いつものシングルベッドがなんだか狭い。カーテンの隙間から漏れる日光が眩しくて、意識が戻ってくる。隣から温度を感じてうーん、と唸りながら寝返りを打つと、頭にふわりと載った温かな手に優しく撫でられる。髪を撫でられる感覚が気持ちよくて、薄らと目を開いた先では、いつもの黒いワイシャツを纏わず、日焼けを知らない真っ白な肌を露にした赤葦くんが微笑んでいた。

というお約束の展開には決してなっておらず、二日酔いで朦朧とする頭をふらふらさせながら上半身だけ起き上がり、隣に広がる冷たいシーツの海を見下ろした。泥酔だったとは言え、記憶は消えていない。昨日の赤葦くんの豹変っぷりを思い出して、ずきずきと痛む頭を両手で抱え込んだ。

『誰でもいいなら、俺にしてください』

結局あれは何だったのだろうか。驚きのあまり耳元であったにも関わらず大声を上げてしまった。その後すぐに赤葦くんは私から離れて、まるで何もなかったかのようにサロンを外してカウンターの奥へと消えて行った。その一転した態度に訳も分からずドアにもたれたまま目を丸くしていると、すぐに着替えて鞄を持った赤葦くんが戻ってきた。カットソーにリネンシャツにチノパンといった見慣れない私服姿にトクンと小さく胸が鳴る。いけないいけない。ただの大学生のファッションでしょうと言い聞かせる。

「帰りましょう。」

腕時計で時間を確認してから、お店の施錠、隣接しているマスターの家に鍵を返しに行き、落ち着いたところで赤葦くんは家の場所を尋ねてきた。お店から近いことはいつも話していたからか、いいよいいよ本当に大丈夫と遠慮しても「送ります」の一点張りに従うしかなかった。とは言え、歳も違う店員と客の間に盛り上がる話題はそう簡単に見付からず、私もさっきのことで頭がいっぱいでうまく口は回らず、静寂な夜道を二人で並んで歩くことになった。赤葦くんはあの発言とキスについては何も言及しようとしない。でもさっきの出来事からして、一人暮らしの女を家まで送るということは、つまりはそういうことなのだろうか。咄嗟に部屋を片付けていたか、洗い物は済ませておいたか、そんな考えが頭を過ってしまった。その時点で何かがおかしい。あの会社の先輩にお持ち帰りされるのは嫌だったけど、赤葦くんはオッケーということなんだろうか。黙ったまま隣を歩く赤葦くんは確かにスラッと長身で顔も格好いいとは思うけど。いい大人なんだし、酔っているからと言って年下の大学生とは止めておこう。きっと次の日死にたくなる。

なんて悶々とした思考は、全て杞憂に終わった。

「じゃあ、ゆっくり休んでくださいね。」

ドアの前で一言告げ、赤葦くんは踵を返す。え、本当に帰っちゃうの。さっきと打って変わってちょっと淡泊すぎやしないか。目をぱちくりさせている間にも赤葦くんはタンタンと音を立てながらマンションの外階段を下りていく。なんだろう、この腑に落ちない感情は。キスしたくせに。あんなこと言ったくせに。ああ大人げない。とは思うものの、一度も振り返らない赤葦くんが見えなくなるまで視線で追ってから、重たい扉を開いた。

なんでキスなんてしたんだろう。いい大人なんだし、お酒の勢いでとか、流れでとか、そういうのは在り来たりなことだけど。あの時赤葦くんは一滴も飲んでいなかった。遊びたい年頃なのかな。大学生だし。その一言で片付ければそれで済む話なのに。だったらなんで送り狼にならなかったんだろう。私に魅力が足りなかったのだろうか。誰もいない、いつもと変わりない一人っきりの部屋を見渡して、溜息をこぼした。きっと長らく彼氏もいなくて恋もしていないから、寂しかっただけだ。このことはもう考えないようにしよう。頭の中で無理矢理終止符を打って、ベッドから下りた。

とりあえず空っぽの胃に何か入れたい。アルコールにやられた胃に優しいインスタントのお味噌汁を棚から出して、電気ケトルのスイッチを入れた。そこでスマホを鞄の中に入れっ放しだったことを思い出して、昨夜ベッドの横に放り投げた鞄を取りに戻った。すぐに充電器に挿して、受信したトークの確認。先輩からの無事に帰れたかという安否確認のメッセージが一つ入っているだけだった。期待した名前ではなくて、無意識のうちに肩を落とす。赤葦くんの連絡先なんて知らないもん、当然か。充電器に繋いだままベッドに置き、キッチンに戻ろうと腰を上げた瞬間、鞄の中に見慣れないレシートのような紙屑が入っているのが見えた。昨日買い物をした覚えもなく、興味本位で手に取るとそれはレシートではなく、視界に飛び込んできた黒いインクに目を見開いた。

