さめざめと愛

涙は出なかった。代わりに心の臓が涼しい。
それでも事実を咀嚼し、理解する。無性に乾く喉を潤そうと手に持っていた紅茶椀ティーカップに口を付けるが、普段なら高く香る心地好い渋みも今は感じられず、ただ無味の液体が喉を通って体内に流れ込むだけに終わった。

「辛ければ少し休むかい?」
「いいえ、いいえ。平気よ」

父が死んだ。其れを追うように母も死んだ。
森は其の事実を告げた後、心配そうに深透を覗き込んだが、返ってきた声音は至って平時通りの淡々としたものだった。話を続けろと云わんばかりに此方を見据える少女に、森は困ったように笑みを浮かべるしか無い。

ポートマフィアであった両親の死について、“いつか起こりうる事象”と話していたのは嘘ではないようだった。




森が深透と出会ったのは半年程前である。
彼女の父から「診察」を頼まれたのが切掛きっかけだった。曰く、子の身に宿すにはあまりにも難儀な異能力だから制御出来るようになるまで診て欲しい、と。
彼から娘だと見せられた写真の少女は凡そ10歳程で、しゃんと背筋を伸ばし、おませに両膝の上に両の指先を揃えて大きな椅子に座っていた。
……――成程。絶賛守備範囲であり、嬉々として安請け合いしてから直ぐに後悔した。実際は齢15の思春期真っ只中、難しい年頃の少女だったのである。

しかし其れは良い意味で裏切られた。
時折年相応のあどけなさは見せるものの達観しており、自身の異能力についても正しく・・・理解している。果たしてそれは元来の物なのか、両親の教育の賜物なのかは何方どちらでも構わない。この際年齢もどうだっていい。

人当たり良くうっそり・・・・と微笑む少女。上手く隠しているようで滲み出るは無垢なる悪・・・・・、しかし溺れる事無く矜恃を以て其れを貫こうとする少女はあまりにもマフィアらしい只の女学生だった。




「如何だろう、これを機にポートマフィアに来る気は無いかな?」
「只の専属医にそんな権限あるの?」
「あると云ったら?」
ァよ。暴君の圧政に付き合う気は無いわ」

の首領とは趣味が合わなそうだもの。
そう云って深透は白磁に濃淡な青い紋様が描かれた砂糖鍋シュガーポットから小さなトングで角砂糖を取り、自身の紅茶椀ティーカップの中にぽとぽとと数個放り込んだ。茶匙ティースプーンで掻き混ぜれば、溶けきらなかった砂糖が底の方でざりざりと音を立てる。

「そも、私がポートマフィアに入って何をするの?お茶汲み?」
「君のような子がお茶汲みで満足するのかい?」
「どういう意味よ其れ……。紅茶と珈琲なら美味しく入れる自信があるわ。それで皆々様のお仕事が捗るならば、甘んじて受け入れるわよ」

好みでは無いどろりとした甘さに顔を顰めながらも紅茶を飲み干し、ソファの背に身体を預ける。

「心にも思ってないだろう」
「当たり前でしょ…と云うか、只の女学生を犯罪組織に勧誘するのは大人として、医者せんせいとして如何いかがなものかしら」

胸元に垂れる深紅のスカーフを指先で弄びながら、深透は肩を竦めた。実際初々しい華の女子高生であり、確かに少なからず両親や森を通じたポートマフィアとの繋がりはあるが、未だ只の女学生である事に違いはない。
其れを象徴するかのように休みの日でも着用している学校指定のセーラー服、そしてテーブルの上に並べられた紅茶一式ティーセットの横には数冊の教科書。
其れらを一瞥してから、森は云う。

「君が学校に通っていたのはご両親が"そうしろ"と云ったからだ。だが今、二人はいない」

声音は優しい。だが眼光は鋭く深透を射抜く。
半年程の医者せんせい患者せいとの付き合いではあるが、此の少女と其の異能を知って手放すのは些か惜しい。揺らいだ今が好機とばかりに、森はじぃっと視線を逸らすこと無く深透の眼を見て言葉を待つ。

