方の第二体育館は広くて新しい方で、もう一つの第一体育館は古くて設備も悪い。バスケ部、バレー部、バドミントン部などの屋内運動部は曜日ごとに体育館を分けて使っている。今日はバスケ部が第二体育館だから、バレーとバドミントンが第一体育館を分け合って使っているのだろう。ふうん、と答えてから、机上のプリントの方に視線を落とした。夜久の机には誰かの筆箱があった。自分から彼の方へ行って、一緒にやろうなんて言えない。きっと夜久はもう誰かと一緒にやっているんだ。私から言う必要も、ない。
「夜久、進んだー?」
ペンを握りしめたとき、がらがらと教室のドアをスライドさせ、入ってきたのはクラスの女子だった。特に仲良くもない子だが、反射的に顔を上げてしまって、ばっちり目が合ってしまった。なぜか気まずくなったが、その子はきゅっと唇を結び、すぐに目を逸らして扉を閉めた。
「んー、全然。」
あ、この子、夜久の前の席の子だ。私の方なんて見ず、わき目もふらずに夜久の席に向かった。斜め後ろの方で、これが分からないだとか何だとか、二人で話す声が聞こえる。なんで夜久は、そんな子と一緒にやってるの?字を書こうとした右手が、微かに震えていた。
「ここも分かんね。」
「これはあれじゃない?公式使うんじゃないかな?」
あの子は夜久の前の席に座って、後ろを向きながら夜久の机で一緒にやっている。会話からして、教えたり教えられたりしている訳ではなさそうだ。その証拠に「あれ、違った」なんて言っている。解けないと嘆く暇があったら頭を働かせろよ、となぜだかとても苛々した。私は授業中に集中していなかったからで、数学は苦手ではないし、すぐに解き終わった。
「夜久。」
こんなに苛々するのは、この女子がああでもないこうでもないと煩いからだ。そう言い聞かせて、「あー、やばい。早く部活行かなきゃなのに。」と頭を抱える夜久に近寄った。
「ん?」
「見せてあげる。」
全て解き終わったプリントを差し出した。自分から行ったからか、夜久は驚きを通り越して口をぽかんと開けていた。どうして私がこんな真似を。真っ直ぐに私を見上げる夜久の目を、見返すことができなくて、左下に視線をやった。
「部活行かなきゃなんでしょ?写していいよ。解き方は、今度教えるから、…黒尾が。」
早口で、小声で、勢いで喋った。変に思われるかもしれない。でも、理由はなんであれ、夜久に早く部活行ってほしいというのは本心だったから。
「さんきゅ!助かる!」
目を輝かせて受け取ってくれる夜久に、とても安心している自分がいる。「よければあなたもどうぞ。」と夜久と向かい合って座っている女子に言うと、少し悔しそうに小さく頷いた。
「これ一緒に出しとくよ。苗字も委員会あんだろ?」
確かに、委員長には早く終わらせて戻って来いと言われている。でも、この二人を残して放送室に向かうなんて。そう思ってしまった時には、もう遅かった。こんなの、おかしい。こんなのまるで、私が。
「…じゃあ、お願い。」
まるで逃げるように、早口でそう言った。自分の机に戻り筆箱を取り、急いで教室から出て行こうとした。こんなの、女子と二人でいてほしくないみたいじゃないか。
「あ、苗字!」
この、背中に声が掛けられる感じ。あの日の二人きりの教室を思い出した。私の手には日誌ではなく筆箱。あの日とは違うのに、体が熱くなった。
「ピザまん、意外とうまかったわ。」
恐る恐る振り返ると、夜久はやっぱり嬉しそうに、優しく微笑みながらそう言った。胸が、えぐられる。あの女の子は、話についてこれてなくて首を傾げていた。そっか、とも良かった、とも言えずに、私は逃げた。
悩んでいたのは、罪悪感だ。夜久の気持ちは嬉しい、でも応えられない。友達でいたい。なのに、私だけを見ていてほしいなんて。自分勝手さが、嫌になる。全ての矛盾した想いを抱え込みながら、私は夢中で走った。