高校一年 05/24(土)


今、部室で早苗ちゃんと話しているであろう一氏くんを持つ数分間、いろんなことを考えた。一氏くんのこと、早苗ちゃんのこと、白石くんのこと、わたしのこと、テニス部のこと、明日からのこと、中学の頃のこと、菊丸くんのこと。過去も未来も現在も、頭の中で複雑に絡み合っている。


菊丸くんに会いたくて会いたくて仕方なかった4月は、今となっては昔のこと。感情は薄れてしまうもので。菊丸くんのこと、今でも好き?って聞かれれば、肯定は出来ない。むしろ、首を横に振るのかもしれない。こんな中途半端な気持ちは、相手に失礼すぎる。でも、菊丸くんのために今の大阪での生活は絶対に捨てることは出来ない。テニス部のみんなが楽しすぎて、これからも変わっていくわたしを一氏くんに見ててもらいたくて。いつか、「大嫌い」なんて言わないで、小さくてもいいから好感を持ってほしいとまで思ってしまう。きっともう、東京に戻ることなんて出来ない。なのに、いつまでも菊丸くんを忘れられないのは、初めて仲良くなった男の子だったから。未練ばっかりが残って、わたしは過去にも未来にも進めない。逃げ場は現在しかなくて、でもいまのわたしは、一氏くんでいっぱいだった。


何をどうすれば、この迷宮みたいな想いに結論が出るんだろう。いつまでこんなにもやもやしていなきゃいけないんだろう。やっぱり、菊丸くんは今でもわたしの友達として、答えに導いてくれるのかな?わかんないよ。わかんないことは、菊丸くんが教えてくれた。いろんな、たくさんのことを教えてくれた。だったら…、


ふと頭に過ぎったのは、悠紀の手紙。『落ち着いたら一旦東京戻ってきてよね。』二週間ほど前に郵便受けに入っていた差出人の名前のない手紙。いつも鞄に入れて持ち歩いて、何度も読み返して、でも返事は書けなかった。東京に戻る覚悟がなかったから。今なら、書ける気がする。


そんなことを考えたその時、部室のドアが静かに開いた。中から出てきたのはやっぱり一氏くん。なんて言うか、泣きそうな顔をしていた。それを見た瞬間、わたしは動けなくなった。早苗ちゃんに何を言われたのかわからないけど、あんな表情を見たことがなくて。一氏くんはもう好きじゃないって言ってたけど、本当に?やっぱりまだ好き、とか…?そんな疑惑が胸を渦巻く。でもすぐに我に返る。雨の中に飛び出そうとした一氏くんに慌てて駆け寄って、傘を差してあげた。


「一氏くんっ!」


弾かれたように振り返った一氏くんは、心底びっくりしていて。わたしの心臓もびっくりしたのか、すごく活発で。照れ隠しにちょっとだけ笑った。


「傘、入れてあげる。」
「…いらん。」


険しい顔して出て行こうとする一氏くんの腕を、咄嗟に掴んだ。掴んだ瞬間、もう頭が真っ白で何も考えられなくてなった。だからすぐに離して。心臓に直接耳が繋がっているんじゃないかってくらい、脈打つ音が響いた。一氏くんはよくわたしの頭を叩いたりしてるけど、自分から触れるのって、こんなに緊張するんだな、と冷静に分析。


「…風邪引いちゃうから。も、もうすぐ地区大会だし…」
「俺出ーへんから関係ない。」


ダメだ。そんなこと言われたら何も言い返せない。わたしじゃやっぱり、早苗ちゃんみたいにはなれない…


「……ん。」


俯かせた視界に、手が映った。もちろんわたしのではなく、一氏くんの。恐る恐る視線を上げると、一氏くんが手を差し出してる。


「傘。持ったるから、貸せ。」


半ば強引に傘を奪われた。呆気にとられるわたしの頭をバシンと叩き、すたすた歩き始める。ちょっと頭が濡れたけど、すぐに追いついて並んで傘に入った。肩が触れるか触れないかの瀬戸際。この身長差にも、どきどきした。何をしても、一氏くんの存在がわたしに刻み付けられるのは、なんでなのかな。


何も喋らない中、雨の音だけが響き渡っていた。それが居心地悪いだなんて、全く思わないけど。一氏くんはどう感じるのかな、なんて愚かな疑問を抱く。でも分かってる。一氏くんは、わたしのこと嫌いなんだもん。今この時間が、うっとうしくて仕方ないんだ…


「弥栄、」


結局校舎に着いても何も喋れなくて、一氏くんのあとについて教室に向かった。そそくさと自分のラケットバックを担ぎ、わたしはそんな彼をぼんやりとドアの所から眺めていた。ぼうっとしてたから、一氏くんの呼び掛けにびっくりして肩を揺らしてしまった。真っすぐにこっちを見ている。何を言われるんだろう、って顔をしかめてしまったけど、それは無駄に終わった。


「…おおきに。」


ゆっくりと耳から脳に伝わって、次第に身体中に浸透していく。まるでそんな感じ。一氏くんの、わたしに向ける視線はいつだって鋭くて、優しさのカケラなんてなかった。それがいつの間にか、一ヶ月かそこらでこんなに変わった。真っすぐにわたしを見つめる一氏くんは、やっぱりわたしの憧れで。ちゃんと早苗ちゃんと向き合ってきた彼を前に、わたしはいつまでも逃げてられないよね。


「一氏くん、わたし…東京に戻るよ。」


菊丸くんに会いに。自分の気持ちを、確かめるために…