ああ、怠い。心底怠い。口を開けば自慢話。閉じれば自分に酔い痴れたような熱い視線。帰りたいなあ、と自室のベッドを思い浮かばながら、進むのは美味しいお酒ばかり。常夏の海を彷彿とさせるテキーラサンライズを飲み終え、カウンターにグラスを置く。

「苗字さん次、何飲む?」

見慣れたメニューをまるで自分の物のように見せる先輩に、溜息をこぼした。なんでこうなったんだっけ、と酔いの回った頭で考える。会社の先輩に、行きつけのバーに連れてって欲しいって言われて、連れて来て、これか。苗字さんオシャレだねって煽てられただけで調子に乗った昔の自分を殴ってやりたい。この間先輩がリーダーを務めたプロジェクトの話を延々とされる。つまらなくて、お酒ばかりが進んでしまうのだ。

「これなんて飲みやすくてオススメだよ。ロングアイランドアイスティー。」

はい、出ましたド定番。『私お酒分かんな〜い』体で今日の話を進めたため、先輩はお酒の知識をひけらかしたいらしい。実際ビール以外のお酒に詳しくはないため、いつもバイトくんに教えてもらっていたりする。すぐ忘れるけど。バーで自信満々にオススメされても、目の前に本職がいるのだから、貴方に聞くくらいなら店員さんに聞きますと内心思いながら、じゃあそれにします〜と頷いておく。何となくそうかとは思っていたけれど、あからさまにお持ち帰りを狙っている先輩に、気分は急降下。帰りたい。

「苗字さん、大丈夫?酔っちゃった?」

そりゃ、そんな強いお酒ばかり勧めてきたら酔うに決まってるだろ。そうみたいです〜とニコニコ笑みを浮かべた裏では、心の中で目一杯に毒づく。お待たせしました、と差し出されるグラス。うう、キツイ。意外と酔っているようで、胃が受け付けない。上に載ったレモンだけ頂きたいなあと考えていると、前から鋭い視線を感じて顔を上げた。バイトくんが無表情で私を見下ろしている。馬鹿だと思われているんだろうな。それとも早く帰れ、とかかな。なんで連れて来ちゃったんだろうと後悔に苛まれながら、自分の体裁のためにひんやり冷たいグラスを持った。

「…あれ?」
「どうしたの?」
「あ、いや…、何でもないです。」

頼んだのはロングアイランドアイスティーだったはず。本来ならテキーラのほろ苦さが口内に広がるはずが、それはほとんどアルコールを感じない美味しいアイスティーだった。グラスを持ったまま再び顔を上げると、そこにはもうバイトくんの姿はなく、他のお客さんの相手をしていた。さっきの視線は、もしかして、心配してくれていたのだろうか。

そういえば今日、マスターはいないのだろうか。先輩と来ているから、バイトくんとの個人的な話は何となく気が引けてしまう。とにもかくにも、バイトくんの気遣いに少し嬉しく感じながら、優しく胃に広がる甘さに浸っていた。

しばらくして自慢話には満足したようだ。アイスティーが空になる頃、そろそろ出ようか、と先輩は先に会計を済ませてくれたらしく、私の鞄を持ってくれた。それくらい自分で持てるわ、と取り返そうと手を伸ばした矢先、身体がぐらりと傾く。あれ、おかしい。足を崩してしまう前に、先輩が肩を回して支えてくれたが、その好意だか下心だか分からない行動に、ぞわりと背筋が凍った。体調には気を付けて飲んでいたはずなのに。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。」

肩に回された腕に嫌悪感しか沸かないのに、それを振りほどく力が残っていない。支えてもらいながら一歩一歩ドアに近付く。その時上から降ってきた、ちょっと休める場所行こうか、という甘ったるい声に、私は目を見開いた。絶対、嫌。咄嗟に引き剥がそうと胸を押した手には全く力が篭められてなく、添えるような形になってしまう。それに気を良くしたのか、先輩はニコリと微笑む。

「私、帰ります。」
「うん、大丈夫だよ。」

話聞いてるのか。あと数歩で、店から出てしまう。嫌だ。そう思って縋るように視線を向けた先は、カウンターの中でシェイカーを振る、無表情のバイトくんだった。特有の鋭い視線が、今では頼もしく感じる。自業自得かもしれない。でも私にもともとそういう気は無かったし、先輩だし、しょうがないじゃん。誰に言う訳でもなく、頭の中に言い訳を並べる。だから、お願い、助けて。バイトくんは何を考えているのやら全く表情を変えず、私の方を見て、小さく溜息をこぼしていた。

