赤羽くんに助けられ、一度はE組行きを免れた。はずだったのに。絶望の色を瞳に浮かべてしまった停学中の彼のことが気になったからとか、数学を教えてくれる人がいなくなったからとか、本心では思っていなくてもそんな低劣な言い訳が頭に浮かんだ時点で、最低だ。皮肉にも、私をE組へと追い込んだのは、赤羽くんが助けようと手を差し延ばしてくれた、数学の成績だった。

「お前は赤羽に助けてもらっておきながら、恩を仇で返すんだな。あいつも、さぞ浮かばれないだろうよ。」

以前、彼と二人で呼び出された生徒指導室。隣に赤羽くんがいないだけで、どれだけ心細かったことか。投げ付けられた大野先生の言葉は侮蔑の色に満ちている。それはナイフのように鋭利で、身体中を切り付けた。数週間前に受けた無数の切り傷は、まだ癒えていないようだ。一度は助けた人間が結局は同じE組に落ちて、隣の席に座っていたら、赤羽くんはどう思うだろう。私はどんな顔で、彼に会えばいいんだろう。

緋月さん。控えめに呼ばれた名前に、ハッと我に返る。西に傾いた日が、教室の中に長い影を落とす。

「どうしたの?帰らないの?」

今日はどうやら感傷に浸りやすい日だ。放課後に一人で席に着き、微動だにしない私を心配に思ってくれた渚くんに、顔を覗き込まれていた。教室の中に、他の生徒は残っていない。沈黙に耳が痛む。

「…渚くんは?」
「僕は、今日の授業で分からなかったところを雪村先生に質問してて、遅くなっちゃった。」

真面目、だな。渚くんはE組に落ちても、私みたいに捻くれることも塞ぎ込むこともなく、ただ真っ直ぐ前を向いて。私には言ってくれないけど、もしかして、本校舎復帰を狙っているんだろうか。どうせ無理なのに、なんて思ってしまう私は、きっと渚くんの友達失格だ。心の底から応援してあげられない、なんて。

「あれ、渚くん。緋月さんも。まだ残ってたんだね。」

床の溝との合わせが悪い引き戸がガラガラと大袈裟な音を立てて開かれる。そこからひょっこり顔を出したのは、プリントを両手で抱き抱える雪村先生だった。

「ちょうどよかった。これから赤羽くんのお家に行こうと思ってね。もし良かったら緋月さんと渚くんも一緒にどうかな?」

生憎な提案に、思わず押し黙ってしまう。畳みかけるように、「2年の頃から仲良かったんでしょ?」と生徒の友好関係に無邪気に喜ぶ雪村先生が、私たちに重圧を与える。その悪意のないプレッシャーに耐えられず、身を縮こませ顔を俯かせる。渚くんが僅かに息を飲んだのが分かった。

「…今日は予定があるので。失礼します。」

冷え切った空気に耐えきれず、ガタンと音を立てて立ち上がる。「あ、そう?残念ね。」と呑気に言う雪村先生は、この私と渚くんの間に流れる重苦しい空気を感じ取れないようだ。渚くんが慌てて「僕も、すみません」と続け、教室を出ようとする私の後を追ってきた。

「ちょ、緋月さん!待ってよ!」

不思議そうに首を傾げる雪村先生を置いて二人で教室を出て、私たちの歩みが廊下の古いフローリングを軋ませる。私の様子を伺っているのか、渚くんは控えめに半歩後ろを付いてくる。一人でも、行ってくればいいのに。私に気を遣っているのか、申し訳なくなる。

「渚くんだけでも、行ってきていいんだよ?」
「僕は…」

考えるように口を噤む。二人で下駄箱からローファーを取り出し、地面に放り投げる。西日が射し込み、誰も残っていない旧校舎は何とも物寂しげな様子だ。早咲きの桜がまだ少し肌寒い春風に揺れる中を、無言で歩く。詳しいことは知らないけれど、私と赤羽くんが疎遠になってしまってから、渚くんも不仲になってしまったのだろうか。

「僕も、行けないよ。」

どうやら、私たちは完全にバラバラになってしまっていたようだ。距離があいてしまった時期の赤羽くんのことを教えてくれたのは渚くんだったけど、当の本人も、赤羽くんとの間に一線を引いていたのか。

「…渚くん。私、助けてもらっといて、どんな顔で赤羽くんに会えばいいか、分かんないよ。」

木々に挟まれた下山のための小道。私と渚くんの二人だけ、この椚ヶ丘から切り取られたみたいな感覚に陥る。渚くんだって、一度は私がE組行きになりそうだった話を覚えているはずだ。赤羽くんから直接聞いているかもしれないし、私も辛くてしんどくて、誰かに聞いてほしくて泣きながら掻い摘んで話したことがあった。今だって、乾燥した空気が目に染みたせいか、涙が出てきそうだ。

「カルマくんなら、きっと大丈夫だよ。」

渚くんは優しく微笑みながら言うけれど、何の根拠があって、そんなこと。赤羽くんに対して罪悪感で満たされる私にとっては、気休めでしかなかった。確かに、きっと彼はE組に落ちたことで何の絶望感も挫折も味わってはいないんだろうけど。でも、その代わりに『先生』という存在に希望を見出せなくなっている。あの時の大野先生への言動を目の当たりにして、彼の『先生』への不信感をひしひしと感じたし、今まで以上に何に対しても興味も熱意も持たなくなった赤羽くんを見て、それは私のせいなのかもしれないと自分を責めてしまう。E組のことも笑顔で迎え入れてくれる優しい雪村先生に、大声で助けを求めたくなった。 怯懦な私のことも、自暴自棄な赤羽くんのことも、丸ごと救ってくれそうな気さえしてしまう。

「カルマくんなら、きっと…」

言い聞かせるように、渚くんは同じことを口にする。彼の停学は、4月に入ってすぐに解ける。渚くんが赤羽くんに対してどう思っているのかなんて、私には計り知れないけど。もうすぐ突入する春休みが、永遠に続けばいいのにと、心の底ではどうしたってそう思ってしまうよ。木々の隙間から見えた空には、西日が強く光を放つちょうど対局から昇ってきた満月より少し欠けた歪な月が、ぼんやりと浮かんでいた。