いいのか、いいのかと何度も問い掛ける。○×商事なんて、未来の旦那候補には持って来いの優良物件だ。年下の大学生なんかに現を抜かして、このチャンスを逃してもよいのか。結婚適齢期までもう時間がない。婚期を逃すわけにはいかない。先週同期に誘われ出欠を保留にしたまま、合コンはもう今週の土曜日に迫っていた。どうしよう、と何度目かの溜息を漏らすと、カウンターを挟んで向かいに立っているマスターが困ったように笑った。

「何をそんなに悩んでるんだい?」

マスターには悪いけど、私は今日は赤葦くんと話しに来たのだ。当の本人は、隣の隣の隣の、そのまた隣のカウンターで並んで座る二人組の女性客に捕まって、話し相手になっている。今朝の雨はすごかったみたいな世間話の中の世間話のような話をしてるけど、見ていてあまり快くない気分だ。漏れそうになる溜息をビールで喉の奥へと流し込む。

「京治くんがこっち来れないから?」
「別にそんなんじゃないけど…」
「あんまり、もてあそんでやるなよ?」

他のテーブルから注文の入ったカクテルをシェイクしながら、彼は私に忠告する。もてあそんでいるつもりはない。と言いたいけれど。今まで曖昧だった彼の気持ちが、確かなものへと変わりつつあるのだ。

だから、むしろ私が遊ばれている。大学生が、同年代の若い女子に囲まれている彼が、だいぶ年上の私を好きになるだなんて。家まで送ってくれる割に部屋に上がり込もうとはしないし、本気度が伝わってこない。それに、好きとは言われたけど付き合ってほしいとは言われていない。つまり私から何か行動を起こすことは困難であると考えられる。頭の中に言い訳を並べながら、早く話し終わってくれ、と顔をしかめていると、その怨念が伝わったのか赤葦くんは女性たちに頭を下げてやっとこちらに来てくれた。

「こんばんは、名前さん。」
「あ、う、うん!なんか、忙しそうだったね?」

長年恋愛から離れた生活を送ってきたからか。変に意識をして吃ってしまう。告白をされただけだ、動揺すること何もなんてない。言い聞かせても、鼓動は思うように静まってはくれず、赤葦くんの何でも見透かしてしまいそうな視線から逃れるように、グラスの側面に貼り付いた水滴に目を落とした。その中に僅かに残っている液体は、赤葦くんを待っている間に溶けた氷でだいぶ薄まっている。

「…また合コン帰りに一人酒ですか。相変わらず寂しい人ですね。」

私の態度に何を思ったのか、赤葦くんは呆れたようにそんなことを言った。赤葦くんだって、相変わらずの憎まれ口。この間までと同じような冷ややかな言葉だけれども、この間までとは違う心持ちだ。言葉は針のように細く尖って私の胸を色んな角度から刺してくる。恐る恐る彼を見上げて様子を伺うと、私の方なんかには目もくれず、タンブラーの中の液体を細長いスプーンでステアしている。その所作だって、とても素敵だと思う。なのに彼は一度も目を合わすことなく、隣の隣の隣の、そのまた隣のカウンターで並んで座る二人組の女性客の元へと戻って行ってしまった。赤葦くんは「お待たせしました」と言ってタンブラーを片方の女性の前へと滑らすように置く。それはそれは静かに置いたはずが、その振動が同じカウンターの私の元まで伝わってきた気がした。

「ありがとうございます!美味しそう!」
「ごゆっくりどうぞ。」

右耳に届いた楽しげな声。ガツンという、鈍器で殴られたような衝撃が頭を襲う。私のグラスには溶けて丸みを帯びた氷が三つ、重なっているだけ。いつもなら、「名前さん、何か飲みますか?」って声を掛けてくれるはずが、今日は少しもこっちを見なかった。罰が当たったのかもしれない。せっかくの彼の言葉を素直に受け止めることもせずに、言い訳して逃げてばかりで。そのくせ合コンへ行こうとする自分を引き止めてくれるんじゃないか、なんて。

「……マスター、お会計…」

滑稽だ。幾つも年下だと思っていた赤葦くんに、無意識のうちに甘えきっていたことに気付く。大人ぶっていた自分が心底恥ずかしい。顔中に感じた熱に浮かされて、じわりと目尻に水分が滲む。困ったようなマスターの溜息に気付かない振りをして、静かに席を立った。

▼ ▲ ▼

胸を渦巻く感情は、厚い曇を重ねた空のよう。どうして、何に対して私はこんなにも落ち込んでいるのか。先程の情景が浮かんでは、振り切るように小さく首を横に振った。

「名前さん!」

私の名前を呼んだのは、少し慌てたような、待ち焦がれた声だった。お店から出て家の方向へ数分歩いたところで、彼は走って追い掛けてきたのか背後から現れた。サロンは外されていて、いつもは腰周りで固定されている真っ黒のワイシャツが、湿った風に揺らされている。

「忘れ物です。」

肩で息をしながら、彼は片手を私の前に突き出した。その手に握られていたのは、傘。

「あ。」

すっかり忘れていた。今朝は大雨で午後から曇りだったから、店の外に出た瞬間感じた湿度の違和感にも気付かなかった。

「…ありがと。」

何となく顔が見れなくて、少しだけ顔を俯かせながら傘を受け取った。この傘、前に赤葦くんに騙されて家まで送ってもらったときに一緒に入ったものだ。ついこの間までただのバイトくんだったのに、私の周りには彼に纏わる思い出が増え始めている。

