34。紙面の一番左上の、名前の横に赤いインクで記された数字を、周りには見えないように折り曲げながら密かに肩を落とす。数学の小テストの返却に盛り上がる教室内の雰囲気には溶け込めず、頭を抱え込んでいると、隣の席の渚くんが困ったように笑いながら声を掛けてきた。
「緋月さん、大丈夫?」
「ヤバイよ、ヤバイって、渚くん。」
「点数?」
「うん。私本当にE組に落ちちゃうかも…」
椚ヶ丘中学の3年E組。通称エンドのE組と呼ばれるクラスは、成績下位や素行不良の生徒が送り込まれる、監獄のような教室だと言われている。一年生の頃から苦手だった数学は、二年生に上がった時点で授業には付いて行けなくなっていたし、半年過ぎた今ではもう何もかもちんぷんかんぷんだ。難易度の低い小テストですらこの点数。このままでは本当に、来年から本校舎には通えなくなってしまう。そう危惧して涙目で顔を上げた。
「だ、大丈夫だよ、きっと。」
一年生の頃から同じクラスの渚くんは、そう元気づけてくれるけど。どこからともなく出現した赤羽くんは燃えるような赤髪を揺らしながら、ニヤリと歯を見せて笑った。
「おやおや?緋月さん、もしかしてこんな簡単なテストで30点も取れなかったの?」
「うるさいな。30点は取れました!」
「でも40点は取れなかったんだね。可哀想。」
私の座る席の前に立った彼は、嫌味な笑みを浮かべながらご丁寧に点数を隠すように折り畳んだ部分を真っ直ぐ元に戻していた。34という赤い文字があられもなく剥き出しにされる。冗談で言っていたのか、本当に40点に届かない数字を見て、マジかと小さく呟いている。成績の良い赤羽くんには、数学が理解できない私の気持ちなんて分からないんだ。悔しくてぐっと下唇を噛み締めていると、隣からまあまあと仲介の声が聞こえてきた。
「あ、カルマくんが教えてあげたら?」
「はあ?俺が?なんで。」
「だってカルマくん、数学得意でしょ?」
ナイスアイデア、とでも言うように渚くんは表情を輝かせたが、残念ながらそれはクソアイデアだ。この学校のカリキュラムには、他の人の面倒まで見る余裕なんて与えられていない。
「いいよ。教えてあげようか?」
字面は優しさに溢れた救世主みたいな台詞なのに、赤羽くんが言うと悪魔のような響きだ。赤羽くんが大人しく心優しく勉強を教えてくれるはずがない。さきほど返却されたばかりのテスト用紙を半分に折り、机の中にしまい込んで拒絶するように顔の前で腕を交差させた。
「それは死んでも嫌だ!」
この言葉の本当の重さを理解できるようになるのは今から実に一年後である話は別として。私が作ったバツ印を見て、赤羽くんは「ふーん」とつまらなさそうに相槌を打ってから大人しく自分の席に戻って行った。そして机の傍らに掛けてあった指定の学生鞄を肩にかけ、返却時のざわついた教室の扉をガラガラと開けた。あの様子じゃあ、きっとまた満点だったんだろう。
「こら赤羽、まだ授業中だぞ。」
「満点だったんで早退しまーす。」
ほらね。3桁の数字なんて、この学校生活で見たことがない。それは渚くんも同じようで、「カルマくん、すごいな…」なんてひとりごちている。確かにすごいとは思うけれど。最近、彼は今までに増して暴力沙汰に手を染めていると聞く。成績が優秀だからって、全部許されるなんて、ずるい。窓から見えた、校門に向かって歩く赤髪を眺めながら、そんな下級生徒の不満を頭の中に並べていた。
渚くんとの出会いは、特筆することのない平々凡々なものだ。一年生の頃、単に同じクラスで隣の席だっただけ。こう言っては失礼かもしれないけれど、同年代ではどちらかと言うと女性らしく、礼儀正しくて物優しい彼とは親しみやすかった。世間話をするくらいは仲良くて、一年前の夏頃かな、近所の本屋で雑誌を立ち読みしているところで偶然ばったり会ってからは、下校時に会えばそこから一緒に帰宅するくらいには親密になった。
