だから赤葦くんはずるい人だって、前々から思っていたのよ。大人をからかうような真似ばっかり。誰に言う訳でもなく、心の中で呟いてみる。でも、「からかってるだけ」じゃなかったんだよね。先ほど向けられた真っ直ぐな視線と、彼の言葉が甦る。私は嬉しい、と思っているんだろうか。確かに、人から好意を頂くのはありがたいことだけど。ああ、これからどうしよう。ついにあの紙切れに細い字で書かれた電話番号に連絡する時が来てしまったのだろうか。いや、お店に行けばいいだけの話か。とにもかくにも、あの場から早く逃げ出したかった。さっきの子は、友達なんだろうか。クラス?サークル?どうでもいいけど、可愛かったな。若くて。いや、違うでしょ、名前。私には大人の色気というものがあるんだから。と言い聞かせたところで、視線を落とせば貧相な身体が視界に入るわけで、重たい溜息がもれてきた。無意識に張り合ってしまっていたことに気付き、更に気分が下がる。情けない。さあ、さっさと帰ってビール飲も。スーパーの袋が重たくぶら下がる手で、拳を握った。
「名前さん!」
「わっ!な、なに!?」
スーパーから出て私の家へ向かう道へと入ると、背後から名前を呼ばれて大袈裟に驚いてしまった。ビクリと揺れた肩越しに後ろを振り返ると、走ってきたのか、ハァハァと短く呼吸を繰り返す赤葦くんが立っていた。なんで来たんだ。あの時呼び止めもせず、スーパーで会計を済ましている間も、袋に詰めて出てきた時も、追い掛けて来なかったのに、なんで今さら。ずんずんと大股で近付いてくる赤葦くんの迫力に圧倒され、足がすくんでしまう。やっと追い付いた、とでも言うように後ろを振り返ったままの私の向かいに立ち、肩に手を置いた。突然の登場に、身体が縮こまる。乱れた息を整えるように一度俯いた赤葦くんは、ゆっくりと顔を上げて私の目を見た。
「送ります。」
「え…、い、いいよ!大丈夫だから。それよりさっきの女の子…」
今日は酔っていない。雨も降っていない。送る必要も理由もないだろう。せっかく友達といるのに、私のために時間を割くなんてもったいないと遠慮をしていると、肩に置かれていた手が離れ、そのまま下に降りてきた。そして流れるように私が持っていたスーパーの袋を奪っていく。
「あいつは大丈夫です。」
あいつ、って。仲、良いんだなあ。名前で呼ばれていたしね。ああ、まただ。得体の知れない、感情。勝手に苦しくなる胸に、気付かない振りをして、無理矢理口角を上げた。ダメだよ、赤葦くん。女の子なんだし、こんな時間なんだし、ちゃんと責任持って連れて帰ってあげなきゃ。諭すように言いながら、彼に取られた袋を奪い返そうと伸ばした手は、簡単に避けられてしまった。そしてあろうことか、そのまま袋を持つ手の逆の、空いている方の手で、私の伸ばした手を握ってきたのだ。そっと優しく触れるように、彼に指を纏めて包まれてしまう。彼の体温が伝わってきたのか何なのか分からないけれど、急激に身体の内側が熱を持つのが感じられた。な、何をしているんだ、赤葦くんは!頭がパニックになる寸前まで追い込んでいるというのに、赤葦くんは意味が分からない、とでも言うかのように、眉間に薄く皺を寄せながら小首を傾げた。
「名前さんだって、女の子でしょ。」
ほら、また赤葦くんは、当然のようにそんなことを言う。彼からしてみれば、私なんて五つも上のオバサンなのに。「ほら、行きますよ」なんてちょっぴり強引に、でも優しく手を引かれ、私も自然と足が動き出していた。少しだけ前を歩く赤葦くんは、私よりもずっと年下のはずなのに、とても大きく見えた。身長はだいぶ大きいんだけどね、それだけじゃない。ぎゅっと手の平までは伸びてこない彼の手からは、遠慮が感じられる。指だけをしっかりと包まれ、それが逆に胸をくすぐるんだ。
「で、でも、さっきの子…」
「名前さんは心配性ですね。他の友達呼んで迎えに来させたので、大丈夫ですよ。」
ちらりと後ろを振り向いて、私を見下ろしながら彼は言った。何だろう、この感じ。胸の奥がきゅって狭くなって、暖かな何かに包まれるような、そんな感じ。長い間忘れていた感情に、私は耐え切れず一度ぎゅっと目を瞑った。本当に、本当なんだ。ふわりと包まれた指先から、彼の気持ちが伝わってくる。真っ暗な中で、高鳴った胸の鼓動だけが強く響いていた。
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溜息が尽きないのは、誰のせい。答えは決まっている。赤葦くんだ。昨晩、あの後はオールだったんだろうか。今日の授業は大丈夫なんだろうか。書類が山積みになったデスクを前に、そんなことばかり考えてしまう。結局、私の予想は的中していたらしく、サークルというか、部活の友達が赤葦くんの家に集まっていたそうだ。それで、私を家に送り届けるとすぐに戻って行った。「温かくして寝てくださいね」なんてそれだけでコタツの代わりになりそうな温かい言葉を残して、彼はいつものように一度も振り返らずに外階段を下りて暗闇に消えて行くの。行かないで、なんて私が言えた義理じゃないし、そもそもどうしてその言葉が出て来そうになって、ぐっと喉元で押し殺したのか、私には分からない。何度目か分からない溜息をこぼしたところで、隣のデスクから名前、と声を掛けられた。
「大丈夫?そんなに仕事溜まってんの?」
「え?あー、まあ、そうだね。」
仲の良い同期の一人である彼女は、山積みの書類を前に溜息をついていると勘違いしたのか、労わりの言葉を掛けてくれた。ありがたいけれど、理由はそれではない。確かに、仕事も溜まってはいるけれど、そこは何となる。
「ね、来週合コンセッティングできたんだけどさ、行くよね?土曜日。」
すると、きょろきょろと辺りを見回して、上司の影がないことを確認すると、彼女はひそひそと耳打ちをしてきた。そして、○×商事とだよ、天下の、なんて続ける。ニヤリと上がる口角と立てた親指から、意気揚々としているのが伝わってくる。
「○×商事なんて、すごいじゃん!」
「でしょ!名前、前からやりたがってたもんね。人数入れとくね!」
言われた瞬間、脳裏に浮かんだのは赤葦くんの顔だった。今まで合コンの誘いは二つ返事で参加の意を表していたが、なぜか首を縦に振れない。仕事が溜まっていて休日返上で出勤かもしれないとか、スケジュール確認していないから空いているか分からないとか、行けない理由を探している。
「あ…、ごめん、その日、ちょっとまだ分かんないや。」
独り身のOLの休日に、特に何か大事な用事があるわけでもないだろう。だからこそ申し訳なく思いながらはぐらかすと、彼女は残念そうにそっかーとだけ言った。もう一度謝ると、大丈夫大丈夫と笑ってくれる。優しい同期に心の中で感謝をしつつ、頭に浮かんだのは別のこと。赤葦くんに言ったら、なんて言われるだろう。どんな反応をされるだろう。どうやら私は性格が捻じ曲がっているらしい。もしかしたら、止めてくれるかもしれない。行かないでくださいって、言ってくれるかもしれない。彼の気持ちに応える決意もしていないのに、私は無意識にそんな思いを募らせてしまったのだ。