ふわふわと、雲の上を歩いているみたいに不安定な感情に飲まれてしまいそうなのは、きっとアルコールのせい。そろそろ帰ろうかという話になり、ほろ酔いという言葉がピッタリのいい気分のままお手洗いを出た時には、既にお会計を済ませてくれていた。何から何までスマートな赤葦くん。慌てて財布を取り出そうとするも、片手で制されてしまい、もう感服さえしてしまう。すたすたと長い足で先に店を出る赤葦くんを追い掛けた。

「でも、私の方が稼いでるし!」
「ではまた次の機会に、コーヒーでも奢ってくださいよ。」

赤葦くんも若干酔ってはいるのか、いつもとは様子が違う。楽しそうと言うか、表情が柔らかいと言うか。次の機会、か。なんだか胸の奥が狭くなって、どうしようもない想いで身体がむず痒くなってしまう。コーヒーなんて、いつだって奢ってあげるのに。

「ありがとう!」

力強くお礼を言う私を見下ろし、赤葦くんも穏やかに頷いた。そして店の引き戸をガラガラと音を立てて閉め、自宅の方へと向かい始める。ここから彼の家は近いと言うのに、きっとまた、駅の向こうの私の家まで送ってくれるんだろう。それが二人の当たり前になっていて、今更ここで大丈夫なんて言ったって、赤葦くんは受け入れてはくれないんだろう。今までの彼と歩く帰り道を思い出し、薄らと笑いを浮かべた。

「あー、美味しかった!やっぱりビールに焼鳥は最高だね!」

気分が良くて、鞄を片手にぶんぶんと大きく腕を振る。ビールも焼鳥も、赤葦くんのオススメのお店は本当に美味しかった。私の好物っていうのも理由として挙げられるんだろうけど。和音で赤葦くんに注いでもらうビールも美味しいけれど、赤葦くんと一緒に飲むビールの方が、私の口にも気分にもピッタリ合うような気がした。

「名前さんは、どうしていつも和音に来るんですか?」

急な話題で、弾かれたように彼を見上げてしまう。暗い夜道。静かに街を照らしている街灯の下をちょうど通りがかり、彼の瞼に影が落ちた。

「俺がバイトで入る前から、来てたんですよね?いつもビールビールってうるさいのに、なんで和音なんだろうって。」

うるさいって何だ。聞き捨てならない暴言を混ぜられ、唇を尖らせた。そんなに言っているかな、と思い返してみれば。入店直後の開口一番は必ず『ビール!』だった気がする。それは赤葦くんがバイトで来る前から、赤葦くんの名前も知らずにバイトくんって呼んでいた頃から、ずっとだ。

「どうしてだろうね?」

和音に通い始めたのは、会社で嫌なことがあった日。ふらふらと死にそうになりながら入った閑散としたお店で、マスターが親身に話を聞いてくれたから。上司に嫌味を言われた日。同期に仕事を押し付けられた日。後輩が指示を聞かずに致命的なミスを犯した日。最初の頃は、きっとそういう、精神的に疲労している日に立ち寄っていたはずだ。それが、いつの間にか。

「赤葦くんが、話を聞いてくれるからじゃないかな。」

何よりも腑に落ちる言葉だった。つまりは赤葦くんがいるから、赤葦くんに会いに、私はいつも和音に行くんだろう。自分で言って、ようやく自覚することができた。

「俺がバイトやめたら、どうするんですか。」

ガード下の横断通路。差し掛かったところで、電車が地上を走り、音が会話を遮る直前、赤葦くんは少し嬉しそうに、そんなことを言った。その表情の理由は、私が彼を必要としたからか。喜んでいるところ申し訳ないのだけれど。私はほんの僅かに口を開き、酸素を体内に取り込んだ。古い蛍光灯に照らされる短いトンネルは、カビ臭くて余計に胸を圧迫する。やめる?赤葦くんが?トンネル内が電車の轟音に充たされる数秒間が、永遠にも思えた。

「来年は就活だし、シフトも今みたいには入れなくなるし。」

なのに、今の時間は永遠じゃない。赤葦くんが当たり前のように「いらっしゃいませ」って迎え入れてくれるのも、当たり前のように家まで送ってくれるのも。永遠だと思えた轟音が途絶えて遠退いていくように、赤葦くんがいる日々もいつか終わる。呟くように続けられた言葉に、肺に留まっていた重たい空気を吐き出した。

「そ、そっか。そうだよね。就活かー。赤葦くんならどこでも行けそうだね!」

彼は大学生で、無限の未来が待っている。毎日毎日同じような業務を機械のようにこなす私とは、根本的に違う。どうして、忘れていたんだろう。優秀そうだし。容量も良いだろうし、人事からも好かれそう。面接と言えど、赤葦くんはニコッともしなさそうだけど。それでも、私との差を思い知らされる。それに今はリクラブとか流行ってるし、大層モテるんだろうな。思ったことをそのまま口にすれば、自分の中では意外とすんなりと受け入れられた。就活生はもちろん人事の女性だって、放っておかないんじゃないかな。格好いいし、優しいし、気が利くし、大人びてるし。思えば思うほど、胸が締め付けられる。いつも彼のことを第三者の目線から客観的に分析していたはずなのに、いつからか私も渦中の人間となって、贔屓目なしには見れなくなっていた。

