とは言ったものの。好きだとも付き合ってとも言われた訳じゃないから、どうにも反応に困ってしまう。私はどんな顔でお店に行けばいいんだろう。今週は仕事が忙しくて行けていなかったけど。胃を満たすビールの炭酸と共に吐き出した溜息。そんな私を見て、同期の友人たちは揃って笑みを浮かべた。

「名前、久しぶりにできた彼氏が大学生で困惑隠せず、だね。」

煙草の臭いが充満する個室居酒屋で、久々の気の許せる同期飲み。乾杯早々、今最高に旬の話題を繰り出してくる。腹いせなんだか単なる勘違いなんだか、あの日一緒に和音へ行った先輩が社内であることないこと言い触らしているようだ。まあ、それくらいは覚悟の上だったけど。

そんなことよりも、赤葦くんそのものだ。一体何を考えているのやら、全く真意が見えてこない。『魔が差しただけ』で終わらそうとしてあげたにも関わらず、あんなこと言うなんて。本気って、何に?

「彼氏じゃないよ。」
「でもさその高梨くん?名前のこと好きなんでしょ。」
「赤葦くんね。分かんない、告白された訳じゃないし。」
「鈍感だね〜。そんなの告白みたいなもんじゃん!」
「ね、付き合うの?大学生と!」

同期の女子たちはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら、ずいずい迫ってくる。大学生というワードをやけに強調するのは、きっとからかい半分だろう。周りにそう言われても、結局は赤葦くんの本心が見えないのだからどうしようもない。

「でも家の前まで送ってくれて即帰りますってさ、どう思う?」
「名前に魅力がない!」
「だよね。」
「冗談だよ。遊びじゃなくて本気だって言いたいんじゃないの、高梨くんはさ。」
「……赤葦くんね。」

遊びじゃなくて本気、か。本気という言葉は確かにもらったけど。どっちにしろ、分からないことだらけだ。そんな恋愛話に花を咲かせていると、近くにいたお調子者の男子が「苗字、大学生の彼氏ができたのか!」なんて騒ぎ出して事態の収拾がつかない。目に見える面倒事に肩を落とした。

なんて数時間前の出来事を思い出して嫌気が差した。その上駅の構内から外へ出ると目の前に降りしきる大雨。気が滅入ってしまう。上司の愚痴に友人の結婚話にと思いのほか話が盛り上がってしまい、終電にぎりぎり滑り込んでようやく帰ってきた。電車に乗る前は降っていなかった雨が私を迎えてくれる。まあ予報でも夜は雨だと言っていたから、しょうがない。スマホで時間を確認すると、日付を跨いで一時間経たない程だった。駅前のタクシー乗り場には終バスに乗れなかったサラリーマンが傘の行列を成している。折り畳み傘、持ってきてよかった。ほろ酔い気分のまま、雨の中に足を踏み出した。

明日は土曜日。一週間頑張った自分にご褒美の休日である。金曜日は大抵バー和音に寄って帰るのだけれど、今日は同期飲みで終電帰りだから閉店時間を過ぎてしまった。残念ながら今週はあまり赤葦くんとは会えていない。別に会いたい訳じゃないけどさ。前はプライベートで赤葦くんのことを考える時間なんてほとんどゼロに等しかったのに、今じゃこれだ。ダメな大人になるな〜、と流されやすい自分を叱咤しながら歩いていると、和音のある通りに入った。この時間はもう人通りもなく、店の電気も消えていて物寂しげである。そんな暗闇の中、店先のテントの下に人影が見えた。

「あ…。」

赤葦くんだ。閉店後の真っ暗な店の前で、無表情で雨空を見上げている。爽やか系な私服姿が眩しい。そんな彼の視線が、徐々に下に移ろっていくと同時に、鼓動が高鳴るのを感じた。