『昨日のこと覚えてたら連絡してください』

流れるような細い文字の下に、規則性のない11桁の数字が羅列していた。ゼロ、ハチ、ゼロ。声に出して読んでみなくたって、その数字の意味は分かる。赤葦くんは一体どういうつもりなんだろうか。素面に戻った頭はやけに冷静で、尻尾振ってその電話番号を打ち込むことも出来ない。昔使っていたルーズリーフを千切ったような紙切れをテーブルに置き、お湯の沸騰したケトルを取りにキッチンに戻った。

▼ ▲ ▼

連絡も何もなあ。駅から徒歩約8分の、バー和音。帰り道に通るこのお店に、いつでも会いに行ける距離に彼はいるんだから。あれから二日経って新しい一週間が始まっても、結局自分から連絡をする気にもなれず、赤葦くんのことは頭の片隅に置いて業務に励んだ。そして今日も今日とて帰り道に和音の前を通るのだけど。心なしかそわそわしながら店内の様子を窺った。カウンター越しにマスターがお客さんと談笑しているが、赤葦くんの姿はない。

「名前さん。」
「わっ!?」
「何してるんですか。」

覗き見に夢中になっていて、唐突に背後から掛けられた声に肩をビクッと大袈裟に揺らしてしまった。肩からずるりと落ちた鞄を抱え、こんばんわと小声で挨拶をする。けれど赤葦くんは店に入ろうとしない私を、眉をひそめて怪訝そうに見ているだけだ。手には小さな駅前スーパーのビニール袋。あ、買い出しに行っていたのかな。

「混んでないかなーって思って…」
「いつも通りですけど。」

いつも通り、店内は閑散としている。それを淡々と告げる赤葦くんも、いつも通りだ。やっぱりあれは一時の気の迷いだったのかな。年上らしく、大学生のやんちゃは忘れてあげよう。

「今日は寄って行かないんですか?」
「うーん、ビールの気分じゃないかなって…」
「じゃあ作りましょうか?」

うん、確かにバーなんだからビール以外の飲み物だってたくさんある。むしろビールを選ぶ方がおかしい話だ。搾取されているなぁとは思っても、常連としての気遣いが嬉しくて、赤葦くんが作ってくれるの?と素直に尋ねた。

「っ…!」

小さく息を飲む音がした。切れ長な目を少しだけ見開いて、私を見下ろしている。え、作ってくれないのだろうか。気が変わったのだろうか。問い掛けに何も答えてくれない赤葦くんに不安を感じた。

「赤葦くん?」
「あ、つ、作ります。俺で良ければ、いくらでも。」

いくらでも、はいらないかな。赤葦くんの珍しい動揺を垣間見て、私は首を傾げた。人差し指の甲を鼻に添え、口元を隠すような仕草。いつも冷静淡泊な赤葦くんが急にどうしたんだろう。一度視線を左下に落としてから、再び真っ直ぐな瞳を私に向けた。

「名前、憶えてくれたんですね。」

ふわりと効果音が付きそうな穏やかな笑みを浮かべ、彼は嬉しそうに言った。今度は私が思わず顔を逸らす番。いつも真顔なだけあって、その微笑みは底知れない破壊力を持っていると思う。名前くらいで、そんな。照れた様子の彼に言葉を失った。そもそも、君が呼べって言ったんじゃないか。先日の出来事が思い起こされ、顔に熱を感じる。

「…お店、入ろ?」

雑念を振り払うように話を変えても、赤葦くんはそれを許してはくれなかった。背を向けてドアに掛けようとした手首が掴まれ、視線で辿れば当然赤葦くんに辿り着く。覗き込むように少しだけ腰を屈めており、普段よりも近めの視線の高さに胸が騒ぐ。見つめる視線はいつもより熱が篭っている気がした。

「連絡、待ってました。」
「えっ、あ、ごめ…」
「別にいいですけど。」

わざわざ言うなんて、別にいいなんて思っていない証拠だ。拗ねたような様子が可愛らしくて、思わず頬が緩まってしまう。そんな私を見て更に臍を曲げたのか、表情を出さない彼がさっきよりもムッとして不機嫌を露にした。

「名前さん、俺、本気ですから。」

そして仕返しと言わんばかりにグイッと顔を近付けられた。吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳に私が映り込む。強気な物言いと鼻がぶつかってしまいそうな距離に身体は素直に硬直し、意味を理解するよりも前に「は、はい!」と返事をするしかなかった。満足そうにニヤリと笑った顔は初めて見るものだったのに、それがあまりにも彼に似合っていたからかな。あれ、赤葦くん、有りかも。なんて思ってしまった、私はダメな大人です。