Long StoryShort StoryAnecdote

高嶺の花


 母の再婚で、わたしは高嶺の花になった。
 生まれた時は及川花実(おいかわ はなみ)だったのに、こんなのってない。それも30も近くなって独り身だというのに……当然、会社では「高嶺の花ちゃん」などとからかわれている。
 元々愛想のない顔を、クール・ビューティーなんて好意的に言ってくれる人もいたけれど、高嶺花実(たかみね はなみ)になってからというもの、そうした一人歩きの通り名ばかりを真に受ける人もいる。
 ――でも、あの人にだけはそう思われたくないな。
 頭をよぎる顔に、頬が熱くなる。
 髪型やネイルを変えるとすぐに気づいてくれた。わたし自身は元々それほど美容意識が高いわけじゃないけれど、声を掛けられてからはマメに整えるようになったのを、あの人はわかっているだろうか。
 高嶺の花ちゃんも、恋の前では形無し。
 そんな与太事を考えながら可動式のキャビネットにファイルをしまったところで、終業のチャイムが鳴った。
 キャビネットの間から出ようとしたところ、出会い頭でぶつかりそうになり「ひゃっ」と高い声が出て口元を押さえる。
「あ……道端さん」
「ああ、ごめん。こっちの不注意だった。大丈夫?」
「平気です」
 わたしは肩に流れ落ちた髪をそそくさと耳にかけると照れ隠しに笑った。
 道端圭史(みちばた けいし)さんはわたしの4つ上の先輩だ。いつも清潔感があって穏やかで、まだ若いのにどこか仙人めいた雰囲気のある人。
 といって、別に老けているわけではないのだけれど、年齢なりの感情の起伏を見せることがほとんどない。物腰は柔らかで、出世などにも無関心でいまいち掴みどころのない不思議な人だ。
 わたしは道端さんが好きだ。
 何だか妙に気が合って、時々は終業後2人で飲みに行く。これといって共通の趣味があるわけでもないけれど、わたしはお酒が好きだったし、道端さんも顔色を変えずによく飲んだ。
 今日は、今日こそは。この人にぜひとも聞いてもらいたい話がある。
「あの、道端さん」
 狭い棚の間で行き違いになりかけるところ、振り返り彼を呼び止める。
「はい?」
「今日、行きませんか?」
 わたしがグラスを傾ける仕草をすると、道端さんはにこりと愛想よく笑って「いいですね」と頷いた。
 2人揃ってキャビネットの隙間から出て来たところを、同僚の女性にバチリと見られて妙な汗をかいたけれど、この胸のドキドキもきっと、後で打ち明けることになるだろう。

 わたし達には行きつけの店がある。会社の近くでは知り合いに会うかもしれないから、お互いの乗り換え駅にあるダイニングバーで落ち合う。
 今日も先に会社を出たわたしは席に着くと、15分ほどして彼がやって来た。
「ごめん、待たせたね」
「もう着く頃だと思ってビール頼んでおきました」
「さすがです」
 ネクタイを緩めながらそう言ってはにかむ道端さんの頬にえくぼが浮かぶ。
 会社にいる彼は仙人だけれど、2人きりになるともう少し地上に降りて来てくれる気がする。だからわたしは、いつもは少し頑なな自分も開放してしまうのかもしれない。
 つまらない会社の愚痴、プライベートの友人と過ごした時の楽しい出来事、家族や趣味や習い事……とりとめのない話を、道端さんはうんうんと興味深そうに聞いてくれる。
 道端さんの口から出る話もまたどこか一風変わっていて、わたしは時間も忘れてお酒を進めながら熱心に相槌を打つ。
 2時間近くが過ぎた頃、アルコール耐性には自信のあるわたしも少し酔いが回って来た。そろそろ頃合いだ、と考える程度の余裕は持ち合わせながら切り出した。
「道端さん。あの、以前からわたしのお酒に付き合ってくれて本当にありがとうございます」
 おどけてグラスを掲げると、道端さんも苦笑してそれを真似た。
「どうしたの、改まって」