「名前さん。」

あれ、おかしいな。名前呼ばれただけなのに。目が合っただけなのに。気付かない振りもできないくらいバクバクと大きく脈打つ鼓動。静まれ静まれと心の中で念を唱えた。

「今帰り?今日は遅いんだね!」

気を紛らわせるように話を振ると、赤葦くんはそうですね、なんてほぼ無反応を返してくる。こんなに動揺しているのは私だけか。赤葦くんは何でもない様子で再び空を仰いだ。若干悔しく思いながら彼の姿を視線で追うと、なんだか違和感を覚えた。右手に持つ傘に空から降り注ぐ雨の重みを感じる中で、赤葦くんの手にその姿はない。ああ、もしかして。

「傘、ないの?」

ゆっくりと下りてくる視線が、再び私を捕える。本当にこの人は、真っ直ぐに人を見つめる人間だな。視線だけで私の身体を硬直させるだけでなく、心まで掴んで離さないようだ。

「……家に忘れてきました。」

そんな言葉を聞いた神様の悪戯か、先ほどよりも雨脚が強まる。水滴が線状に見えるくらいの豪雨の中傘も差さずには帰れず、店先で雨宿りしていたのだろう。どうしたものか。生憎傘はこの一本しかない。

「入ってく?」
「え、いいんですか?」

確か赤葦くんの家は駅を挟んだ向こうだったはず。場所までは知らないけれど、駅から近いことを期待しながらそう提案してみる。私の申し出が予想外だったのか、切れ長の目を少しだけ見開いて私を見下ろしていた。明日は予定ないし、そもそも会ってしまった手前、じゃあまたねと立ち去る訳にもいかないし。赤葦くんを家まで送ってから帰っても、そんな遅くはならないだろう。

「じゃあ家まで送ります。」
「え?いや、だから、私が赤葦くんを送って…」
「家まで送るので、その後傘貸してください。それじゃダメですか?」

こてんと可愛らしい効果音付きで僅かに首を傾げる。そんな可愛い仕草は止めてくれと心中で懇願するも叶わず。一人で頭を抱え込んでいると、「名前さん?」と名前を呼ばれた。意思確認か。この間送ってくれたときもそうだけど、赤葦くん意外と頑固なようだし、きっと私の意見には聞く耳も持たないんだろう。特に意見はないけどさ。射抜くような瞳は有無を言わせず「いいですよね?」と訴えかけてくる。

「…はい。お願いします。」

渋々頭を下げてから様子を窺うと、酷くご満悦な赤葦くんが薄らと微笑んでいた。赤葦くんのその僅かな笑みは本当に心臓に悪い。毒気に当てられていると、すっと延びてきた手に傘が奪われた。

「俺持ちます。」

右手から重みが消え、その代わりに小さな折り畳み傘の下、窮屈な空間に赤葦くんの身体が入り込む。隣に並んだ肩は私よりもずっと高く、少し動けばぶつかってしまいそうなくらいの距離にあった。少し距離を取ると、すかさず赤葦くんは私の肩に手を回してぐいっと引き寄せる。

「なんで離れるんですか。」
「いや〜、だってさぁ…」
「濡れちゃいますよ。」

こんな取るに足らない折り畳み傘、大人一人でも小さいくらいなのに。私だけでも濡れないように傘をこちら側に寄せてくれている。この間と同じように家に向かって並んで歩いているのに、今日の心持ちは前回とはまるで違う。今日はもう大丈夫。この間のような、部屋は綺麗だったかとか食器洗い済ませていたかとか、そんな馬鹿げたことは考えない。赤葦くんにそういうつもりが無いことはもう分かったから。単に家まで送ると頑固に言い張ったり、傘を私側に寄せてくれたり、赤葦くんからの女性扱いを素直に感じて、胸の辺りが温かくなる。

店の中でしか関わりを持たなかったのに、垣根を越えればこんなに色々な表情を見せてくれる。それがなんだかとても、とても嬉しく思えるの。

「赤葦くん天気予報見ないの?」
「…見ますけど。」

なのに傘忘れるなんて、意外と抜けてるんだな。ふふ、と少しだけ笑ってしまう。

「赤葦くんって何年生なの?」
「……三年です。」
「三年ってことは、今二十歳?誕生日はまだ?」
「まだです。」

ハタチか。そうだろうなとは思ってはいたけれど、実際に聞いてみると現実を突き付けられる。自分よりも随分年下なんだ。年齢もだけど、一年近く和音で赤葦くんと話していたのに、彼のこと何も知らない。今まで嫌な顔一つせず、いや、嫌な顔はしてたか。私の話ばっかり聞いてくれてたもんな。そんな優しい温かな思い出を頭の中で引き出すと、私の質問は次第に速度を上げていった。

