放課後、先ほど莉桜ちゃんにこっそり貸した教科書の回収へ向かう。数学の教科書は放課後使うので後で取りに行くと渡すとき彼女に伝えておいた。まだ帰らずに待っていてくれているはずだ。今日は赤羽くんに勉強を見てもらう日だけど、渚くんは部活に参加するらしく、絶大なる不安を抱えている。教室に赤羽くんを待たせ莉桜ちゃんの元へと向かうと、彼女は人が疎らになった教室で自分の席についていた。私の姿を視界に移すと、片手を挙げて教科書を空中でちらつかせた。

「お待たせ、莉桜ちゃん。」
「本当だよ。干からびるかと思ったわ。」

そう言いつつも顔には朗らかな笑みを浮かべている。私も「ごめんごめん」と軽く笑いながら謝ると、頭の上にぽん、と教科書を置かれた。そしてそのまま手放すものだから、慌てて落ちないように頭上で教科書を両手で押さえる。

「ありがとね、わざわざ。」
「こちらこそ!待っててくれてありがとう。」

友達に見られないように、わざわざ彼女たちが帰った後に赴いた訳だから、多少なりとも彼女の時間を教室で無駄に過ごさせてしまったのだろう。頭上から教科書を下ろし、両手で胸に押し付けるように抱える。すると彼女はニヤリと口を三日月型に歪めた。

「緋月ちゃん、数学苦手なの?」
「えっ?あー…」

どうして知っているんだろう。去年の成績は、苦手とは言ってもそこまで悪い訳ではなかったはずだ。莉桜ちゃんと比べれば天と地ほどの差があるけど。

「で、誰か男に教えてもらってるっしょ?」

立て続きに心を掻き乱す発言に、私は慌てて教科書を開いた。ページの間から姿を現した紙切れが、身体の温度を奪っていく。前回の小テストを挟んだままにしていたことをすっかり忘れていた。一瞬で、莉桜ちゃんまでもが私を切り捨てる未来が頭を過った。今の友達に流されて彼女と距離を置いた私が言えることではないのに。卑怯者と誰かが後ろ指を指す。

「彼氏?」

けれど彼女の口から出てきた言葉は、私が考えていた脈絡とはだいぶ違うものだった。彼氏?なんの話をしているんだろう。E組に落ちる未来の話とは全くの関係性を見出せず、彼女の言った言葉を復唱する。

「えっ、マジで!?」

莉桜ちゃんは相変わらず楽しそうにニヤニヤしている。私がE組に落ちるかもしれない話なんて、彼女の頭にはないのか。莉桜ちゃんが言っていたことを思い返し、話の流れを確認する。彼女の論点は数学の成績が悪いことではないのか。そうなると、男に教えてもらっている?彼氏?

「ちょっと待って!違う!全然違うよ!」

そういうことか。彼女がやけに楽しげなのは、私の成績の悪さではなく、誰か男子に勉強を教わっているということを指摘しているのか。やっと理解が追い付く。確かに、教科書には書かないでって言ってるのに赤羽くんが直接書き込むから、私のとは違う筆跡がたくさん残っている。それを見て莉桜ちゃんが誤解をしたのか。

「えー、本当に?」
「ほ、本当だよ!勉強教わってるだけだよ!」
「なんの勉強だか?」
「数学だよっ!」

こうなると莉桜ちゃんは止められない。人をおちょくるのが大好きな彼女は、少し赤羽くんに似ているかもしれない。二人揃ったら大変なことになりそうだ。ニヤニヤと私を追い詰める表情は、去年とまるで変わっていないから少し安心する。私の強い否定に観念してくれたのか、莉桜ちゃんはつまらなさそうに「なーんだ」と呟いた。赤羽くんは素行不良でも学年トップクラスの成績なんだし。よくよく考えたら成績重視の椚ヶ丘での彼の権力は大きく、私との立場の大きな差に萎縮してしまう。そういう、目上の存在なんだ。彼氏だなんて、赤羽くんに失礼だよ。あ、そうだ赤羽くん。待たせているんだった。

「ごめん、私行かなきゃ。」
「お、じゃあ私も帰ろっかな。教科書ありがとね!」

莉桜ちゃんは机の横に掛けてあった鞄に手を伸ばしながら、もう一度ありがとうと言う。こちらこそ、ありがとうだよ。あの数学のテストを見ても、全く態度を変えないでくれて。内心はどうなっているか分からないけれど、そのあっけらかんとした対応に救われたのは事実だ。ありがとう。口には出さないまま、莉桜ちゃんに手を小振りして教室を出た。

数学の教科書を抱えたままD組の教室に戻ると、赤羽くんは自分の席に座ったまま頬杖をついて窓ガラスの向こうの夕日を見つめていた。あの赤羽くんなら置いて帰ってしまうことだって有り得たのに。待っていてくれたことに安堵すると同時に、二人きりになる不安が甦った。