「……憶測は止めて。行きたくて行ってるのよ」
「本当に?」
「私、叔父様のそう云う所嫌い」
「ははは、響かないなぁ!」
「幼女趣味な所も嫌ァい」

腕を組み、深透はむすっとして唇を尖らせる。
あまりにも子供らしい仕草に毒気が抜かれ、思わず森の口から笑みが漏れた。ポートマフィアの人間だからでは無く、純粋に森個人を“叔父様”と呼び慕い、時に“医者せんせい”と敬意を持って教えを乞うてくる事に悪い気はしない。むしろ守備範囲外である分、父性に似た感情すらある。

何にせよ、これ以上会話で話を詰めても無駄だろう。
拗ねてしまった深透のご機嫌を取る為、森は革鞄から数十枚の資料を取り出した。欲しがるだろうと無理矢理用意したものであり、また彼女へのでもある其れは一部黒塗りされている。

複製コピーで悪いが、君の父が死んだ時に持っていた手記の全文だ」
「あら彼奴あいつ、手記なんて付けてたの」
「そのようだね。いやぁ面白かったよ」
「私より先に読まないで、よ…………って、本当に此れ読んだの!?殆ど母さんへの恋文ラブレターじゃない!!」
「うんうん、愛だよねぇ」

渡された分厚いA4用紙に複製コピーされていた手記の内容を見て、深透は嫌そうに顔を顰めた。黒塗りされた部分には特に興味が無いらしく、ぱらぱらと捲りながら、途中「おぇ」と嘔吐えづく真似をしながらも読み進める。

「身内の恥の塊みたいな屑野郎だったけれど、母に一途な所だけは誇れるのよね……いえ、とは云っても此れは如何どうなの……うわ、うわぁ……」
「楽しそうだね。最後の頁を読んでご覧」

森に云われるがまま、深透は残りの数枚を飛ばして最後の頁を取る。そして、驚愕に目を見開いた。

「……異能力者だったの」
「其の様だね。実際此処に来る時認識出来ず見失ってしまって困ったよ。此の“骨董屋”は既に彼の異能力によって存在を隠匿されている」
「だから迎えを頼んだのね。おかしいと思ったのよ」

其処に記載されていたのは父の異能力についてだった。
曰く「三澄家の異能は受け継がれるものであり、強力な存在隠匿を可能とする」と。発動した際の効果や条件なども事細かに記されており、深透は其の強制的な異能力の正体に唖然とした。

「其れが君の父の死因だろう」
「えぇ、えぇそうね……恐らく」
「只の陰険な組織マフィア専属暗殺者だとばかり思っていたのだけどねぇ。どうやら組織マフィアにも異能力については隠していたようだし、いやぁ知ったのが私だけで良かったよ」
「報告してないの?」
「していたら既に君は組織マフィアに捕らわれているよ。手記を読む限り、其の異能は“存在を隠匿する絶対要塞の成立”だ。深透くんを懐柔、若しくは強制的に云う事を聞かされていただろうねぇ」
「……やってくれたわね、あの屑野郎」

目頭を抑え、深透は深く深く溜息を吐いた。しかしその唇は薄らと弧を描いており、何処と無く状況を楽しんでいるようにも見える。
詰まる所、今二人が居る骨董屋は現時点で森と深透しか知る者がいないと言う訳だ。深透の父の異能力によって存在を隠匿されている、其れだけならば珍しくもない異能力だろうが、手記にある通りであれば死が発動の条件であり引金トリガーとなっている。

条件は二つある。
一つは「術者の死」。代償の程度によって対価は測られる事が多いが、父の異能も例外ではなくという代償に応じた対価が支払われた事。
もう一つは「対象者への愛」。愛の深さ、想いの丈を測る事は不可能だ。しかし異能力の条件として組み込まれている以上、愛だと思い込む・・・・事は出来ず真実が必要となる事。

この上なく難儀で、矛盾した異能だった。
生命を刈り取る事を生業とした深透の父が秘めた異能は、他人ひとを愛し守る為のものだった。

「泣いても良いのだよ。今は私しか居ない」
「冗談止めて。…あぁでも、決心は着いたわ」
「おや、気替わりかな」
真逆まさか。……二人の死の原因を探る、其れ以外報いる方法は無いでしょう」
「復讐かい?」
「違うわ。八つ当たり・・・・・よ」

