妥協なんかじゃなくて、私も赤葦くんと一緒にいたい。私を認めてくれる赤葦くんを、私も一番近くで認めてあげたい。応援してあげたい。流されているのかもしれないけれど、多分きっと、後悔はない。
ドアの横に立て掛けられた、黒板。本日のオススメメニューがチョークで書かれている。流れるような綺麗な筆跡。いつも見てきた景色なのに、緊張で胸が高鳴る。竦んだ足を、軽くポンと叩き、大きく息を吸い込んで、一歩を踏み出した。
「いらっしゃいませ。」
木製のドアノブを引くと、掛けられた鈴がカランコロンと音を立てた。そして扉を開くや否や、落ち着いた低音が迎え入れてくれる。グラスを拭く赤葦くんが、カウンターの中で軽く会釈をする。マスターが続いて「いらっしゃい」と微笑んでくれる。ああ、何も変わらない。いつも通りだ。
「赤葦くん、ビール。」
カウンターの奥から二番目の椅子に腰を下ろす。数日前にあられもなく見せてしまった涙なんか忘れた振りをして、何でもないように、虚勢を張って、大人の皮を被って。
「またですか。俺はビールじゃないです。」
「はいはい。赤葦くん、ビール頂戴。」
これ見よがしに溜息を吐くくせに、私が言う前からビール用のグラスを準備している辺り、相変わらずだ。本当に赤葦くんは、バイトとして入った頃はまだ可愛げがあった気がするものの、今では生意気にも接客なんて態度は有りもしない。鞄を左隣の椅子の上に置き、中からスマホを探していると、目の前にすっと流れるようにコースターが置かれた。
「どうぞ。」
「ありがとう!」
泡とビールの黄金比。きらきらと照明の下で光るビールは今日もよく頑張ったねと私に労いの言葉を掛けてくれているようだ。ゴクゴクと喉を鳴らして体内に流し込めば、至福の一時がやってくる。今日も今日とて、仕事は疲れるし上司の相手は怠いし。でも、黒いワイシャツに身を包まれた赤葦くんが、瞼を伏せながらカクテルを作っている姿を眺めていたら、明日も頑張ろうって思える。ビールより何より、私の疲れを癒してくれていたんだな。
「赤葦くん、ありがとうね。」
「…何がですか。」
少し離れた場所でシャカシャカと音を立てている彼に話し掛けると、真意が伝わらなかったのか僅かに首を傾げられた。別に、深い意味はないんだけどね。どうしてか、無性にお礼を言いたくなった。
「酔ってます?」
「酔ってないよ?」
無駄に緊張していた反動か、リミッターが外れたようだ。少しビールを飲んだだけで気分が良くなって、どんどん進んでしまう。一気にビールを呷る私を、怪訝そうに見ている彼が視界の端っこに映り込んだ。
「今日はまたどうしたんですか。ご機嫌ですね。会社で良いことでもありました?」
「うーん、良いことね。赤葦くんに会えたことかな。」
素直に言えば、赤葦くんは持っていたマドラーをステアする手を止め、口を半開きにしたままこちらを見上げた。らしくない姿に、私は「あはは」と声を上げて笑ってしまう。その反応で気付いたのか、赤葦くんはすぐに我に返ったようで、一度口元を抑えてから再びカクテルを作る手を動かし始めた。そしてそのまま何も言わずに、隣の方に座るカップル客の元へとそれを持って行ってしまった。
赤葦くんのあんなに驚きを隠せず動揺した表情、初めて見た。勇気も覚悟も、まだない。でも違う。逃げでも妥協でもなく、自分の心の思うまま素直になれば、簡単なことだったのかもしれない。彼のこと、まだまだ知らないことはたくさんあって、それを知っていけるのが嬉しくてたまらない。胸の奥で高鳴る鼓動を感じる。
「本当に、どうしたんですか。名前さんらしくない。」
「赤葦くんも、赤葦くんっぽくなかったよ。」
動揺をうまいこと隠したのか、彼は平静を取り戻して空いたグラスを持って戻ってきた。そのままシンクの前に立ち、水道の蛇口を捻る。私が負けじと言い返せば、彼はすんなりと口を噤んだ。今までとか、前回のデートとか、一方的にドギマギさせられていたんだから、せめてもの仕返し。
「…何か飲みますか。」
空になったビールのグラスを流し目で見て、小さく口を開く。今日は、言うために和音に立ち寄ったんだ。タイミングが掴めず、まだ何も言えていないのだから、一杯で帰ることは出来ない。何を飲もうかと、いつも飲むお酒の脳内ストックを思い返すが、ピッタリ気分に合うものがない。メニューを見れば済むことだけれど、今更自分から新しいお酒に手を出すのも、何か違う。
「あ、カクテル言葉。」
カクテル言葉って、ご存知ですか。いつぞやの赤葦くんの台詞が都合よく甦る。アプリコットの甘さとジンの爽やかさに絶妙に釣り合う嫌味ったらしい言葉を載せて、私に贈ってくれたカクテルを思い出して呟いた。あの言葉をもらったのが、もう随分も昔のように感じる。
「あの時みたいに、何か作ってよ。」
無茶振りだということは重々承知している。でも、あの時以外にも、気分に合いそうなカクテルを、という注文に彼は応えてきてくれたから。きっと今回も、また嫌味ったらしい言葉を載せて、美味しいカクテルを作ってくれることだ。なんだか楽しくて、一人にこにこと微笑みながらそう言うと、赤葦くんは少しだけ考え込むような素振りを見せてから、彼の背後の棚に手を伸ばした。
