黒板に並んだ名前に、苦悩に歪んだ表情を隠せない。今日は再来週の体育祭の出場種目を決めるロングホームルーム。本校舎の生徒はクラス対抗の団体競技の他に、百メートル走に二人三脚、障害物競走、パン食い競争、クラス対抗リレーといったトラック競技に、一人一つずつ出場しなければならない。私はテニス部であることもあり、体育は苦手ではない。女子の中では足は速い方で、去年は百メートル走に出場したから、今度は二人三脚に参加しようと考えていた。そこまでは良かった。
『赤羽業 緋月桜』
なんで赤羽くんとペアなんだ。この間、散々赤羽くんとだけは組みたくないと壮大なフラグを立てていたせいか。斜め前の席の女子が、羨ましそうにちらちらとこちらに視線を送ってくる。彼女も二人三脚だけれど、ペアは赤羽くんが良かったらしい。ぜひ交代してあげたい。
「緋月さん、カルマくんとだね。頑張ってね!」
「ひ、引き摺られる…」
「引き摺られる?」
「か、担がれる…」
「担がれる?」
渚くんは仲の良い二人が組んだと思って純粋に応援してくれている。私もまあ、見知らぬ男子と組むよりはマシだけど。引き摺られるのと一言も交わしたことのない男子と組むのを天秤に掛けると、僅かに、本当に金箔一ミリ分くらいは赤羽くんの方が重たいようだ。
「練習しなきゃ…」
「やる気満々だね、緋月さん。」
やる気に満ちていると勘違いしたのか、渚くんは嬉しそうに目をキラキラさせている。だって本番で、バンドで繋がった足を引き摺られるところを全校生徒の前で晒されるなんて勘弁だ。E組でもないのに、そんな恥耐えられない。苦渋に満ちた表情で赤羽くんの席を見やると、彼は背もたれに寄り掛かりながら退屈そうに頭の後ろで両手を組んでいた。視線は交わらない。
「…大丈夫そう。」
「え?」
「赤羽くん、悪魔みたいな顔してない。」
「あ、悪魔?」
渚くんに私の言葉の意味が伝わっていないようで、首を傾げている。
「渚くんは?」
「僕は百メートル走だよ。練習しなくて済むし。」
困ったように笑いながら彼は教科書の束を机の中から鞄へと移していた。勉強をするつもりなんだろうか。それをじっと見つめていると、渚くんはまた笑った。
「体育祭が終わったらすぐ中間テストあるから、僕は勉強しないと…。」
「…そっか。確かに、私も勉強しないとまずいなぁ…」
種目決めを終えるとすぐにホームルームは終わり、解散となった。クラスメイトたちがぞろぞろと教室から出て行くのを横目に眺めながら、渚くんとの何とも盛り上がらない話題に花を咲かす。
「緋月さんは数学?」
「うん、先生にもまずいぞって視線送られたし…」
「僕も言われちゃったよ。このままじゃE組行きだぞって…」
体育祭を前にしても、それに集中できる生徒はA組の精鋭たちと、赤羽くんくらいだろう。三年から旧校舎へ飛ばされないようにするため、椚ヶ丘中学の二年生は常に勉強に追われている。渚くんと一緒に自らの未来を憂いていると、担任の大野先生が教壇から赤羽くんの名前を呼んでいた。一度渚くんと顔を見合わせてから、黒板の前で向き合う二人に視線を向けた。
「どうしたんだろう、カルマくん。」
「呼び出しかな?」
どうしたんだろうかと様子を窺っていると、大野先生の表情が険しくなっていくのが見て取れた。暴力沙汰が多い、と注意しているのが聞こえる。確かに赤羽くんは二年に上がってから既に二度停学処分をくらっている。私は実際に見たことはないけれど、渚くんも赤羽くんの喧嘩っ早さを危惧しているところがあった。前に二人で下校しているときに、他校の生徒に絡まれてボコボコに殴り倒したと聞いたこともある。それに近い事件でも起こしたんだろうか。しかし、大野先生の表情は一変する。
「え、なんでー?向こうから喧嘩吹っかけてきたんだよ?」
「そうか、分かった。先生はお前の味方だぞ。成績のいいお前は正しいんだから。」
「はいはーい。じゃね、せんせー。」
いつの間にか警告から応援へとすり変わっていた先生の言葉に軽い返事をし、彼は鞄を肩に掛けてこちらへ向かって来た。今日一日あまり注意して見なかったけれど、こちらに向かって歩く彼の左目の横には、小さな切り傷があった。
「渚くん、帰ろ。」
「あ、うん。…カルマくん、大丈夫?」
「え?大丈夫だよ?」
赤羽くんは飄々とした態度で渚くんの席の横に立った。それを、不安そうに見上げる渚くん。私はそんな二人を交互に見つめていると、不意に赤羽くんが視線をこちらに向けた。
「あ、緋月さん。」
「へっ!?な、なに!?」
「足、引っ張らないでよね。」
ニヤリと口端を持ち上げ、真っ白な歯を見せながら、細長い人差し指で己の足元を指差した。一瞬忘れかけていた体育祭のことを思い出し、途端に身体中がカッと熱を持つ。これは確実に馬鹿にされている。引き摺られるか担がれる覚悟をしておいた方が賢明かもしれない。
「そ、そっちこそ!」
赤羽くんと張り合っていると、隣に座っている渚くんがニコニコと楽しげな表情を浮かべていた。「相変わらずだね、二人とも」と一人で何を納得したのか、彼は立ち上がって私を見下ろした。もう帰るつもりなのか、「また明日ね、緋月さん」と声を掛けてくれる。私もそれに応えるように手を振ると、赤羽くんと並んで扉へと向かってしまった。目の傷、大丈夫なのかな。小さな切り傷なんて赤羽くんにはよくあることだけど、得体の知れない不安が脳裏を過った。
