高校一年 05/24(土)
わたしにも、何かできることはあるのかなって考えた。でも、何も見付からない。
ふと気付いたのは、一氏くんの存在。彼の机の横にはラケットバッグが立て掛けてあり、まだ校内にいるのは明らかだった。白石くんが早苗ちゃんと一緒にいる間、わたしはおとなしく教室で待ってるしかない。だけど、一氏くんの机がやけに目に付いた。何をしてるんだろう。どこにいるんだろう。また早苗ちゃんのことを想ってるの?なんでかな、早苗ちゃんがとっても羨ましい。入学したての頃は、絶対的に信頼されてる一氏くんが羨ましかったのに…
わたし、気付いたら一氏くんのことばっかり考えていて。でも彼は早苗ちゃんのことが好きなんだって思ったら、胸がずきずきと痛んで。彼に認めてもらいたくって。二人っきりになるとドキドキして。ねぇ、わたしまだ菊丸くんのことが好き、って言えるの…?
好き、に決まってる。助けてくれたのは、友達になってくれたのは菊丸くんだもん。一氏くんはいつだってわたしを拒絶して。嫌い嫌いって。……でも、最後には受け入れてくれた。「俺の前では泣いてええで」って言ってくれた。実際泣きついたことはないけど、でもその言葉に救われた。じゃあ、わたしは一氏くんに何かしてあげられたのかな?何も、してない。何も、出来ない。わたしは結局弱いまま。白石くんは「弥栄さんは変わったね」って言ってくれた。確かに、ちょっとはマシになったのかもしれない。でも違う。わたし、本当は…
わたしに手を差し延べてくれた菊丸くんのように、今度はわたしが差し延べてあげたいの。拒絶されたって、いい。一氏くんは、絶対絶対絶対、最後には受け入れてくれるもん。ぎゅ、とこぶしを作り、立ち上がった。走り出すわたしの足。行き先は校舎裏。傘立てから自分のを引っ張り出し、外に向かった。
ほらね、わたしの勘は的中。校舎裏の壁に寄り掛かり、うずくまっている一氏くんがいた。いつもと立場が逆だなぁ、と思いながら、彼に近寄った。パシャパシャとローファーが水を跳ね上げるが、一氏くんは全く気付かない。隣まで来て、立ったまま彼の上に傘を差した。
「ひ、とうじくん」
か細い声が出た。でも、雨に掻き消されずに済んだみたい。一氏くんはゆっくり顔を上げた。視線と視線がかちあう。それだけで、どくんどくんって。耳の奥に心臓があるみたいに、雨音なんて掻き消すくらい、うるさい。そんなこと知らないであろう一氏くんは、わたしを見るなり再び顔を膝に埋めた。
「一氏くん、風邪引くよ…」
わたしは一氏くんを傘に入れたまま、ポケットからハンカチを取り出して濡れた頭を拭いてあげた。顔、見えないからって調子に乗ったのが見え見えだけど。風邪、引いてほしくない。一氏くんがいつも付けてる緑色のバンダナが、水分を含んで変色していた。すると突然一氏くんは顔を上げて、わたしの右手首を掴んだ。はっとして、ハンカチを落としそうになった。一氏くんの手が、とっても冷たかったから。なんだか泣きそうになった。すぐにその手は離れて行って。次の言葉が容易に想像できた。
「触んな。」
ほら、思ったとおり。少しおかしくなって、口元が緩んでしまったみたいで、怪訝そうに一氏くんに指摘された。けど適当にごまかして、黙り込んだ。なんて言えばいいのか分からない。そもそも何か言っても、一氏くんは拒絶する。でも、白石くんが言ってくれた。「もっと自信持っていいよ」って。拒絶したって、一氏くんは最後には…。そう信じて、言葉を紡ぐ。
「…一氏くんの気持ちは、一氏くんのもの…だと、思うな。」
前に白石くんにも言ったこと。でも、だからなんだって話でもある。一氏くんの気持ちは一氏くんのものだけど、それが早苗ちゃんを追い詰めているのも確か。結局、気休めでしかないこの言葉をもらったって、一氏くんは嬉しくないのに。
「…調子のんなや。うっといんじゃカス。失せろ。」
やっぱり拒絶されるよね。当たり前だよ。わたしには関係ない話なんだもん。でも、もう引き下がれない。
「わ、わたし…マネージャーだもん。」
「はぁ?」
「部員の健康管理も仕事のうち!一氏くんに風邪引かれると困るよ…、早苗ちゃんも、心配すると思うな。」
一氏くんを何か説得するときは、早苗ちゃんの名前を出せばいいだなんて、そんな簡単な話じゃない。でも、一氏くんの話にはいっつも早苗ちゃんの名前が出てくるから、効果があると思った。だから、まさかこんなこと…
