相変わらず、彼の教え方は要点をついていてとても分かりやすい。あっという間に二時間が経過し、図書室も閉まる時間となってしまった。クーラーの効いた快適な室内からまだまだ蒸し暑い外へと放り出され、湿気の篭った溜息を放出する。
「渚くんも部活終わったかなー?」
「どうだろうね?待つ?」
今日もいつものように、勉強が終わった後も残って自習するからと下校時間をずらそうとしたけれど、渚くんもいないし待つよと言われてしまい、問題を解いている間ずっと頬杖をつきながら見つめられてはろくに集中もできず、結局自習なんてほとんどせずに二人揃って図書室から出た。グラウンドには円になって部活終了時のミーティングを開くサッカー部や、来週の体育祭に向けてバトン渡しの練習をする三年生の姿が残っている。それを横目に見ながら校門へと向かう間、二人きりにならないような策を提案してみた。
「えー、いいよ。俺もう帰ってゲームしたいし。」
なんて正直な人間なんだ。怠そうに言われてしまえば反抗は出来ない。彼の言うことに従って、二人きりのまま校門を出た。
いつもは三つ並ぶ影が、今日は二つ。図書室へ向かう前の彼は無言で何を考えているのか分からなかったけれど、勉強のときの彼は普段通り要領を得た教え方で、時たま馬鹿にするように辛辣な言葉を掛けてきた。あの階段でのやりとりの時は、単に機嫌が悪かったようだ。今も、先日授業を早退してゲーセンに行ったときの話や、川べりで寝転がっている時に見た景色の話を嬉々として語ってくる。私は初めて聞く彼のプライベートな話に、素直に相槌を打っていた。
駅前に繋がる、椚ヶ丘高校の近くの通りに差し掛かったとき、ようやく話すネタが尽きたのか、それとも喉が渇いたのか、彼は一度黙り込んだ。それを機に今度は私が口を開く。
「体育祭、もう来週だね。」
放課後の勉強会を開くようになって、風のように時間は一瞬で駆け抜けて行った。体育祭ももう目前に迫っている。結局一度も実際にバンドをつけて走っていないから、このまま行くと本当に当日引き摺られることになりそうだ。
「ね、二人三脚の練習しようよ!」
私の提案に赤羽くんは嫌そうな様子も見せず「いいよー」と答えてくれる。じゃあ、明日は練習だ。勉強漬けの毎日。やっと身体を動かすことが出来そうで、嬉しくて両手を上方へ持ち上げて身体を伸ばした。なんだか気分が軽くて、今なら聞けそうな気がする。
「そういえばさ、赤羽くんはどうして私たちの勉強見てくれるの?」
赤羽くんは決して面倒見が良い訳ではないし、むしろこういうことは面倒くさがってしなさそうなのに。ずっと気になっていたことを聞くために、横に並ぶ彼の顔を見上げる。一度私の方を見下ろしたかと思えば、すぐに視線を前方へと戻してしまった。
「…さあね。」
またそんな簡潔な一言で。確かに彼、気まぐれそうだしちゃんとした理由があるかも分からない。その全く腑に落ちない返答だけど、そう流されてしまえばこれ以上追及できないな。「そっか」と諦めた私の声と、彼の次の言葉が僅かに重なる。
「まあ少なくとも、あんたらがE組に落ちることは俺にとって好ましいことじゃないよ。」
意外な発言に言葉を失う。赤羽くんの顔は真っ直ぐ前を向いていて横顔しか見えないけれど、特に人をからかうようなあの悪魔じみた表情ではなかった。それは、どういう意味だろう。やっぱりE組に落ちたら、もう縁を切られるのだろうか。塞ぎ込むように俯かせた顔が、ぴたりと止まる。
「映画行くときわざわざ連絡して待ち合わせするとか面倒じゃん。」
その言葉は私に勇気も希望も与えてくれるものだった。沈みかけた心を彼は一瞬で引き摺り出してくれる。E組に落ちたら、じゃない。E組に落ちても、だ。落ちても、彼は友達でいてくれるつもりなんだ。だから以前、やけにE組に絡めた発言をしてきたのか。周りの女友達のことは心の底から信じることはできないのに、どうしてかな。正直すぎる赤羽くんの言葉なら、全部信じることができる。真っ暗だった未来に、彼は光を射してくれる。怖いと感じていたはずなのに、彼はやっぱり分からない。それでも、胸に感じた温もりは確かなものだった。