「道端さんて何だか仙人みたいで、なんかこう、一緒にいて落ち着くっていうか……道端さんの前では自分に正直になれる気がするんです。それで、あの……折り入ってお話が、」
「――ごめん」
 息を思い切り吸って勢いをつけた瞬間、道端さんはそう言ってぎゅっとグラスを握り締めた。
「……え?」
「ごめん、俺……その、高嶺さんの……気持ちには応えられないと思う」
「道端さん」
「本当にごめん。俺も君と話すのすごく楽しくて……だから、でも、そのせいでもし勘違いさせてしまったのなら本当に申し訳ない。もっと早く言うべきだったのに」
 わたしはグラスを置いて両手をぎゅっと握った。
 道端さんは目を伏せて、言葉を探すように口をパクパクとさせた。こんな顔をする彼を、わたしは初めて見た。
 わたしはおしぼりを掴むと自分の口元に当てて顔を伏せた。声が漏れないよう強く塞いで、何度も瞬きをしながら、肩を揺らす。
「……高嶺さん、ごめん。泣かないで……、」
 言って、わたしの腕を掴んだ道端さんの目が、まん丸と見開かれる。
「――高嶺さん?」
「ごめんなさい……ごめん、ごめんなさ、あはは、あははははっ!」
「え……ちょ、何……っ」
 わたしは堪え切れず、目に涙を浮かべて声を立てて笑った。お腹が痛い。茫然とする道端さんの顔がおかしくて、笑いはますます止まらなくなった。
「ふふふ、違う、……違うんです。わたしが好きなのは道端さんじゃありません」
 道端さんはしばらくわたしの様子をじっと観察していたけれど、わたしの言葉の意味が通じると顔を真っ赤にした。
「え……え!? ごめ、俺の勘違い……?」
「いえ、確かにあなたのことは好きですけど……わたしが恋愛的な意味で好きなのは、さっきの……川上響(かわかみ ひびき)さんです」
 キャビネットのところで会ったでしょう、と言うと、道端さんはまた真顔になって少し考えた後、「ええっ!」と大声を出した。
 川上さんはわたしより2つ年下の26歳。小柄で華奢でどこかか弱い風貌なのに、仕事はシャキシャキとこなす明るく元気な女性だ。ショートボブがよく似合う、目元は少し猫っぽい表情豊かな可愛い子。
「わたし、同性を好きになったのって初めてなんです。彼女のこと見てると胸が温かくなって、抱き締めたくなるっていうか……わたしから何かしてあげたいって気持ちになるんです」
 話し始めたら、今まで我慢していたものが溢れ出した。彼女の魅力、彼女への想い。酔いも手伝ってわたしはいつも以上に饒舌だっただろう、道端さんはあんぐりと口を開けて聞いていた。
「……そうだったんだ」
「わたし、もしかしたら道端さんならこんな話も受け止めてくれるんじゃないかって。それでいつかお話しようと思っていたんです。……ごめんなさい、もしかして引きました?」
 道端さんは鷹揚に背もたれに深くかけると、お酒を一口舐めて首を横に振った。
「とんでもない。素晴らしく、羨ましいよ」
「よかった。なんだかごめんなさい、一方的に。……それで、道端さんの言わなきゃいけなかったことって何です?」
 言うと、道端さんは小さく舌を出した。
「仙人が聞いて呆れるな。自分から尻尾を出してしまうなんて」
「もしかして道端さん……道端さんも男性が好きなんですか?」
 噂というほどではないが、飲み会の席でそんな冗談を言う人がいた。道端さんよりもずっと年配の部長で、「いい人いないのか? まさかホモじゃないだろうな」などとからかい文句を言ったのだが、道端さんは違いますよ、と笑ってかわしていた。
 もっとも、その部長は30過ぎの独身者には男女を問わずきまって同じセクハラ発言をしていたから、取り立てて道端さんに向けられたこの言葉を気にする人もいなかったけれど。
 ただ、こうしてプライベートな時間を過ごすことのあるわたしは少しその疑問がよぎったことはある。
 男友達、女友達は出て来るけれど、恋愛の話がなりを潜めているのだ。会社の人達も、モテそうなのにと話題にすることはあっても誰も直接本人に伝えたり聞いたりすることはなく、それゆえにわたしは彼に「仙人」を見ていたのかもしれない。下界の世迷言など自分には関係ないといった風情で、人の話に静かに耳を傾ける。