「名前さん、送ります。」
「えっ?」

突然の宣言に声を上げたのは、私と先輩の両方。カウンターから出てきてドアの目の前にいる先輩に支えられた私に近付き、いとも簡単に先輩の腕を払ってくれた。そして今度はバイトくん自身が私を支えてくれて、カウンターの一番手前の席に向かって歩き出した。覚束ない足を支えるために、バイトくんの黒いワイシャツを掴んだ。意外と大きいんだな、と至近距離で見上げていると、すぐに席について座らせてくれた。いつも辛辣で意地の悪いことばかり言うバイトくんの優しさを目の当たりにして、胸がじんと熱くなる。バイトくんは私が席に落ち着いたのを見てから、カウンターの中に戻ってひんやり冷たい水を出してくれた。そしてまた無言で視線をくれる。それは何を言っているのだろうか。真意が見えないが、今の状況を打開するために、回らない頭を必死に動かした。

「ごめんなさい、ちょっと酔い醒ましてから帰りますね。送ってもらうのでご心配なく。お金、今度お支払します。じゃあ、また会社で。」

少しキツイが、付け入る隙を与えない言葉を並べると、先輩は諦めてくれたようで、何か一言二言だけ残して店内から去って行った。カランコロンと鈴が鳴って、私の桃源郷が戻ってくる。お水、美味しい。

「ごめん。ありがとう、バイトくん。」
「…飲み過ぎですよ。」
「ね。そんなに酔ってないと思ってたんだけど。」

あはは、と照れ笑いをしても、バイトくんは少しも表情を崩してくれる訳じゃないけど。とにかくお詫びがしたくて、その場で頭を下げた。ごめん、と何度謝ってもバイトくんは何も返事をくれず、洗い物の音だけが返ってくる。どうしたものか、と水を飲んでいると、閉店までじっとしててくださいねという控えめな声が一つだけ、届いた。本当に送ってくれるつもりだろうか。水を飲んで、しばらく休めば復活できると思うけれど。まあ、なるようになるか。ふわふわと飛んでいるような感覚の中、私はカウンターに突っ伏して目を閉じた。

▼ ▲ ▼


ガタンガタンとバーらしくもない音が耳に届いて、ふわっと意識が上昇する。何事だろうか。コンタクトでしぱしぱと乾燥した目を擦りながら、きょろきょろ辺りを見回した。

「あ、おはようございます。もう閉店なのでそろそろ帰りますよ。」

酔いと眠気で頭はまだ覚醒しきっていない。ぼんやりとした視界でバイトくんが掃除のためかテーブル席の椅子を次々と上げていた。閉店の時間だなんて、随分と眠っていたようだ。飲みかけだった水を口に含み、席を立った。

「ごめんね、バイトくん!ご迷惑お掛けしました!」

まだ若干ふらついている。それを悟られないように、一度頭を下げてから慎重にドアの方へ向かう。こんなにみっともない自分をこれ以上見せたくなくて、今すぐ店を出たい。けれどドアの前の段差がラスボスの如く立ち塞がり、酔いというステータス異常のせいで呆気なくやられてしまった。バランスを崩しかけた身体が、床に落ちる前に救ってくれたのは、やっぱりバイトくんだった。

「あぶなっ…!」

二の腕を掴まれ、そのまま引っ張り上げるように抱き留められてしまった。目の前に広がる黒いワイシャツの海。本日二度目の失態と、さっきよりは鮮明になった視界で、羞恥で頭がいっぱいになる。至近距離に顔があるのは明らかで、見上げることなんて出来ずに視線を落とす。支えるように掴まれた肩が、異常に熱を持っていた。

「あっ、そ、そういえば今日バイトくん一人なんだね。」
「奥さんとお子さん一緒に体調崩したみたいで。」

淡々と告げられ、納得する。それでクローズもバイトくん一人なのか。大変な日に来てしまって、しかもこんなに迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳ない。これ以上は一応彼より年上であるというプライドが許してくれない。さっきは送ると言ってくれたけれど、あの場の出任せだったかもしれないし。

「私、帰るね。」
「…もうすぐ終わりますけど。」

やっぱり送ってくれるつもりのようだ。けれど素直に甘える訳にもいかない。大丈夫だよ、と告げて掴んでいたワイシャツを離した。

「名前さん。」

少し距離を取ると、バイトくんは私の肩を掴んだまま名前を呼んだ。そして空いていた片方の手が、ゆっくりと顔に近付く。その手が私の顎と頬を一緒に包み込むように掴み、私の意志とは関係なく上を向かされる。え、突然なんだよ。上げようとした声が、音もなく飲み込まれた。

