あの日のことを、私は今でも後悔している。何も考えずに形振り構わず止めに入ればよかった。そしたら赤羽くんがE組に落ちることも停学をくらうこともなかったかもしれないのに。何度も何度も自分を責めて、塞ぎ込んだ。渚くんが何度も緋月さんのせいじゃないよって言ってくれたけど。あれから半年くらい経ったけど、今でも大野先生の言葉が脳裏に蘇っては胸を抉る。あの日、赤羽くんの停学が言い渡された日、目撃者として私も一緒に生徒指導室に呼ばれていた。暴力を振るった日も、翌日の呼び出しに応じる瞬間までも、赤羽くんはいつものように自分の正義を信じて疑わなかった。いじめられていた先輩がE組だとかそうじゃないとか、きっと彼には関係なくて、いじめられていた先輩を助けたということだけが、彼の正義なんだ。
「いいや赤羽、どう見てもお前が悪い。」
でも、その正義が誰しもに当てはまる訳ではない。大野先生の、椚ヶ丘中学の掲げる正義は『品行方正成績優秀者が正義』。たった一つの明快なことだ。そりゃあ、あの三年生と比較されれば赤羽くんが悪に回ってしまうのも頷ける。だけどその宣告は、今まで赤羽くんを正しいと評価して庇い続けてきた大野先生がついに彼を放棄した瞬間だった。
「頭おかしいのかお前。三年トップの優等生に怪我を負わすとはどういうことだ!」
頭に巻かれた包帯、左腕で身体を支える松葉杖に、包帯で吊られた右腕。痛々しくて見るに耐えない姿だ。これは赤羽くんが、やったものだ。五体満足の人間をここまで痛めつけた彼に、改めてぞっとした。けれど、当の赤羽くんもその暴力的な面が想像できないくらい、呆然と立ち尽くしていた。何がショックなんだろう。E組行きを言い渡されるかもしれないこと?それとも、今まで庇い続けていた先生が手のひらを返したこと?待ってよ、先生。聞いたこともないような弱々しい赤羽くんの声に、両手で耳を塞ぎたくなった。
「お前も見ていたんだろ、緋月!同罪だぞ!E組なんぞの肩を持って、未来ある者を傷つけた。彼の受験に影響が出たら、俺の責任になるんだぞ!」
呆然とするだけで何の反省の色も見えない赤羽くんから私に矛先が移る。この場でも成績の悪い私には発言権はない。見ていた。何も出来ず、何も言えずにただそこで赤羽くんが人間を傷つけるのを黙って見ていた。私なんかの叫びは、赤羽くんには届かない。
「赤羽、お前は成績だけは正しかった。だからいつも庇ってやったのに。俺の経歴に傷がつくなら話は別だ。」
分かっていた。大野先生がこういう人間なのは、分かっていたはずだ。でも。瞬きもせずに大野先生の前に佇む机を見つめていた。これは誰かが助けてくれる状況じゃない。私が赤羽くんを助けてあげられる状況でもない。E組行きを免れることを心の底から祈りながら、黙ってただただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
「俺の方からお前らの転級を申し出た。おめでとう赤羽、緋月。君らも三年からE組行きだ。」
なんで、私まで。私は何もしていないのに。暴力を振るって怪我をさせたのは、赤羽くんなのに。頭を鈍器で力強く殴られたような衝撃に、目眩すら感じた。今思えばなんて人間味に溢れた考えだったんだろうか。結局人は、自分が一番大事。突き付けられた現実を受け入れられなくて、唇が僅かに震えていた。私はなんて無力なんだ。赤羽くんは私がE組に落ちても、一緒に映画に行ってくれると言ってくれた。赤羽くんはE組行きが目前に迫る私に勇気も希望もくれたのに。私は彼を助けてあげられない。
違う。本当は、助けようとも思わなかった。あの時頭にあったのは、私が赤羽くんの暴力沙汰に巻き込まれて一緒にE組行きを言い渡されたということだけだった。赤羽くんのE組行きなんて考えにはこれっぽっちもなくて。自分のことでいっぱいで、巻き込んだ赤羽くんに怒りすら感じて、そんな卑劣な自分を正当化したのに。でも。
「ちょっと待ってよ、先生。」
赤羽くんは違った。頭に響く、いつか聞いた不快音。気が付けば赤羽くんは近くにあった機材を右手に握り、それを躊躇なく先生の背後にあった本棚に叩き付けていた。その場にいた誰もが、ヒッと短い悲鳴を上げて身を震わせた。
「緋月さんは関係ないでしょ。怪我を負わせたのは俺なんだからさ。」
さっきとは打って変わって、力強い声色。本棚の板が壊れて中の本が雪崩を起こす。赤羽くんは続いて先生の目の前の木製机に、それを振り下ろす。人が傷付くのともまた違う、今まであった光景が非日常に堕ちていく音。顔を強ばらせ自分を守るように後ずさった先生の前で、さっきまでは机だったものが無惨に破片を散らした。
「あ、赤羽くん!」
「なに?緋月さんもそう思うでしょ?」