「俺、今はもう早苗のこと好きやないねん…」
時間が止まって見えた。その言葉はわたしの思考回路を停止させるほどの力を持っている。一氏くんが、早苗ちゃんのこと、もう好きじゃない…?本当に?今まで感じてきたもやもやした黒い感情が、流れ落ちていくような気分。次第に意識が戻ってきて、雨の音が耳に届くようになった。
「……ほんと?」
「弥栄ごときに嘘つくほど俺は暇やないで。」
一氏くんは知らないだろうけど、わたしの名前を呼んでくれるのは初めて。彼の声で呼ばれるわたしの名前は、とても特別に聞こえた。嬉しい。すっごく、嬉しい。それだけじゃない。一氏くんが早苗ちゃんへの想いを否定してくれた。二人は、友達に戻れる。けど、
「早苗ちゃん、誤解してる…」
「せやろなぁ。」
「…いいの?」
「しゃーないやろ。もうどうにもならんことやねんから。」
どうにも、ならなくない。どうにかなってもらわないと困る。わたしには、今この場所しかないの。部活も昼休みもクラスでも、あんなに気まずくなるなんてもう嫌。
「…どうにも、ならなくないよ。誤解は解かなきゃ。」
「ほんまにうっといな、おまえ。もうええ言うてるやろ。」
「良くないよ。だって、早苗ちゃん、一氏くんのことすごく大事に想ってるもん!」
「来たばっかのおまえに何が分かんねん。口出すなや。」
確かに、わたしが口出す話じゃない。テニス部のみんなは中学からずっと一緒で、わたしはそこにはいなかったのだから。泣きたくなった。みんなと会ってから、毎日が楽しくて。欲を言えば、わたしだって中学の頃から一緒にいたかった。来れるものなら、来たかったよ。それがみんなには伝わったのか、わたしの前ではみんなは中学の想い出話をあんまりしなくなった。一氏くんだって、わたしのことを嫌いだって言いながら、いっぱい気をつかってくれて、いっぱい元気や希望をくれた。そんなこと、一度だって言わなかった。
「なんにも…分からないよ。」
涙が溢れてきた。いつもなら我慢するところ、目の前には一氏くんしかいなかったから、甘えが出た。でも、泣いていいよって言ったの、一氏くんだもん…。わたしが中学の頃は東京にいたってことこそ、どうにもならないこと。だって過去だから。変えることは出来ない。でも未来は、一氏くんと早苗ちゃんと白石くんの未来は、今からだって変えられる。
「来たばっかりで…分からないから、まだみんなと一緒にいたいの…早苗ちゃんの誤解なんかといて、またみんなで笑っていたいの」
ずび、と鼻を啜りながら、泣いていると、一氏くんが柄にもなく慌てていて、制服の袖で目元を拭ってくれた。雨で濡れた制服だったけど、すっごく熱く感じた。悲しくて、寂しくて、こんなに大泣きするのはいつぶりだろう。一氏くんはわたしの涙を拭くために、少しだけこっちに近寄って。傘の中の二人だけの空間が、胸をくすぐった。
「……わたしが憧れる一氏くんは…、思ったことを口にできる…真っすぐなのにっ……逃げないでよ…!」
そう、逃げてほしくない。早苗ちゃんから、自分の素直な気持ちから逃げないでほしい。わたしが変われたのは、「誰かのおかげ」って一概には言えないけど。白石くんも言ったように、ほとんどは一氏くんのおかげなんだから。
「…早苗、まだ学校おる?」
溢れる涙は止まらないのに、一氏くんの手は止まっていて。だから自分で拭こうとしたら、突然動き出した。力強くって、ごしごしと何度も往復する。こすれて少し痛い。痛いのに、すごく熱い。身体中が、一氏くんとの近さに発熱している気がする。
「部室、に…」
そう言うと、一氏くんはわたしの頭にぽんと手を載せ、傘から出た。部室に、行くのかな。雨の中突き進む一氏くんに傘をさしてあげようとわたしも立ち上がったけど、立ちくらみに負けて足が動かなかった。しばらくしてから、涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭き、わたしも部室に向かった。
わたしにも、何かできることはあるのかなって考えた。大してできることはなかった。手を差し延べたって、一氏くんはわたしの手を掴まないから。でも、雨に濡れる一氏くんに、傘をさしてあげることくらいはできるよね。