バー『WAON -和音-』

駅から徒歩約8分の、薄暗い帰り道に掲げられた看板。今週は何度来ただろうと親指、人差し指、そして中指まで折ったところで考えるのをやめた。ドアの横に立て掛けられた、今日のオススメメニューが白のチョークで書かれた黒板を横目に、木製のオシャレなドアノブを引くと、カランコロンと掛けられた鈴が鳴る。その音が、私を桃源郷へと導く合図。

「いらっしゃいませ。」

店内に入るや否や、落ち着いた低い声が出迎えてくれた。右手側がカウンター、左手側がテーブル席。こじんまりとした店内に、マスターが選定した穏やかなBGMが流れている。いつもより高めのヒールをカツンと鳴らしながら、案内される前にカウンターの一番奥の椅子にお出かけ用の小さな鞄を置いて、その一つ手前の、定位置である左から二番目に腰を下ろす。相変わらず店は閑散としていて、私以外はスーツ姿のオジサンが二人いるくらいだった。

勝手に席につくと、カウンターの向こうからバイトくんが、ほのかに温かいおしぼりを差し出して、お疲れ様ですと労いの言葉を掛けてくれた。

「ありがとう。バイトくん、ビール。」
「俺はバイトくんでもビールでもないです。赤葦です。」
「はいはい。バイトくん、ビール!」

真っ黒のワイシャツにサロンが似合うバイトくん。こっちがニコリと愛想笑いを浮かべながら本日一杯目のビールを注文すると、若干ムスッとした様子でビールサーバーの前に立った。『バイトくん』と呼ばれるのが嫌なのか、お店に来て一発目は必ずこのやり取りがある。確固たる理由がある訳ではないけど、別に名前で呼ぶほどでもないかなって。バー特有のオシャレグラスを傾けてビールを注ぐ姿は、うん、かっこいい。

「あんまり苛めてやるなよ、名前ちゃん。」

カウンターの中のマスターが少し離れた場所から、グラスを念入りに磨きながら私に声を掛けた。呆れているのか、心なしか微笑している。苛めてないよ、可愛がってるだけだもんと、子供のように唇を突き出していると、目の前にコースターが置かれた。

「どうぞ。」

流れるような所作に、明らか年下なバイトくんに思わず見惚れてしまう。ああ、ほろ酔いだから、いつもより格好よく見えるのかな。コースターの上に音も無く置かれたビール。グラスがキンキンに冷えていて、ゴクリと喉が鳴った。頂きます、と合掌してから一気に呷って、泡のついた唇をおしぼりで軽く拭いた。

「あー、もう、今日もダメだったよバイトくん!」
「何がですか。」

合コン。今日も今日とて運命の出会いは無かった。一言で言えばハズレってとこ。溜息をつくと、バイトくんは残念でしたね、なんて心にもない言葉をくれる。はいはい、どうせ私を慰めてくれるのはこのビールだけだよ。ゴクゴク喉を鳴らして飲み込むと、身体中にエネルギーが回る気がした。カシオレ、カルーア、ピーチフィズ。女子力アップのための甘ったるいカクテルが胃の中で混ざり合っていて気持ち悪い。そういう訳で、飲み会の後だけど本日一杯目のビール。

「……名前さん、合コンの後に一人で飲み直すって、虚しくないんですか?」
「それを言ってくれるなよ、バイトくん。それに一人じゃないし?」
「いや、どう見てもオヒトリサマですよ。」

そうは言っても、なんだかんだバイトくんはいつも話し相手になってくれる。三年前、就職と同時に通い始めたバー和音。マスターとはすぐに仲良くなれて、たくさん良くしてくれたし話し相手にもなってくれた。それが一年前、マスターの奥さんが二人目の子供をお腹に授かったということで、アルバイトの募集をかけ新しく入ってきたのがこの、赤葦くんである。最近は奥さんのつわりが酷いらしく、お店にいないことも多々ある。今日はマスターとバイトくん揃って出勤のようで、オヒトリサマでも話し相手が二人もいるのだ。

