ささやかに惑う
「最近、変なモンが見える」
普段は見せない少し弱々しい表情で、彼はルビィのような目を伏せながらそっと呟いた。
今は夕飯時で、彼が師としてではなく友人として私に接する唯一の時間だ。だからそんな言葉が出てきたのかもしれない。
「変なもの、ですか?」
「分からねぇ。だけどよ、気付いたらお茶と菓子が置いてあったり、散らかした本が綺麗に片付いてんだ。あとたまに足音が聞こえる」
「それは……本はちゃんと片付けて下さい」
「そこじゃねぇーっての!なぁなぁ、お前ホントに一人暮らしなんだよな?」
「えぇ」
なるほど、どうやら彼は早くもあの子の存在に気付いてしまったらしい。人前に出たがらない癖に、この家にいる彼が気になってしょうがないのだろう。それが興味なのか、世話焼きの性なのかは分からないが…いや、どちらもか。
「昨日の夜もな、俺様見ちまったんだよ」
「見た、とは」
「長い黒髪の、薄い着物の女が縁側に座ってたんだ……始めは寝ぼけてんのかと思ったんだけどよ、そいつ、俺が声を掛けた途端……消えた!」
「それはそれは」
「反応うっすいな!ここお前ん家だろ、呪われてんじゃねぇの!?」
「ふふ、ギルベルト君ったら意外と怖がりなんですねぇ」
「そ、そそそそんな事ねぇし!」
正体を知っているので驚きはしないが、それが逆に彼を混乱させてしまったようだ。あたふたする彼は少々珍しくて、思わず笑みを含んでしまったが家主としては早々に対処すべきか。
「大丈夫ですよ」
「でもよぉ」
「ほらほら、明日の仕事は私達の上司もいるんですから。ご飯食べてお風呂入って、早く寝ましょう」
ちぇっちぇのちぇ〜と唇を尖らせ、そのまま味噌汁をすするので今は納得してくれたようで一先ずは安心する。
軍事国家である彼の野生の勘は侮れない。いくら口八丁に手八丁、丸め込んだとしてもすぐに嗅ぎ付けてしまうだろう。
明日、いや今晩だ。
ギルベルトの寝つきが良いのは我が家に泊まり込みに来た時から知っている。布団に入って3秒で寝てしまうから近所の子供と大差ないなぁ、なんて微笑ましく思ったのは割と最近の事だ。
その時であれば多少隙を付けばあの子と顔を合わせて話すのは容易い。いくら彼から教えを受けているとはいえ私も国であり、彼よりも歳を重ねているのだから。
この家には数日前から海の向こうのお客様が泊まっていらっしゃる。家主であり、この島国そのものである彼曰く「教師」らしい。
同じ家にいるのにおかしな話だが、私は一度も彼に会っていない…いや、一度だけ寝ぼけているその人に声を掛けられたが、会ったとは言えないだろう。びっくりして逃げたし。
教鞭を執っている時は厳しく、しかし日常生活では菊の友人であるようだった。
つい先日まで極度の引きこもりで、藩の皆にも顔を出したがらなかったのに…随分な強行突破で引っ張りだされた時はさすがに私も苛立ったが、「教師」の客人といる菊は今までより活き活きとしてるので、まぁいいかと思う。
「……梅、少しよろしいですか」
「ッ、菊ったら驚かさないで下さい」
「あら珍しい、考え事でもしてましたか」
「ぼーっとしてただけですよ」
私は茶器を拭く手を止めて、ゆったりと下の方でひとつに結わえていた髪を揺らしながら、声のした方に向き直る。
そこには柱に寄り掛かり、袖口に手を入れて眠そうに目をしぱしぱさせながら、ふわりと微笑んでいる菊がいた。「教師」の客人が来てからの私は人前に姿を見せる事が極端に減り、自然に菊とも顔を合わせる事が無くなった。なので彼と会うことも数日振りである。
「全く、こんな夜更けに……明日は勉強もお仕事もあるでしょうに」
「ありますけどね、久々に梅とお話しようと思いまして」
「あら嬉しい」
湯呑みをひとつ、戸棚から取り出して出来たての緑茶を注ぐ。本当なら私がひとりで寝る前に飲もうとしていたのだが、菊は寝る前の穏やかな時間を私に会う為に使ってくれたのだ。
幸いにもお湯は余っているし、自分の分はまた後で作ればいい。
ほんのりと温かい湯呑みをひとつ、私は菊に近付いて手渡す。その時にちょんと触れた指先は冷えており、はっとして彼の顔を見れば鼻先が赤みを帯びている。
昼間はそこまで寒くないが、それでも晩になると冷え込む。きっと道中も色々考えさせてしまったんだな、そう思うと少し申し訳なかった。
「気を使わなくてもいいのに」
「お気になさらず。寝酒…ではありませんが、寝る前に落ち着くでしょ」
「えぇ、ありがとう」
…さて。菊がわざわざ夜更けに私に会いに来たということは、何かしら事があるのだろう。
私も眠たいし、急かすように「本題は」と問えば、彼は視線を惑わすように揺らしてからそっと口を開く。
「ギルベルト君が、梅の気配に感づいています……というか幽霊だと思われてますよ」
「あら」
「あら、じゃありません。そろそろ彼の前にも出てきたらどうですか」
「嫌ですよ」
「人見知りなのはわかりますが」
「それもありますがね、怖いんですよ」
「……怖い?」
寝ぼけているその人に声を掛けられた時、心底美しい人だなと思った。もちろん、目の前にいる菊も綺麗な方だと常々思っているが、また違った美しさなのだ。
月に照らされる銀髪も、飲まれそうになる程澄んだ赤い目も私は見た事がなかった。仕事上、海の外の方々と関わった事はあるから自分と違う見目をしているのは知っている。だがあれは、
「……一言で言うなら"魔"に近い」
「それは、随分な言い方ですね」
「マ?なんだそれ」
「基本的に悪い意味に使われます。ですが今のはそういう意味でなく……恥ずかしいながら魅入ってしまったんですよ。だから怖くて」
「これ俺様褒められてる?」
「えぇ、褒め言葉で」
うーんこれは、顔を上げたくないな。
灯りは付けておらず、窓から差し込む月の光だけでこの場は照らされている。だから一寸先は闇で…いや、とは言え気配を感じられなかったのは不覚だ。
「ギルベルト君いつの間に」
「お前、夕飯の時からそわそわしてただろ。だから気になって」
「そ、そうでしたか……あー…梅?」
「大丈夫か?固まっちまったぞ」
見なくても今なら分かる、その人は菊の後ろに立っている。こんなに近くにいたのに、気付かなかった…というかわざと気付かせたのだろう。
「おい」という言葉と共に心配そうに降りてくる手。そして肩に手が掛けられる。
「っっうびゃ!!」
その前に、我ながら情けない声をあげながら逃げるように高く跳ね上がった。