手早く材料を集めシェイカーに注ぎ込み、間髪入れずに顔の横で怠そうに振り始めた。相変わらず無表情だな。じっと見つめていても、彼は頑なにこちらを見ようとはしないから、それを良いことにまじまじと観察を続ける。シェイカーの中身を氷で満たしたグラスに移し替え、最後にソーダ水を流し込む。慣れた手付き。白く細長い指。ああ、やっぱり綺麗だ。
「アプリコットフィズです。」
あ、これ美味しいやつだ。杏の香りが効いていて、甘いけど甘すぎず、さっぱりとした口当たり。空になったビールのグラスと交代するように、コースターの上に音もなく置かれる。飲んだことのあるカクテルだけれど、これが意味する言葉なんて知らない。赤葦くんに聞こうとしても手遅れで、使った器具をシンクに置き去りにしたまま、お客さんが帰った後のテーブル席の片づけに向かってしまった。贈ってくれたくせに、お礼も言わせてくれないし、教えてもくれないのか。機嫌を損ねてしまったかな。それとも、そんなに言いづらい言葉なのか、まさか罵倒されていたりして。素直になったらなったで、自分の振る舞いに自信が持てず、赤葦くんとの仲を危惧してしまう。
アプリコットフィズか。このご時世、10秒もせずに知りたいことを知ることが出来るんだから。グラスの横に置かれたスマホに手を伸ばし、ブラウザを開いた。アプリコットフィズ。カクテル言葉。一文字一文字を確実に打ち込む。検索に読み込む時間も、もどかしく感じてしまう。
『
振り向いてください』
検索結果に表示された9文字を見て、思わずディスプレイを落した。今自分はライブハウスにいるのかと勘違いしてしまいそうなくらい、ドラムのビートのような身体を震わせるほどの鼓動が、響き渡る。胸が締め付けられて苦しいよ、赤葦くん。こんな言葉をもらう度に、罪悪感でいっぱいになっていた。応えてあげられない自分が不甲斐なくて、逃げてばかりの自分が大人げなくて。でも赤葦くんは、こんな私を今でもやっぱり、好きでいてくれるんだ。ありがとう、が溢れてくる。今度は私が、返していきたい。
テーブル席の片付けを済ませ、台ふきんを持って戻ってきた彼は、いつも通り涼しい顔で水道の蛇口を捻り、ふきんを洗い始めた。今日は、それを言うために立ち寄った。勇気も覚悟もない。でも後悔も、皆無だ。
赤葦くん、と愛おしくてたまらない、彼の名前を呼んだ。ゆっくりと伏せた瞳が上を向き始める。彼の視界に、私が映り始める。真っ直ぐに私を見つめる彼の目が、好きだ。
「もう、振り向いてるよ。」
これを言うために、今日ここに来た。次第に開いていく瞳に、私が映り込む。赤葦くんがいない生活なんて、想像もできない。一緒にいてほしい。私を支えてほしい。赤葦くんを支えてあげたい。私を甘やかしてほしい。赤葦くんを甘やかしてあげたい。感情は溢れ出るのに、それをうまく言葉にできず、それでも私の気持ちを伝えたくて、その一言を今までにないほどの極上の笑みに載せた。瞬きもせずに開けっ放しにしているせいか、それとも私の言葉に対する反応なのか、切れ長な瞳に薄らと湿った膜が張るのが見て取れた。赤葦くんは即座に顔を俯かせ、私から目を背けた。その表情は、やっぱり今まで見たこともないくらい歪んでいて、それでいてずっとずっと嬉しそうだった。
「今日、待ってて、いい?」
水が流れる音がする。台ふきんを絞り、次はさっきカクテルを作ってくれたときの器具を洗っているのか、水がグラスに跳ね、彼の腕を濡らしていく。手は震えて、うまく動いていないようだ。綺麗な唇をきゅっと力強く噛み締めているのは、その膜が崩壊してしまわないためなのか。
「…はい。待ってて、ください。」
赤葦くんはいつも自信に溢れていて、動揺も焦燥も感じさせなかったけど、やっぱり不安だったんだろうか。私の中で、5つも年下の大学生の気持ちになんて応えられないと葛藤があったように、彼の中では5つも上の社会人が振り向いてくれるはずない、と。そういう不安もあったんだろうか。初めて聞く震えた声に、思わず抱き締めてあげたくなる。つくづく、気持ちを理解してあげられない自分が嫌になる。
「赤葦くん、ありがとうね。」
私を、好きになってくれて。私が嫌いな私を、好きになってくれて。こんなに真っ直ぐに向き合って、ぶつかってきてくれるのは、きっと赤葦くんしかいない。彼は一度水を止め、黒いワイシャツに包まれた腕をグッと強く強く目元に押し付けた。そして、改めてこちらに向き直す。
「俺をこんなに待たせたんですから、覚悟してくださいね。」
圧迫させたせいか、若干目が赤く見えるのは、恐らく気のせいではない。でも表情はいつもの彼そのもので、どうしてか胸を撫で下ろした。ああ、いつもの赤葦くん。優しい彼も、意地の悪い彼も、年上を小馬鹿にする彼も、好きだ。今なら全部、受け入れられる。赤葦くんが年下とか大学生とか、関係なかったんだよ。言い訳に過ぎず、ようやく大きな一歩を、踏み出せた気がする。
私はきっとこれからも和音に通い、興味もなさげな赤葦くんに愚痴を聞いてもらい、彼が卒業したらマスターに、新しいバイトが入ったらその人に、きっと変わらず不満を垂らすんだろう。でも、これから歩む道はこれまでとは決定的に違う。赤葦くんがいる、赤葦くんと過ごす未来が希望と期待で溢れ、楽しみで、高鳴る胸を鎮めるように、結露が垂れるグラスを傾けた。まるで祝辞を述べるように、レモンスライスが浮かんだ琥珀色のグラスの中で、カランと氷が解ける音がした。