私もそろそろ部活行こう。ロッカーからテニスラケットを取りに行こうと席を立つと、いまだに教壇に立っている大野先生と目が合った。
「緋月。ちょっと来い。」
「え、はい…」
赤羽くんの次は私か。何の話だろうなんて白々しいことは思わない。彼のように素行不良ではないから、十中八九成績のことだろう。テニスラケットは諦めて、従うように教室の前に出ると、まだ帰っていなかったのか扉の前で渚くんと赤羽くんがこちらに振り返っていた。
「お前、部活か?」
「あ、はい、そうですけど…。」
答えると、大野先生はわざとらしく溜息を吐いて私の前髪を僅かに揺らす。赤羽くんへの態度との違いを感じる。嫌悪感に満たされながらも、立場の弱い私は抵抗も出来ず、逃げるように顔を少し俯かせた。
「お前な、そんな余裕あるのか?このままだと本当に、E組行きになるぞ。」
突き付けられる事実に目が泳ぐ。分かっている、大野先生が数学の成績のことを言っているのも。いまだに教室内にいる二人には聞かれたくなくて、完全に俯いてしまった。視界に入った上履きの自分の名前が、何故お前は数学が出来ないんだと私を責めてくる。
「今学期の期末で成績が上がらなかったら、お前はE組だからな。」
言い聞かせるように、E組の名前を何度も口にする。学校行事でE組の扱いは散々見てきた。でも事実だから何も言い返せない。素直に「はい…」と頷くと、彼も納得したのか出席簿を持って教室前方の扉へと姿を消して行った。何が気がかりなのか、まだ帰らない渚くんと赤羽くんは立ち尽くしているが、その顔を見ることは出来なかった。
恥ずかしい、こんなところを見られて。とにかく勉強しないと。テニスラケットを一瞥すると、無意識のうちに溜息が出ていた。部活に行きたい、テニスをしたい。塞ぎ込む思いでラケットから視線を外し、鞄を持って教室後方の扉から廊下へ出た。
「あ、緋月さん!」
背後から渚くんの声が聞こえ、それからすぐに足音が一つ後ろで止まった。「大丈夫?」という声から私を心配してくれているのが分かる。ここは進学校の椚ヶ丘中学。心配してくれたところで、私が実際にE組に落ちれば渚くんだって赤羽くんだって私の存在を認めもせず、口もきいてくれなくなるだろう。まだ首の皮一枚は繋がっているんだ。体育祭の練習もしたいし、テニス部にも顔出したいけれど、ここは耐え時だ。「大丈夫だよ?」と背中を向けたまま答えると、もう一つの足音が遠くからゆっくりと近付いてきた。
「ねえ、緋月さん。」
赤羽くんだ。からかうような声色ではなく、いつにも増して真剣だ。
「何かな?」
「教えてあげようか、数学。」
一瞬戸惑った。数学トップの赤羽くんが教えてくれたら、怖いもの無しだと思えた。でも、もし私に構っているうちに赤羽くんの成績が下がってしまったらと考えたら、彼の善意に素直に頷くことも出来ない。自分一人の力で、縋り付いていかないと。甘えてしまいそうになっている自分に言い聞かせていると、突如肩の重みが消え去った。
「え?ちょ、ちょっと…」
赤羽くんが、私の肩にかけていた鞄を奪い取り、すたすたと廊下を歩いて行く。そんな突然の行動に頭がついていかず、渚くんと一緒に追い掛けた。
「ちょっと赤羽くん!鞄返してよ!」
「カルマくん?」
「あ、ついでだから渚くんの勉強も見てあげるよ。」
外面的な笑みを浮かべ、並んだ私たちに振り返った。鞄を返すように言っても返してくれる気配はない。長い足で駆けるように階段を下り、靴箱からローファーを取り出して地面に放り投げる。市の図書館に行くか、近くのファーストフードに行くか、勝手に一人で悩んでいる赤羽くんを止めるために渚くんと一緒に声を掛けるが、彼の耳には届かないようだ。なんて勝手な人。
「E組に落ちたくないんでしょ?」
ローファーを履いて昇降口から出ると、気まぐれに彼はこちらを振り返ってようやく足を止めた。胸の奥の本心を一言で引きずり出され、口を噤んでしまう。赤羽くんはほらね、とでも言うようにわざとらしく肩を竦める。
「渚くんも成績やばいって言ってたし。二人まとめて俺が見てあげる。」
「え、でも…。僕たちに構っててカルマくんの成績落ちちゃったら…」
私が思っていたことを渚くんが代弁してくれる。やっぱりそんなこと申し訳なさすぎて頼めないよ。二人揃って目を伏せていると、場違いな明るく軽やかな笑い声が聞こえてきた。
「はは、俺の成績が落ちる?まさか。俺はいつでも完璧だよ。」
どこからそんな自信が沸くんだろう。成績優秀な人は考え方から違うんだな、なんて呑気なことを考えていると、赤羽くんは言葉を続ける。
「安心しなよ。あんたたちに俺の成績を落とすなんて力、無いんだからさ。」
どこまでも上からな赤羽くん。本来なら嫌味なやつ、となるところなのに、赤羽くんが言うととても頼りに思える。死んでも嫌だと言った割に、崖っぷちに立ったら手の平を返すような自分は卑怯者だ。でも背に腹は代えられぬ。「お願いします」と素直に頭を下げれば、奪われていた鞄はあっさり返され、「じゃあ早く来なよ」と、また背を向けて歩いて行く。私たちは顔を見合わせ、意志を確認するように同時に頷いてから、赤羽くんを挟むように彼に並んだ。