 道端さんは参ったというように頭をポリポリと掻いて、空になったグラスのおかわりを注文した。
 オーダーのものが届いて口の中を潤すと、
「そうだな、俺も白状しないとフェアじゃないね」
 言って、グラスを置いて居住まいを正した。
「君の予想は近いけど、当たりじゃない」
「どういうことですか?」
「俺はゲイじゃない。俺は女性も男性も恋愛的に、性的に好きにならないんだ。Aセクシャルっていうらしいけど……聞いたことある?」
 わたしは首を横に振った。
 性的嗜好にもいろいろある。性自認も。それはわたしも知識として知っているけれど、誰だってその定められた定義に当てはまるばかりではないだろう。
 わたしだってそうだ。これまでずっと、親しい女友達のみんなと同じように異性の恋人を作りそれなりに過ごし、そしてよくあるような理由で離別した。
 川上さんに出会って初めて女性を好きになったけれど、じゃあ自分がバイかと聞かれて絶対にそうだと言えるほどの確信もないし、今後好きになる人がずっと女性だったらレズビアンなのかと思うと、何だかそれも違和感がある。
 思案しながら話を聞いていると、道端さん自身も同じだと言う。
「子供の頃、みんなが好きな異性の話をするのが不思議だった。別に同性が好きだったわけじゃないけど、どうして同性を好きな子は俺のまわりにはいないんだろうって。俺はどちらにも興味なかったけど、思春期ってヤツになればきっとわかるんだと思ってた。でも……」
 そこで道端さんは困ったような、弱ったような顔をした。
「いつかは来る、これからだ……そう思い続けて、その間に気持ちがなくても付き合った女性もいた。でも俺にはよくわからなかったんだ。性的な嫌悪感があるわけでもない。ただ、多くの人が同性に惹かれる自分を自覚しないのと同じように、俺はどちらにもその自覚が訪れないままこの年になった。……つまり、その……今まで誰とも、経験がない」
 ごめん、変な話をして。道端さんは苦笑する。

 Aセクシャルという言葉は、そんな自分に疑問を抱いてネットで調べて知ったという。
「その定義を読んだ時、涙が出たよ。自分は愛情のない孤独で冷たい人間なんだと思っていた。でも、Aセクシャルはそうじゃない。普通に人に友愛を感じる。人が好きだ。高嶺さんが俺に言ってくれたような気持ちで、俺も高嶺さんのことが好きだよ」
 そう言って微笑む道端さんは可愛かったし、女性としてのわたしは少なからず胸のときめくものもあった。きっと、過去に彼と付き合った女性も彼のこんな素直なところに惹かれたのだろう。
「いろいろな本も読んで、こういう人間もいる、別にそれでいいんだって思えた。思えてたんだけど……」
 道端さんの声のトーンが落ちる。表情が翳って、わたしは首を傾げた。
「実は最近、同性の友達に告白されたんだ。ごめん、それで君の話し方が……その時の彼と同じ調子だったから早とちりしてしまって。本当に恥ずかしいよ、ごめんね」
「いいんです」
 わたしはクスクスと苦笑しながら続きを促した。
「その方って、何度か話に出てきている……?」
「そう、長谷川(はせがわ)ってヤツ。中学からの親友」
 道端さんの話に、長谷川さんはよく登場した。仲間達と行った温泉旅行、飲み会の話。時には2人で出かけた時のこともあったけれど、仲がいいんだな、くらいにわたしは思っていた。
「俺達は中高一貫の男子校だったから、それだけ男が集まれば同性が好きだってヤツも過去に何人かいたよ。でもその時も長谷川は自分のことを打ち明けなかった。まぁ、当然と言えば当然かもしれないけど……俺も疑問を感じながら付き合っていた女性はいたし、あいつもね」
 そうことわりを入れる道端さんの横顔がどこか辛そうで、わたしは俯く。