「ビールならその辺の居酒屋でも行けばいいのに。」

確かに、居酒屋の方が安いし、何よりおつまみに焼鳥も枝豆も選べる。バイトくんが出してくれたナッツの盛り合わせを、頬杖をつきながら横目に流した。うーん、でも、ここだとバイトくんがいるし。頬杖の上から向かいに立っているバイトくんを見上げると、彼は逸らすように視線を落とし、真っ直ぐにシンクを見つめていた。私のことはもう無視で、皿洗いに徹するらしい。気付くと店内の客は私一人になっていた。

「それにね、最近会社で評判なんだよ私。苗字さん、仕事帰りにバーなんてオシャレって。」

カチャカチャとグラスのぶつかる音がする。バイトくんが何も言ってくれないから、アーモンドを一つ口に放り込んだ。なんだか少し、不機嫌?咀嚼しながら様子を窺っていると、終わったのか水を止めて手を拭きながら顔を上げた。

「オシャレ、ねえ。」

心底馬鹿にしたような蔑みの視線。ビールしか飲まないヤツが何を言うんだとでも思っているのだろう。好きなんだからしょうがないじゃん。年下に馬鹿にされて今度は私がムスッとヘソを曲げる。いいもん。会社の先輩に今度連れてってって言われたし。連れてくって約束したし。デートだし。口を尖らせると、バイトくんは何も言わずに表情も一切変えずにじっと私を見ていた。

「そう、ですか。…お待ちしております。」

無表情。一応サービス業なんだし、もうちょっとニコッとした方がいいんじゃないかといつも思う。でもまあ、バイトくんがニコニコ愛想笑いを浮かべるところなんて想像もできなくて、これがバイトくんだったわと一人で納得した。内側に泡が張り付いたグラスの壁面を人差し指でなぞっていると、バイトくんはもう一杯飲みますかと声を掛けてくれた。けれど、なんだかビールの気分はもう終わったようだ。たぷたぷと胃の中に溜まった重力を感じて、少し悩む素振りを見せる。明日は休日だけど、ここに来る前も飲んできた訳だし。どうしよう、かな。

「カクテル言葉ってご存知ですか。」

空いたグラスを下げ、バイトくんは初めて聞くような言葉を囁きながら、私の返事を聞かずに棚からブランデーの瓶を取った。慣れた手付きで材料をシェイカーに注いでいく。何か作ってくれるのだろうか。この店では疲れ切った私生活の鬱憤を晴らすために主にビールしか頼まないが、こうやってたまにマスターやバイトくんが私の気分に合ったカクテルを作ってくれることもある。シャカシャカと振っている姿は、やっぱり様になってるなあ。

「私に言葉を送ってくれるの?」
「はい。俺の気持ちです。」

コースターの上に置かれた三角のカクテルグラス。琥珀色の液がキラキラと輝きを放っている。バイトくんの気持ちって何だろう。カクテルに気持ちを込めるなんてキザっぽいなあ、なんて思いながらも少し気を良くしてグラスを口に運ぶと、アプリコットの甘さを追ってジンの爽やかさが鼻を抜ける。度数は高めのようだけど、飲みやすい香りだ。

「うん、美味しい!」
「林檎のブランデーと杏のリキュールで、エンジェルフェイスといいます。お口に合いました?」
「とっても!」

居酒屋の薄めたような味でなく、口に広がる深い味わい。バイトくんが私に贈ってくれたカクテル、エンジェルフェイスか。

「天使の顔だなんて照れるね、バイトくん!」
「…本当に、名前さんのことですよ。」

その時見上げたバイトくんの顔が、少しだけ微笑んでいて、柄にもなくトキメキを感じてしまう。いっつもそうやっていればいいのに。寄って良かったなあ、なんて気分を良くしていると、バイトくんはそれを容赦なく落としてくれる。

「天使の顔をした悪魔。」
「えっ?」
「綺麗な色合いに見合わず度数が高いので、天使の顔をした悪魔。意味は移り気な心。」

シェイカーやマドラーをシンクに置いて、ぽかんとしている私の顔を見て、片方だけ口角を吊り上げた。まさに名前さんにピッタリですね?なんて意地の悪い笑みを浮かべて。機嫌を良くしてしまった自分が恥ずかしい。天使の顔をした悪魔は君じゃないかと言ってやりたいところ、してやられたわ、と小さく笑いながら肩を竦めた。