赤羽くんはそんな中で会った、クラスメイトの優等生だ。その日たまたま部活のなかった渚くんと下校中にばったり会い、雑誌を読みに本屋へと立ち寄った際に、親しげに声を掛けてきたのが彼だ。ソニックニンジャの映画を三人で見に行って、それからは馴染んでクラスでも挨拶を交わすようになった。勿論、思春期の私が男子二人と常に行動を共にすることはなかったけれど、男子で一番仲の良い名前を挙げろと言われれば、間違いなく二人の名前を出すだろう。
「緋月さん。」
赤羽くんと仲良くなり始めたのは、一年前の残暑。同じような気温の中、駅へと足を進め改札を潜ろうとしたとき、名前を呼ばれて振り返った。そこには先ほど早退したはずの赤羽くんが涼しげな顔で立っていた。
「あれ?赤羽くん、早退したんじゃ…?」
「ゲーセン寄ってたらこんな時間になってた。一緒帰ろ。」
そう言いながらも改札の手前で佇む私の横を通り過ぎ、定期をかざしてすたすたと構内へと入って行ってしまう。これは、一応建前上の誘いだな、と直感的に思った。こちらを顧みずにずんずん進んでいく歩幅が、それを裏付けている。
「え、ちょっと待ってよ!」
慌てて私も定期券を改札にかざし、小走りで背中を追った。授業を早退してゲーセンで遊んでいたのか。なんていいご身分なんだと思いながらも、優秀は彼に成績不良の私が文句は言えない。全てが成績で決まるこの学園のしきたりが身に付いてしまっている。
「緋月さんは体育祭何の種目で出るの?」
ホームへの階段に差し掛かるところでようやく追い付き、隣に並ぶと興味あるんだか無いんだか、段差に視線を落としながら尋ねてきた。九月半ば、二週間後には本学園で迎える二度目の体育祭が控えている。
「二人三脚!赤羽くんは?」
「俺も。」
「マジか。赤羽くんとは絶対ペアになりたくない!」
だって絶対、引き摺られるもん。赤羽くんよりは足の遅い私に構わず走るスピードを速め、魔王の如く笑う彼を想像して、ぶるりと肩が震えた。
「なんで?俺、優しくエスコートしてあげるのに。」
クツクツと隣で喉を鳴らして笑う。そんなこと微塵も有り得ないということを自覚しているに違いない。そもそも競争で二人一緒にゴール目指して走るんだから、エスコートとかそんな暇は無いだろうともっともな言い返しを思い付いたけど、口にはしない。二人三脚のペア決めは明後日のホームルーム。どうか赤羽くん以外と組ませてくれと願って、顔の前で全力の合掌を繰り出した。
「当日転ばないといいね。」
電車の到着を知らせるアナウンスと重なっても、きちんと声は届いた。言葉だけは心配してくれているようだけど、当の本人は面白がっているだけで意地悪く微笑んでいる。ムカつく。何か言い返そう。けれど頭の回転が速くない私は、赤羽くんのように思い付きで人をおちょくる発言は出てこない。これは、うん、私は彼とは違って優しい人間なんだ。そうに違いない。言い返せないのは悔しいけど。
「ま、俺はペアは緋月さんとがいいけど。」
電車が到着し、目の前で扉が開く。その音に掻き消されたかと思いきや、赤羽くんはそんなことを言ってのけた。急に真剣な表情を作って、私の様子を伺うように腰を屈ませながら顔を覗き込んできた。これは、どういう展開だ。理解が追い付かないうちに赤羽くんは電車に乗り込み、我に返った私もそれを追った。背後で閉まる扉。赤羽くんは乗り込んだままこちらに背中を向けており、顔色は伺えない。あのいつも意地の悪いことばかり言ってくる赤羽くんが、ペアは私がいいって…。
「だって緋月さんだったら転んでも遠慮なく引き摺って走れるし。」
悪魔め。一瞬でも喜んでしまった自分を殴り飛ばしたい。私の予想は的中していて、やはり赤羽くんと組んだら引き摺られる未来しか見えない。絶対に転ばないようにしよう。いやでも、この赤羽くんなら面白がってわざと突き飛ばして転がしながらゴールへ向かうかも。あらゆる未来に懸念していると、そんな私の表情を見てか赤羽くんは楽しげに笑っていた。
「冗談だって。安心しなよ。もし転んでも、緋月さんなら担いでゴールまで持ってってあげるからさ。」
…それは安心できることなんだろうか。やっぱり絶対何としても、赤羽くんとはペアを組みたくない。