「長谷川のことは好きだけど、そういう関係になることを想像したことなんてないんだ。恋愛の対象に見られてたってことも、少なからずショックだった。何か、裏切られたような変な気持ちがして……」
 それは少しわかるような気がする。
 わたしも、学生の頃にいい友人だと思っていた男の子に告白されて、彼は悪くないのに何か、わたし達の間にあった関係の絆を傷つけられた気がしていた。
「俺が断ってしまったら、長谷川は傷つくんだろう。友達でいられなくなるのかもしれない。あいつのことは好きだよ。君が俺を好きだと言ってくれたみたいに。でも俺は……その気持ちに応えられる自信がない。あいつを傷つけたり、縁を切りたくないからと中途半端な気持ちで受けても、かえってあいつを苦しませてしまうかもしれないし」
 わたしは酒気を孕んだ息をフ、と吐きながら笑って、なんてことないように軽く、言った。
「いいんじゃないですか、そんなに考えなくても」
「え?」
「少なくともわたしは、同性との恋愛は初心者です。彼女とどうなりたいとか、はっきりしたイメージなんて持ってないですよ。ただ好きで、彼女のことをもっと知りたくて……ただそれだけです、今は」
 今は、という言葉は少し怖がらせてしまっただろうか。道端さんは難しい顔をしていたけれど、「そうかな」と小さく言って頬にえくぼを浮かべた。
「きっと長谷川さんも、道端さんのことを大切にしたい気持ちは同じです。道端さんが断っても、それは大丈夫ですよ。道端さんが繋ぎたいとさえ思えば、2人の関係は終わったりしないんじゃないですか」
 酔客の無責任かもしれないけれど、わたしは川上さんにもそうであって欲しいと思った。
 彼女のことをそんなに知っているわけじゃない。道端さんと長谷川さんのように長い時間を一緒に過ごして信頼関係を築いているわけでもない。
 もし彼女に想いを伝えて彼女が傷ついて、それでわたしを傷つけるのなら仕方のないことだと思う。もちろんフラれるのは怖いけど……想いを伝えることで川上さんのことを、そして何より自分自身のことをもっと知りたい。
「強いんだな、高嶺さんは」
 緊張の解けた道端さんは頬杖をついて関心したように見つめてくるので、わたしは少し照れた。
「そんなことありません。自分のことも他人のことも、世間のこともよくわかっていないだけです。こういうのは身の程知らずというんです」
「身の程知らずか。そうかもしれない」
 道端さんはおかしそうに笑って、少しずついつもの仙人を取り戻していく。
「俺も、考えてみよう」
 今、道端さんの頭の中には長谷川さんの顔が浮かんでいることだろう。
 必ずしも2人の関係が上手くいって欲しいとは、わたしは思わない。わたしは長谷川さんのことは知らないから、道端さんがいつもの道端さんでいられるよう、それだけを願う。
「わたしも頑張ります。川上さんに気持ちが届くかはわからないけど……よかったら応援してください」
 そう言ってわたしはへらりと笑った。
 道端さんの前で見せるわたしの笑った顔なんて、おそらく野辺に咲く雑草にも及ばない。でも道端さんは頬にえくぼを浮かべるとこう言た。
「やっぱり君は、高嶺の花だね」
 高嶺の花――遠くから眺めるのがせいぜい、手を伸ばすことが憚られる憧れの対象。一般的には女性を指して使われる言葉だけれど。
「あなたこそ、そうじゃないですか」
 ポツリと呟いた言葉はグラスの重なる音や店内のジャズ・ミュージックに打ち消されてしまう。
 片想いをしている人間にとって、想い人はみんな高嶺の花だろう。わたしにとっては川上さんが。そして、道端さんに惚れてしまった長谷川さんもまた、すぐ近くにある花に必死の思いで、手を。
 「何か言った?」と聞き返す道端さんに「いいえ」と返しながら、わたしは彼を愛する人にこっそり胸の内でエールを送った。

2019/08/18

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