「いつなの?」
「…12月5日。」
「冬生まれ!っぽいね!」
「そうですか?」
「色白いから。」
「単純ですね。」
「いや鋭いでしょ!スポーツやってないの?」
「中学からバレーやってます。」
「あー、だから。首とか鎖骨辺りとか白いなって思ってたんだよね。」

カウンターの向かいで仕事に励む赤葦くんの姿を思い出す。黒いワイシャツから覗く首元とか鎖骨とか、男性にしては白い方だと。やっぱりねと一人で納得していると、すぐにマンションが見えてきた。前回に比べ、大分近く感じる。残りわずか限られた時間、家のドアの前まで質問攻めしてやる。意地になって次に知りたいことを考えていると、隣からやけに鋭い視線を感じて顔を上げた。

「…俺のこと、気になりますか?」
「えっ!?そ、そういう訳じゃないけど…」
「今日はやたら色々聞いてくるじゃないですか。」

そう言われると返答に困る。前回はほとんど口を開かなかった帰り道。今日は打って変わって質問攻め。この変化は、私の感情の変化の表れなのだろうか。年下の大学生に、そんな簡単に認めてやらないけど。

「ダメでしたかね。」
「いえ。嬉しいです。」

おや、やけに素直だ。丁度一階の玄関ホールに差し掛かり、照明で彼の口元が僅かに緩んでいるのが見受けられた。傘を閉じて、オートロック用の自宅の鍵を取り出す。今日も上まで付いてくるのだろうか。家の前でさよならっていうのは少し寂しいものがあるから、出来ればここでお別れしたい。

「あー、傘。家に大きいのあるから、それ貸してあげる。」
「ありがとうございます。」

結局上までご一緒か。エレベーターに乗り込み、雨水が滴る傘を折り畳む。隣に立つ赤葦くんの肩は傘なんて意味なかったと言わんばかりに濡れて色を変えていた。背中に張り付くほど短く持ったメッセンジャーバッグは無事なようだ。タオル貸してあげようかな。でも家に上げる筋合いはないもんな。うーんと頭を捻らせていると、そんな私の様子を見た赤葦くんが面白いものでも見るように小さく笑った。

「名前さん。」

エレベーターから降りて廊下を突き進んでいると、家まであと数メートルのところで突然名前を呼ばれた。振り返ると同時にするりと首元に挿し込まれた手の感触を、誰が予想できただろう。第二ボタンまでしていて良かったなんて考える時間は与えてもくれない。赤葦くんの右手が、何故かワイシャツと首の間に入り込んでいる。

「っ!?」

余裕もなく息を飲むと、赤葦くんは楽しげに片方だけ唇を吊り上げた。そして閉まっている第二ボタンに上からもう片方の手の人差し指をかけて、ぐいっと自分の方に引っ張るから、反動で私の身体も前につんのめってしまう。支えるために彼のシャツを掴んでしまったのも、きっと赤葦くんの策略の一環だろう。首元に添えられていた右手が撫でるように移動して顎を上げる。赤葦くんの熱の篭った瞳が、一瞬だけ私の視線とぶつかった。彼の顔が次第に下がって来る。私はこれから来るであろう感触に目を瞑って備えた。

これは嫌厭?それとも期待?目を閉じた真っ暗な中で、自分の心臓だけがドクンドクンと高鳴っている。その長くて短い一瞬を、私はきっと待ち侘びている。頭の中全部が、赤葦くんに染まっていく。それも、悪くはない。けれど待てども待てども唇に感触は届かず、代わりに額に、小さな温度を感じた。