深透はにんまりと口の端を上げて云う。しかし其の眼は笑っておらず、瞳孔はきゅっと横に伸びて鳩羽はとば色の虹彩はぎらぎらと輝く。

途端、森の後ろに花瓶が割れた。
正確には花瓶を満たしていた水が水圧だけで内側から花瓶を破裂させた。森が掛けている椅子からは距離があり、窓際に飾られていた事が幸いして破片は飛んで来なかった無かったが、周囲には水が飛び散って絢爛な絨毯を濡らす。そして活けられていた花々は生命の源である水分を失い、無残にも枯れ果てて静かに落ちた。

「感情の昂りで発動するのは未だ治っていないね」

森は動じる事無く、医者の顔で冷静に分析をする。
一方、深透の瞳孔は既に元の丸い形に戻っていて、気まずそうにもぞもぞと座り直してから紅茶鍋ティーポットに残っていた紅茶で自身の紅茶椀ティーカップを満たした。

「……気を付けるわ」
「そうだね。せっかく指鳴らしフィンガースナップでの制御と加減が出来るようになったのだから、その経験を無駄にはしない事。いいね?」
「はぁい」

気の抜けた返事ではあるが、反省はしているらしい。砂糖もミルクも入れず、手に持っている資料に目をやりながら渋くなっているであろう紅茶を黙々と飲んでいる。

深透の感情に異能が反応するのは極稀な事である。
目の前の少女は「八つ当たり」だと云った。それは死に対するものなのかと問われればいなであり、深透の性質を考えるのであれば“愛されていた”と立証されてしまったからだろう。
もう返す事が出来ないやり場の無い想いを何処かにぶつけたい、涙を流さない深透なりの慟哭。そして其れは深透の本性を引き摺り出すのに相応しい。

「ねぇ、鴎外叔父様。これ以外に資料はないの?」
「無いよ」
「ふぅん……屑野郎ちちの顛末は分かったわ。では何故今になって異能を使わざるを得ない状況になったのかしら。母は?」
「知ってはいるが、教える事は出来ないなぁ」
「私は娘だもの、知る権利はある筈よ」
「無い。君はポートマフィアじゃあ無いからね」

森の言葉は個人のものでも医者のものでもなく、ポートマフィアとしてのものだった。つまり今深透が質問した内容は組織マフィアに関わる問題であり、其れを只の女学生には教える事は出来ない。

今度は感情で異能を発動させなかった。
森は満足そうに微笑み、冷え切った紅茶を一口飲む。“八つ当たり”をすると云った以上、何らかの行動は起こすだろう。元々深透は強さ・・に固執する性格だ。其れを得る為ならば如何なる努力も惜しまず、血の滲むような訓練すらもやってのける。実際、森が課した異能制御の訓練も常人なら音を上げるようなものだったが深透は淡々とこなし、見事自身の異能を飼い慣らしてみせた。少し前までは暴発を繰り返し、異能の負荷で血を見ない日は無かったにも関わらず、だ。

「では鴎外叔父様、取引しましょう」
「只の女学生と、かい?」
「うふふ、そう、只の女学生と」

深透がパチンと指を鳴らすと、先程まで絨毯を湿らせていた水分が集合して液体となり、ふわりと浮き上がる。石鹸玉しゃぼんだまのように浮かぶ水を指先に引き寄せ、其れを優しく撫ぜながら深透は花笑んだ。

「叔父様の判断で良い、ポートマフィアに敵対している組織から有利な情報を持って来るわ。ねぇ、それと引き換えなら良いでしょう?」
「確かに君の異能は強力だ。何せ“万物の水操作”だからね。だが其れだけでは裏社会では通用しないよ」
「もう!叔父様だって薄ら勘付いているでしょう。私の根が悪人・・だって。……ポートマフィアの両親が居て、異能力者。そんな子供が真っ当な道を歩む訳無いでしょう」

悲観も後悔も歓喜も愛憎も無い。
少女は他意無く、只無邪気に笑って言い放った。