これは一体、どういう状況だろうか。朧気な頭が一気に覚醒する。頬を左右から潰されるような感覚も、唇に触れた感触も、予想の範疇をとうに超えていた。数センチ。マスカラで伸ばした睫毛がぶつかってしまうんじゃないかと心配してしまうような距離で、バイトくんはただただ真っ直ぐに私の目を見つめていた。

「ちょ、なに!?」

訳が分からない。決してキスをされるような間柄ではないし、する理由もない。掴まれた手から逃れようと身を捩って抵抗を見せるが、唇が離れただけでその手が解放してくれることはなかった。すると今度は額をゴツンと勢いよくぶつけられ、頭に鈍い痛みが走る。

「名前さんって、誰でもいいんですか?」

そんな訳ない。そんな訳ないでしょう。実際先輩は拒否したんだし。そもそもバイトくんだって、いい、なんて言ってない。けれどぶつかる程の距離でその鋭い視線を向けられたら、言葉だって抵抗だって簡単に飲み込まれてしまう。

「なら俺にしてください。」

信じ難い言葉だった。これは、この目の前の男性は、本当にあのバイトくんなんだろうか。突き刺すような瞳が、私を縛って自由にはしてくれない。金縛りにあったように身体が硬直したのをいいことに、バイトくんは再び唇を落とした。こういう時、私の勘違いでなければ目を瞑るのが正解なんじゃないだろうか。少しも目を閉じる気配のないバイトくんに、それは思い込みだったのだと答えが下される。そんな思考を余所に、左右から頬を押され、呆気なく口が開いた。

待って。そんな声が出るはずもなく、彼は容赦なく舌を捻じ入れる。どうしてこんなことに。じわりと浮かんだ涙を見ても、バイトくんはやっぱり止まらないし、表情だって崩さない。襲い掛かる迫力に負け、足が一歩後退ると、そこはもうラスボスの段差を超えたドアだった。ガタンと音が鳴って、私の足がぶつかる。

「っ、バイトくん!」

その反動で離れた瞬間にせめてもの抵抗をするが、バイトくんはいつもの冷静な様子で、赤葦です、とだけ言った。ドアに阻まれてついに逃げ場を失ったことをいいことに、バイトくんはさっきの続きと言わんばかりに、流れるように舌を這わす。温かな彼の舌が歯にぶつかる度、舌に触れる度にビクリと身体が素直に反応を示す。気を良くしたのか、これ以上逃げられないと判断したのか、バイトくんは頬を掴んでいた手を、するりと動かして私の耳元を掠めた。感触を味わうように、ふにふにと指先で遊んでいる。

「あ、赤葦くん!」

顔を固定されていた手を解放されたことで、ようやくささやかな抵抗が実を結ぶ。俯いて唇を離すと、彼の手は未だに耳に触れていて、三度目は無さそうだ。胸を撫で下ろしていると、バイトくん…赤葦くんは私の反応を待っているのか、口を噤んでいる。私もこの状況で何を言っていいか分からず、BGMの消えた閉店後の店内に沈黙が訪れる。そこでようやく、バクバクと異常な程に速まった脈に気付いた。胸が張り裂けそうなほど心臓が高鳴っている。

「…どういうつもりかな、バイトくん。」
「名前、呼んでください。」

しまった。慣れでいつものように呼んでしまったが、お咎めは無さそうだ。チラリと視線を上げると、また何を考えているのか無表情で私を見ていた。

「えっと、どういうつもりかな、赤葦くん。」

少し恥ずかしいが言い直すと、少しだけ口元が緩まった気がした。そして再び顔が迫ってくる。三度目くるか、とぎゅっと目を瞑って顔を背けようとしたとき、予想外の衝撃が額に走った。そっちだったか。二度目のゴツンという音が頭に響く。

「誰でもいいなら、俺にしてください。」

こちらも二度目。さっきも聞いた言葉だけど、誰でもいい訳ないし、俺にしてって。

「…え?」

そこまで考えて、一つの疑惑が頭に過ぎった。嘘でしょ。酔った頭だからかもしれないけれども、俺にしてください、という言葉の真意は、もしかして。

「ええっ!?」

そんな素振り、全然なかった。額から伝わってくる熱を感じながら、今までの彼を思い返してみても、好意という好意を感じたことは無い。「うるさいです。至近距離で大声出さないでください」なんて何でもないように言う赤葦くんに、私はただからかわれているだけなのだと言い聞かせる。そうだ、そうに決まっている。そう思い込んでも、上昇した熱は下がってはくれず、さっきよりも元気になった心臓が胸の奥で踊り騒いでいるだけだった。