「キスされるかと思いました?」

してやったり。薄らと瞼を持ち上げれば、そう言わんばかりの笑みを浮かべた赤葦くんが、至近距離で私を見つめていた。何、これ。キスの一つや二つで、こんなに動揺してしまうなんて。身体が燃えるように熱くて、ようやく騒ぎ立てる鼓動の向こうから雨音が聞こえてきた。一気に上昇した体温を下げるように、熱の篭った溜息を一つこぼす。

「べ、別に…」
「そうですか。」

本当にこの男は、する事なす事全て心臓に悪い。乱れた呼吸を整えたくて気付かれないように小さく深呼吸をしていると、「可愛いですね名前さん」なんて容易に見破ってしまう。悔しくて、僅かに唇を噛んで視線を逸らしていると、未だに首に手が添えられていることに気が付いた。

「…あの、手…。」

恐る恐る離してくれと視線で訴えてみるけれど、赤葦くんは「ああ」と肯定なんだか否定なんだか一言だけ呟いて、ボタンは外さないままワイシャツの首元を肌蹴させた。ちょっと待ってくれ。湿った外気が入り込む。そして躊躇なく、その露になった鎖骨に赤葦くんは顔を埋めた。

「ちょっ!」
「名前さんだけずるいです。」

鎖骨に柔らかな感触を感じる。きっと、唇。噛む訳でもなく舐める訳でもなく、ただその場に唇を付けて再び「ずるい」とこぼした。

「な、に…?」
「……俺にも…」

言葉が途切れる。珍しく弱々しい赤葦くんは今何を考えているんだろう。私も、どうしちゃったんだろう。腰を屈めて私の首元に顔を埋める彼を、どうしてか、愛おしいだなんて。視界に入る彼の少しクセのある黒い髪を、撫でてあげたかった。けれどすぐに彼は離れて行く。名残惜しさも感じさせないほど、呆気なく。そして先ほどの弱気なんて忘れたように、ニヤリと唇が三日月を描いた。

「人のこと言えないくらい名前さんも白いじゃないですか。」

赤葦くんは自分の首と鎖骨を強調するように人差し指でトントンと指した。首とか鎖骨辺りとか白いなって思ってたんだよね。そんな自分の発言を思い出して恥ずかしくなる。「俺のことそんなに見てたなんて、驚きました」なんて大して驚いていないような表情で続ける。あの時赤葦くんは何も言及しなかったから気付かなかったけど、墓穴を掘っていたのか。冷めかけた熱が戻ってくる。手で僅かな風を仰いでも、全く下がってはくれない。

「じゃあ、ゆっくり休んでくださいね。」

家の数メートル手前。赤葦くんは前回と同じ台詞を残してくるりと背中を向けた。あ、行っちゃう。帰っちゃう。今日も、家に上がり込もうともせず、本当に送り届けてくれるだけ。私に触れても、そういう気分にならないんだろうか。だからと言って、家に上がり込まれても困るけど。ジレンマを感じながら一度も振り返らない赤葦くんの背中を見送る。外階段をタンタンと音を立てて下りていく彼に、何か忘れているような…。

「あ。」

手に残った、未だに雨水を滴らせている折り畳み傘。まだ傘貸してないのに。慌てて家から傘を取って来ようか、まず先に赤葦くんを呼び止めようか一瞬迷っているうちに、外階段に響いていた足音が聞こえなくなった。そして廊下から見下ろすと、玄関ホールから続く道を傘が動いていくのが見えた。傘の下からは、あのメッセンジャーバッグが覗いている。なんで赤葦くん、傘持って……え?えっと、つまり?

「う、嘘だったの…?」

思わずへなへなと力なくその場に座り込んでしまう。店の前で雨空を見上げて立ち尽くしていた赤葦くんを思い出した。「家まで送るので、その後傘貸してください。」なんて頑なに私を送ろうとしていた彼は、傘を忘れてきたなんて嘘までついて…。天気予報では確かに夜は雨だと言っていた。しっかりしてそうな彼が傘を忘れたなんておかしいと思ったよ。もしかして、少しでも一緒に居たくて嘘をついたんだろうか。もしかして、私のことを待っていたんだろうか。真相は分からない、分からないけど。そうだったら嬉しい。そうだったら、いいな。どうしてか顔中が熱くて、両手で頬を包み込んだ。