そのとき、通り掛かった路地裏への入り口から、かすれて途切れ途切れになった声が聞こえてきた。思わず二人して足を止め、何の怖気も見せずに路地裏へと足を踏み入れた赤羽くんに対して私は視線だけを泳がせて様子を観察した。
「あ、赤羽くん!やめようよ!」
かすれる声に重なる、いつか耳にした不快な音。脳裏に相手の身体を殴る赤羽くんの後ろ姿が浮かんだ。咄嗟に彼を呼び止めたかれど、その歩みが止まることはなかった。何度も名前を呼んでも、一度たりとも彼には響かない。これ以上暴力沙汰はまずいよ。大野先生は確かに赤羽くんの味方をしているけれど、それでも素行不良でE組行きがないという保証はない。彼を止めるため、意を決して後を追った。
「大丈夫?センパイ」
地面に転がっている小太りの男子と、赤羽くんが片手で掴み上げている男子二人のいざこざだったようだ。どちらも私たちと同じ、椚ヶ丘中学の制服を着ている。赤羽くんは一人の先輩の胸倉を掴み上げながら、立場の弱そうな転がっている方を気遣う台詞を口にした。いじめられているところを赤羽くんが止めに入ったみたいだ。傷だらけで這いつくばっている先輩の横には、鞄が二つ転がっている。見慣れた赤羽くんのものと、ところどころ擦り切れた先輩のもの。そしてその隣には、学生手帳が落ちていた。
3-E
聞き慣れたクラスなのに、印字された文字としては全くと言っていいほど見慣れないもの。E組だから、こんな路地裏で暴力を振るわれたのか。これが私の未来の姿のように思えて、心底ぞっとした。全校集会や行事で団体としていじめられる姿は見てきたが、影でこうやって単身で暴力を振るわれるなんて。足がすくみ一歩下がったとき、靴底が砂を擦った音が鳴った。それに赤羽くんが反射的に反応を示し、先輩を掴んだまま私の方を見る。その目はいつもみたいに優しく微笑んでいる。歪められた唇が、私をあのときの恐怖に陥れる。
「あのE組?大変だね、そんなことで因縁つけられて。」
腹部を抱え込んで無様に地面で丸くなっている先輩に声を掛け、それを合図に赤羽くんの攻撃が始まった。皮膚が、筋が、骨が壊れていくような音が耳を劈く。あははと高らかに笑いながら視界を血の海に変えていく赤羽くん。E組の肩なんか持って、赤羽くんがE組行きになったらどうするの。「やめて!」と何度も叫ぶ。でも私に彼は止められない、踏み入る勇気がない。この間と違って渚くんもいない。どうすることも出来ず、目を閉じて両手で耳を塞いだ。助けて、誰か助けて。私を救う言葉をかけてくれた赤羽くんが、今度は私を追い詰める。もう苦しくてたまらない。早く終わってくれと、真っ暗な闇の中で懇願した。
しばらく経ってから不意に肩に手が置かれ、思わず目を見開いた。真っ白なシャツがところどころ赤く染まっている。けれど彼は痛そうな顔一つ見せないから、やはりこれも彼の血ではないのだろう。彼の背後で脱力したように壁に寄り掛かって座る先輩。先ほどまで綺麗だった彼の制服は、土と血痕で見るも無残なものに成り果てていた。
「さっきの話だけど。」
思考が止まった。突然脈絡もなく話し出した彼に耳を傾ける。ぼんやりと見つめる先で赤羽くんは、いつにも増して穏やかな笑みを浮かべていた。
「あんたがE組に落ちても、こうやって俺が助けてあげるよ。」
さっきとは、あの階段での話のことだろうか。私の問いに対する明確な答えを今出してくるなんて。私が落ちても、赤羽くんは見捨てず助けてくれるんだ。優しく温かい言葉。なのに恐怖からか身体中の肌が粟立つのを感じた。優しくて、怖い。赤羽くんはきっとその両方を合わせ持つ人なんだ。でもいつも自分の中の正義に正直で、だからE組だろうといじめられていた先輩を助けた。そうやって真っ直ぐな赤羽くんに憧れて、尊敬してる。だけど、ちっぽけな私は、そんな彼を助けることは出来なかった。
数日後、三年トップの成績優秀者に怪我を負わせたとして、赤羽くんのE組への転級が決まった。その発表があったのは、少しだけ楽しみにしていた体育祭の実に二日前のことだった。