トンネルを越えると和音の近くの道に差し掛かり、物の輪郭がぼやけるほどの暗さが戻ってきた。赤葦くんは、何も言わない。私が彼を羨むようなことばかり口にするから、呆れられたのか。夜道に二人だけの足音が響き渡る。

「それは、俺を褒めてるんですか?それとも、自分を卑下しているんですか?」

暗い声だった。言葉に隠したはずの本心が、簡単に顕在化されてしまう。心臓が嫌な音を立て始め、それさえも赤葦くんの鋭い眼光に見透かされているような。思わず胸元で添えるように両手を重ね、出来ることなら身体中を覆い隠したくなった。

「名前さんは、自分のことが嫌いなんですか?」

赤葦くんって、人の干渉されたくない部分に土足で上がり込むような言動ばかり。逆に人に興味がないのか、自分に自信があるのか知らないけど。人生全てがうまくいっているような赤葦くんなんかに、分かるはずないんだ。

「…嫌いだよ。」

大学生のバイトなんかに会社の不満を垂らし、合コンに行っては愚痴をこぼすくせに全力で恋人作りに励んでいる訳でもなく、人生にろくな目標も持たず毎日ダラダラと出社と退社を繰り返して。年下に好意を抱かれても、相手の気持ちも考えずに自分が傷付かない方面に逃げて、受け入れる勇気も覚悟もないのに一丁前にヤキモチなんて妬いて。嫌いだよ。聞かれてもないのに、ポツポツと理由を述べる。赤葦くんの隣に立つのも恥ずかしくなるくらい、きっと彼とは違う。終わってほしくないと願った時間を、今は早く終われと思う。そうですか、と呟く赤葦くんの横で、僅かに歩くスピードを速めた。

「でも、俺の好きな人を、あなたが勝手に悪く言わないでください。」

時間が止まった気がした。それはもちろん、思い違いに過ぎないのだけど。手首を掴まれたことで足はそれ以上前には進まず、反動で僅かに振り返ってしまい、赤葦くんと向き合うような体勢になってしまった。顔を俯かせても、覗き込まれる。ああ、ここまで来ても私は弱くて、ずるい。今すぐにでも逃げ出したい。神経が研ぎ澄まされて、貼り付く鼓動の向こう側で自分の頼りない呼吸音が響いた。私が嫌いな私のことを、彼は好きでいてくれるのか。感動にも似た感情が胸に広がる。

「…赤葦くんて、ほんとに私のこと、好きなんだね。」
「はい。好きです。」

彼はいつでも真っ直ぐだ。視線だけじゃなくて、私に向ける想いと言うか。受け入れてあげられないのに、潔いばかりで薄く笑ってしまう。それなのに、私を認めてくれることが、私を見ていてくれることが嬉しくて、胸が詰まる。

「いつも愚痴垂れて、でも、それでも毎日頑張ってる名前さんが、好きです。」

涙が、止まらない。どうして、いつもそんなに真っ直ぐで、全部丸ごと受け入れてくれるような包容力剥き出しで私を見てくるんだろう。手が離され、自由が戻ってくる。ぶらんと垂れ下がる腕が自ら動くことはなく、頬に伝う筋を、彼は優しく人差し指で拭ってくれた。

「どうして泣くんですか。」

妥協かと、思った。彼の気持ちを受け入れることが出来ないのは、私が傷付きたくなくて逃げただけ。彼の気持ちに応えることは、年下の大学生に妥協しただけ。そう、思ってたの。

積極的に合コンに行ったりもしていたけれど、結局は恐らく、赤葦くんに話を聞いてもらいたいだけだ。今の生活から合コンがなくなっても、たぶん変わらずに生きていける。でも和音がなくなったら?赤葦くんがいなくなったら?毎日毎日仕事して帰って寝て、何を楽しみに生きればいいんだろう。

「ほら、帰りますよ。」

止めどなく溢れる涙は、きっとアルコールのせい。嫌だ。赤葦くんが、今の生活からいなくなるなんて考えられない。いつの間にか、こんなにも、ただのバイトだった彼に依存してしまっていたのか。大人になりきれない自分が情けないのに、赤葦くんなら支えてくれるような気さえしてしまう。年下なんかに甘えたくないのに、赤葦くんになら、甘えたい。甘やかしたい。

崖から落ちないようにと踏ん張っていたはずが、知らず知らずのうちに墜落していたようだ。崖下で蹲って泣いている私が、涙で滲んだ先に見えた気がした。