「赤羽くん、お待たせ!」

戻ってきたことに気付かなかったのか、赤羽くんは少し驚いたように肩を揺らしてから頬杖の手を崩して私の方を見た。急いで机の上に置きっぱなしだった鞄に数学の教科書を突っ込み、そのまま流れるように肩に掛ける。いまだに座ったままの赤羽くんに駆け寄ると、ようやく我に返ったように立ち上がった。どうしたんだろう、機嫌悪いのかな。何も言わずに足早で進んでいく赤羽くんの背中を、置いて行かれないように懸命に追った。

渚くんとは違って、赤羽くんと二人きりになることは珍しい。私よりも長い足はもちろん歩くスピードも速く、ついていくので精一杯だ。体育祭もこうなることが目に見えている。スピードを落としてくれないことに優しくないと不満を感じても、勉強は親切に教えてくれる。赤羽くんは優しいのか優しくないのか、怖いのか怖くないのか、全然分かんないよ。ひたすら足を動かす赤羽くんの背後で、沈黙の中何を話せばいいか分からず口を噤んでしまう。無理に話す必要もないのかな。ついていくことに徹しようと思考を変えたとき、突然赤羽くんは階段の途中で足を止めた。既に部活動が始まる時間となっているからか周りには誰もいない。つられるように私も彼の二段上で立ち止まった。

「緋月さんはさ」

赤羽くんは身長は高い方だけど、さすがに階段の二段分差があったら、視線の高さはかろうじて私の方が高くなる。私が彼を見下ろすなんて今までなかった。見慣れない景色に緊張しているのか、鼓動が勝手に速まる。

「もしE組に落ちたらどーすんの?」

彼の目は真剣そのものだった。どうして急にそんなことを聞いてきたのか、彼の真意は全くと言っていいほど見えない。突然赤羽くんとの間に深い霧が立ち込めてきたような気がした。

「…どうしよう。」

低い段差にいる赤羽くんの、更に下へと視線を落とす。E組に落ちたら。どうもしないよ。友達も権利も失って、全てに絶望して、自棄になって、一年後に静かに椚ヶ丘から立ち去ることになる。そんな真っ暗な未来は、絶対にどうにかして避けたい。だからこそ、今こうやって赤羽くんに勉強を見てもらっているんだ。無気力的な言葉だったけれど、心の中では全力で彼に縋り付いていた。赤羽くんがどうこうしてくれる話じゃないのにね。

「どーしようね。」

実に簡潔な返答だった。興味ないなら聞くなと思ったけど、それは言わない。一体どういう答えを期待していたんだろう。満足したのか知らないけれど、赤羽くんはくるりと振り返って再び駆けるように階段を下りていく。遠ざかる背中に私はどうしてか、慌てて声を掛けていた。

「あ、赤羽くんはっ!?」

思ったよりも大きな声が、人気のない階段の壁に反響する。踊り場まで下りた彼がこちらを見上げる。さっきより、だいぶ高低差を感じる。ずっと下にいるはずなのに、学校での立ち位置は雲に隠れて見えないくらい上にいる。さっきの質問の意図は分からないけど、私だって聞きたい。

「赤羽くんは、私がもしE組に落ちたら、どうする?」

声が微かに震えている。怖かった。暴力ばっかり振るっている赤羽くん自体が怖いのに、E組に落ちて彼に見離されてしまうのも、心底怖い。だって、どんなに乱暴で意地悪でも、一緒に過ごした時間は確かに記憶の中にあって、渚くんと三人の楽しい思い出もたくさんあって。だぶん、私は今のクラスの女友達よりも、赤羽くんや渚くんの方が好きだ。E組の悪口は言わないし、それに関係する人間と関わるなとも言わない。毎日好きなゲームとか漫画とか、テストの点数とか、他愛のない話で盛り上がって、楽しそうな彼らと一緒にいる方が、ずっと楽だった。だから、私は彼のことを大事な友達の一人だと思っている。願わくば、彼も私のことをそう思っていてくれるなら。

「さあね。」

たぶんきっと、E組に落ちても友達だよって、そんな気休めな薄っぺらい言葉でもいいから言って欲しかったんだと思う。無様な期待。彼は良くも悪くも正直だ。E組の低待遇を見て、彼もE組の人間とは関わりたくないと思ったんだろうか。肩の力が抜けていく。赤羽くんは無表情のまま、私に背を向ける。そして再び階段を下りるために足を前へ動かし始める。もう聞くことはない。私は赤羽くんを呼び止めることもなく、彼も振り返ることはなく、沈黙を保ったまま図書室へと向かった。