「じゃあ、またね。」

この空気にいたたまれなくなって早口で告げると、くるりと方向転換する前に素早く手首を掴まれた。逃がすまいと、その鋭い視線が言っている。

「何を怒ってるんですか?」
「えっ、」

脈絡のない問いかけに思考が途切れる。怒ってる?私が赤葦くんに?そんな、まさか。怒っては、ない。私が勝手に期待して、勝手に現実を思い知って、勝手に傷付いただけ。今日、赤葦くんは何もしていない。何も。

「別に怒ってないよ。」

自分でも驚くほど、棘のある言い方だった。私がこんなにも面倒な女に成り下がっていただなんて。また一つ知って、自分を嫌いになる。掴まれた手を見下ろしながら唇を噛み締めていると、彼が小さく笑ったのか「ふっ」という吐息混じりの声が頭上に降ってきた。赤葦くんは口数は多い方ではないけれど、いつも人を真っ直ぐに見つめている気がする。目付きの問題なのかもしれないけど。それでも、私は彼のさり気ない優しさとか、射抜くような視線とか、人より少しだけ低い体温とか、そういうちょっとしたところに惹かれている。そんなことを、手首を掴んだまま真顔で見下ろしてくる赤葦くんの目をぼうっと見詰めながら考えていた。

「そうですか。てっきりお客さんにやきもちでもやいてるのかと思いましたよ。」

途端に心臓が早鐘を打ち始める。これはトキメキとかそういう類のものじゃなくて、もっと居心地が悪いもの。やきもち。真顔のまま彼の唇が象ったのは、自分にはしばらく縁のなかった言葉だった。驚くほどにその響きがすとんと胸に落ち着く。否定の言葉なんて出て来やしない。だって、私は紛れもなくやきもちをやいていたから。会いに来たんだから、構ってほしかった。お客さんだからって、いつものように私を優先してほしかった。そうしてまた、嫌いになる。

「俺の思い過ごしでした。じゃあ、俺まだバイト中なので。」

人より少し低い体温が、離れて行く。呆気なく、手が落ちる。ついこの間まで、好きだとか言ってたくせに。今日はそんな塩対応なんだ。赤葦くんが分からない。いっぱいいっぱいの頭で考えて今分かるのは、これだけ。

「違うよ。思い過ごしじゃない。」

乾いた唇が止まらない。ポーカーフェイスの赤葦くんが、ようやく表情を作ってくれた。少しだけ驚いたように瞼を開き、いつもより大きな視界で私を捉えている。私ばっかり振り回されるのは、癪に触る。

「やきもち、やいてたよ。」

やいてたんだよ。馬鹿みたいに、子供みたいに。好きでも、ないはずなのに。独占欲なんだろうか。私は赤葦くんの彼女でも何でもないし、彼の気持ちに応える覚悟もしていないのに、一体何様のつもりなんだろうか。こんなに自分勝手で、大人にもなりきれない未熟な私の何を、彼は好きだって言うんだ。捕まれていた手首を、もう片方の手で包むように添えた。そこに体温は残っていないのに、名残惜しいだなんて。赤葦くんは困ったんだか呆れたんだか、ふうと小さく息をついた。

「名前さん、土曜日空いてませんか?」

土曜日。突然のスケジュール確認に、頭の中で手帳の中身を思い出す。今週の土曜日は、○×商事との合コンだ。慌てて手帳を閉じる。引き止めてもらえるかもしれない、なんて一度でも思った自分が恥ずかしくてたまらない。

「…今週でも、来週でも。来月でもいいので。」

どうしてかな、胸が苦しくて泣きたくなった。こんなに懇願するような赤葦くんは、今まで見たことがない。こんな自分を、彼は本当に好きでいてくれているんだと感じる。彼の真剣な顔付に私は視線を逸らせなくなった。何を悩んでいたんだろう。引き止めてくれるかもとか、行かないでくださいって言ってくれるかもとか、そんなの子供染みた言い訳に過ぎない。きっと私は誘われた時から、行く気なんてなかった。行きたいと思えなかった。彼はこんなにも真っ直ぐに私を見つめ、気持ちをぶつけてきてくれる。できれば私も、それに応えたい。

「今週、空いてるよ。」

意味のない駆け引きみたいなことはやめよう。もう遊ばれてるとかからかわれているとか、そんなふうに考えるのもやめよう。赤葦くんのこと、別に好きって訳じゃないけれど、彼のことをもっと知りたいとは思う。この決断が吉と出るか凶と出るかは分からないけど。休日に赤葦くんとプライベートな時間を過ごしてみたいと思う心は欺けない。

「じゃあ俺と、デートしてもらえませんか?」

あ、なんだか嬉しそうだ。彼の口角が上がることは滅多になかった。今日は見たことのない赤葦くんを色々と見ることができるな。休日なら、それ以上に彼を知ることができるのだろうか。迷いに霞んでいた土曜日が急に輝きを持ち始める。久しぶりに休日に純粋な期待が募り、思わず「うんっ!」と力強く頷いた。

「連絡待ってます。今度こそ。」

ああ、子供。赤葦くんの一言に一喜一憂する自分に、嫌気が差す。でも、赤葦くんがそれでもいいって言ってくれるなら、これでもいいのかも。「気を付けて帰ってくださいね!」と念を押してから踵を返した赤葦くんの背中をこっそり見送りながら、浮足立った様子を隠すこともなく夜道で一人頬を緩ませていた。