核心を突かれた。心臓が一瞬飛び跳ね、その後も治まることはなく嫌な音が身体中に響き渡る。そう尋ねたくせに私のことは眼中にないのか、すぐに視線を逸らし、机を破壊しながら彼は、椅子から転げ落ちて後ずさる先生にゆっくりと歩み寄った。こちらからは赤羽くんの表情を伺えないけれど、きっといつもと変わらない、あの笑顔なんだろう。
「ねえ、先生?緋月さんの転級は取り消してくれるよね?」
ひとしきり暴れて部屋中の物を壊した後、無音の空間に彼の楽しげな声が響く。赤羽くんは大野先生の胸元を掴み、顔を近づけていた。おかしい、おかしいよ、赤羽くん。人に暴力を振るって停学をくらうことも、先生に手を上げようとすることも、自分のことを棚に上げて私を救おうとすることも。赤羽くんは優しくて、そしてとんでもなく怖い人。本当は「やめて!」って言って暴れる赤羽くんを止めて、それから赤羽くんはイジメを助けただけで悪くはないことを弁解するべきだったんだ。
でも、庇えない。だって、自分は無罪だと信じ込んでいたから。何か余計なことを言って、とばっちりをくらうのは嫌だから。たとえ赤羽くんを蹴落とすことになろうと、E組になんて、絶対落ちたくないから。
「わ、分かった!分かったから!」
行動が読めない赤羽くんに大野先生は怯えきって、彼を説得させようと何度も何度も首を縦に振った。そこで胸を撫で下ろした自分は、なんて薄情だったんだろう。満足したのか、大野先生の返答を聞くと赤羽くんは掴んでいた胸元を離し、立ち上がった。こちらを振り返った彼は想像以上に鋭い視線を放っていて、緊迫した空気に吐き気を感じたのを覚えている。
「良かったね、緋月さん。E組行き免れて。」
もう何もかもに絶望したような虚ろな瞳に私が映る。すれ違いざまに吐かれた言葉は、いつものように嫌味ったらしいのに、その声色がとても優しくて泣きそうになった。私は何も、言えなかった。本当に、彼の言う通りだった。思い出しては、何度だって後悔して、涙がこぼれ落ちそうになる。
「緋月さん、大丈夫?」
「…えっ?」
我に返ったとき、視界に飛び込んできたのは、三人のデフォルメされた人間の上に『平均』と書かれたインナーだった。片手に現代文の教科書を持ち、長い時間思考が飛んでいた私の顔を心配そうに覗き込んだ先生。そう、E組担任の雪村先生だ。
「ぼうっとしてるなと思ったら、泣きそうになってるから。」
そうか、まだ授業中だった。みんなの前で指摘されてしまい、前方からの視線を一手に引き受けて身を縮こませる。もう一度大丈夫?と優しく聞く雪村先生から逃げるように視線を落とすと、左隣の空席が視界の端に入った。その私の視線を追ったのか、雪村先生も一緒に、誰も座っていない冷たい木机を見て、「赤羽くんね」と小さく呟いた。赤羽くんとはあの日から、一度も言葉を交わしていない。何度か、停学を言い渡されたり復帰したりを繰り返し、二年生の三学期にはまた大きな事件を起こし、長期的な停学が下されてしまったと渚くんから聞いただけだ。あの頃の素行不良とは比べ物にならないくらい、桁違いに暴力沙汰を巻き起こしているみたいだけど。
「ちょくちょくお家に伺ってはいるんだけどね。」
私が赤羽くんのことを心配していると勘違いしたのか、雪村先生はそんなことを口にする。雪村先生が授業のプリントとか保護者へのお知らせとか、赤羽くんの家に尋ねているのは知っていた。去年から新任で来たばかりでE組を担当させられ、更には停学中の彼まで気遣っているんだから、いい先生だと思う。理事長の独壇場であるこの学園にはなかなかいない人材だと、大野先生のことを思い出しながらそんなことを考えた。早く復帰して、雪村先生に会って、赤羽くんがもう一度、先生という存在を心から信じられるようになってほしい。なんて私が言えたことじゃないけど。
「でも4月には復帰するから。そしたらみんな、仲良くしようね!」
小学校の先生みたいなことを言う彼女を、みんなが呆れたように苦笑いをしながら見つめる。「はい、じゃあみんな勉強の続きをしよう!」と明るく振舞いながら教壇に立つ雪村先生。誰かが、「俺らはエンドのE組だから」と間髪入れずにボソッと本音をこぼした。一度落ちたら這い上がれない。ここはそんな場所なのに。
「みんなやればできるって!このE組は、夢とチャンスで溢れ返った天国なんだよ?」
エンドのE組。絶望のクラス。このクラスの何を見て、陳腐な夢を語るんだろう。誰もが胸に絶望と挫折を抱えるクラスでそんな綺麗事、通用するわけがない。でも、夢とチャンス、か。もし夢が叶うのなら、まだ残されたチャンスがあるのなら。私は赤羽くんに、謝りたい。
違うか。本当は卑怯で薄情な私を、ただ許してほしいだけだ。