しとしとと撃つ


「本田菊という男をご存知ですか」
「ッ俺は頼まれただけだ!妻も子もいる、だから命だけは……!」
「忘れて下さるだけでいいのです、ね?本田菊なんて人間はいない。あなたは何も知らない。ただの通りすがり」
「…………ただの、」
「早くお家にお帰りなさいな。奥様とお子様が待ってらっしゃるんでしょ」

そう言うと目の前の男は虚ろになった目をぱちぱちと瞬かせ、少しぼーっと呆けた後にふらふらと去っていく。
男の姿が雑踏に紛れていく所まで見送り、私は前髪をかきあげて手の平で額の汗を拭いながら深く溜息を吐いた。今の男で最後だ。10人程と踏んでいたがそれよりも少し多く、少々手間取ってしまったが何の問題もない。

菊を狙っていた浪士共は粗方片付けた。後は賓客館に残る議員とその周辺だけだろう。
恐らくもう午後の会議は始まっている頃合だが、今から汗を流すのに軽く水浴びをしても立食会までには間に合う。

一先ず懐に隠しておいた短刀も、太腿に隠してある銃も使う機会が無かった事に安堵する。袴に付いた土埃を払い、私はカラコロと下駄を鳴らしながら賓客館へ戻る道を急いだ。


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賓客館はその名の通り、今日のように海外の客を招いた会議や晩餐会などに使われている。他にもその客が泊まれる宿の設備も整っており、簡易的ではあるが各部屋に風呂の用意もされている。

普段なら使う事は無いが、今回の仕事の内容が特殊である為、私にはその風呂付きの部屋があてがわれていた。
秘書は相変わらず仕事が出来る男のようで、部屋に戻れば既に頼んでいた女給の服が置かれている。…ついでに仕事も追加されているようだが。

机の上に置かれた新しい資料、と言っても1枚の紙に走り書きされたものだが、そこには例の議員が何を目的に菊を狙っていたのかが具体的に記されていた。

「菊の血を、ね……胸糞悪い」

あまりにも道徳的とは言えない内容に、思わず吐き気が込み上げる。菊を何だと思っているんだ。いくら国とは言え、こうして人の身として生きている存在なのに。

紙を持っていた手に力が入り、ぐしゃりと音を立てて紙は潰れてしまった。そのまま小さく丸めてゴミ箱に投げれば、それは綺麗な放射線を描いて吸い込まれるように入る。

帯を解き、脱いだ袴をソファに放って浴室に向かう。行儀は悪いが、どちらにしろ汚れてしまったので綺麗に洗濯しないといけないので多少シワになってしまっても構わない。

「……あ、帰る時どうしよう」

女給の服をそのまま拝借…いや、それはさすがにまずいか。少し考え直して、私は脱ぎ捨てた袴を丁寧にたたみ直した。

土埃が付いて指通りの悪い髪も、自身の傷だらけの身体も丁寧に洗い上げ、浴槽に貯まった湯に身を沈める。水浴びだけにしようと思っていたのに、目の前に風呂があると入りたくなってしまうのは日本人の性か。

「傷、増えたな」

腕、腹、脚…大きいものあれば小さいのもある。癒えて痕も無く消えた傷の方が多いが、残って目に見える傷も少なくはない。

これらは全て国の為に付いた痕、だが国である以前に私も女なのだ。恥じてはいないし誰かに見せる予定など無い。それでも見ていると少しだけ、ほんの少しだけ憂鬱の文字が過ぎった。


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秘書が用意した女給服を着て、

「……お前、何してんだ?」
「あらギルベルトさん、見ての通りですよ。何かお飲み物お持ちしましょうか」
「ビール」
「ありません」