Long Story|Short Story|Anecdote2つのしみ
お腹が痛い。
雪也(ゆきや)はそう言って保健室へやって来ると、ベッドの中で丸くなった。午後の授業に入るといつも、下腹が痛み出して座っていることもできなくなるという。保険医はいつも心配そうに雪也の顔を覗き込んで、ベッドを使わせてくれた。
何度かそういうことがあって、保険医から雪也の担任である花房(はなぶさ)に報告がなされたのは昨年末のことだ。仮病というわけでもないようだが、あまりに頻度が高い。雪也は模範的な生徒だったが、卒業を間近に控えた今になって湧いたこの問題だけが、花房の頭を悩ませていた。
2月。校庭は初雪で白く染まり、外遊びが好きな生徒達は放課後も残って雪合戦に興じている。
雪を踏み締めて校庭を横切り保健室のドアを開くと、ベッドで休んでいた雪也は窓の外を眺めているところだった。
「お前も本当は外で遊びたいんじゃないのか?」
花房が明るく投げかけると、雪也は苦笑を浮かべ、肩を竦める。花房の軽口に、雪也はよくこんな風に子供らしくない仕草で応じた。
「病院には行ったのか?」
花房はガスストーブに手を翳しながら、雪也に問う。
「行ってません」
「どうして?」
「保険証、父さんが持ってるから」
雪也を横目で見て、花房はベッドの方へ寄った。脇に置いてあった丸椅子に腰掛ける。
元々、雪也は活発なタイプの子供ではなかった。どちらかというと物静かで、図書室で本を読むのを好むような。花房が幼い頃には関わらなかったタイプだ。
それにしても、夏頃から覇気がなく、声に力がない。保健室通いが多くなったのもその頃からだという。夏バテかと思っていたが、季節は巡り、吐く息は白い。
「お父さん、仕事忙しいのか? 話をする時間もない?」
花房は少し声の調子を柔らかくした。
雪也には母親がいない。長い間病に臥せっていたが、雪也が6年生に上がる年にとうとう亡くなった。花房も告別式に顔を出したが、写真を見るにとてもきれいな人だった。雪也は母親似だろう。
そういえばあの日も、こんな雪の日だった。ちょうど、1年が経つ。
「時間はあるけど……聞いてくれない」
雪也は白い顔を伏せ、組み合わせた手をもじもじと遊ばせた。
花房は雪也の父親にも会ったことがある。1度目が告別式の時、2度目は雪也が最終下校時刻まで保健室で眠ってしまった時で、学校まで迎えに来たことがあった。
雪也の父親も、鼻筋の通った凛々しい顔をしていたが、銀縁の眼鏡が冷淡で神経質そうな印象を醸していた。印象の通り愛想がなく、雪也の帰り支度を手伝っていた花房にもつっけんどんな態度をとった。
雪也があの父親と2人きりで暮らしていると思うと、花房は少年に対して同情的な気持ちになる。教室の中でもそう目立たない雪也に、自然と目を配るようになった。
「俺からお父さんに、話をしようか?」
「大丈夫です……自分で話します」
答えながら、雪也は布団から這い出ると、上履きに足を入れた。ランドセルを掴み、重い足取りでドアの方へ向かう。花房は少し考えて、雪也の後を追った。
「雪也、ちゃんと話をしよう。先生、何だって聞いてやるから」
俯く雪也の肩をぎゅっと掴む。少し力が強過ぎたかもしれない。雪也はじっと花房を見つめた後、自分の足元に目を落とし、それからコクリと頷いた。
「よし、じゃあ行こうか」
雪也の薄い背中を押すと、生徒指導室まで彼を連れて行った。
生徒指導室とは文字通り、悪さをした生徒を指導するための部屋だ。職員室の隣に接しており、生徒達はあまり近づかない。模範生だった雪也もこの部屋には縁がなかっただろう。
室内は革張りのソファが2つ、中央に低いテーブルが1つ。花房は雪也をソファへ促すと、ドアを閉めた。
「さて」
花房も雪也の向かいに腰掛けると、膝の上で両手を組み、じっと雪也を見据えた。
「雪也のお父さんのことについて、いくつか聞いていいかな?」
「はい……」
「お父さんは、いつも何時に帰って来るんだ?」
「6時には家にいます。それまでに僕が夕飯を用意して、一緒に食べます」
雪也は家庭科が得意だった。料理は家事の中でも1番好きなのだという。家庭科の教員からそんな話を漏れ聞いて、家事を懸命にこなしてきた結果だと思うと胸が詰まった。家庭科の成績を褒めてやると、雪也は珍しく子供らしい笑みを浮かべて、父さんに美味しいものを食べさせてあげたいから、と言った。
「それなら、夕飯の時に話せるだろう? お腹が痛くなるってこと……」
「話したことはあるんです。でも、給食のせいだって言われて」
確かに、雪也の体調が悪くなるのはいつも午後になってからだ。でも他の生徒達とまったく同じものを食べているし、雪也も毎日美味しそうに完食している。食あたりなどではなさそうなのだが。
花房が不審そうに黙っていると、雪也の方から口を開いた。
「給食のせいじゃありません」
「……先生もそう思うよ」
雪也はチラと花房の顔色を伺うと、は、と短く息を吐いた。妙に大人びた仕草に、花房は雪也を改めて観察する。
雪也は小学6年生男子の平均的な体型をしていたが、その表情にはどこか影があり、ふとした仕草が妙に大人びていることがあった。それが顕著になったのは母親を亡くしてからで、11歳の子供には酷だっただろうと花房は案じた。
母親によく似た雪也の目は、下向きに生えた睫毛がバサバサと長く、全体にほっそりとした印象も相まって、草食動物を思わせる。その長い睫毛を瞬くと、ポツリと言った。
「……家に帰るのが、嫌なんだと思います」
まるで他人事のような言葉に花房は眉を寄せる。雪也は続けた。
「給食を食べて、午後の授業が終わったら、あとは家に帰ってご飯の支度をして……父さんが、帰って来て」
「料理は好きなんじゃなかったのか?」
「好きですよ。他のこと、何も考えなくていいから」
何かを諦めたような空虚な呟きに、花房はきゅっと口を引き結ぶ。この子供は、一体何を――何を抱えているんだ?
心を閉じたままの雪也に困惑しながら、花房も、は、と短い息を吐く。お手上げだった。頭の後ろで手を組み、天井を仰ぐ。どうしたらこの子供は、胸の内を見せてくれるだろう。
ちらと目をやると、雪也は窓の外、まだ降り続ける雪片の舞いを見つめていた。この子供も、昨年のあの日を思い出しているのか。
「花房先生」
不意に名前を呼ばれて、花房は慌てて居住まいを正した。雪也は白い面差しを真っ直ぐに花房に向ける。その表情は何かを訴えているようで、花房は一瞬言葉を失う。
「――何、」
「僕、父さんのことが好きです」
「えっ?」
唐突な言葉を吐きながら、雪也は顔色を変えなかった。しかしその目の縁にはみるみる涙が溜まり、1度瞬きをするとスゥ、と白い頬に一筋の雫が流れた。
「ゆき、」
「だから、言いたくないんです」
「……雪也、お前一体何を――」
「言いたくないんです」
同じ言葉を繰り返すと、雪也はきゅっと目を閉じた。耳を塞ぎ、下唇を噛み締める。
「ふ、ぅッ……」
大人びた雪也の顔は崩れ、くしゃっと苦しげに歪むと、そのまま蹲った。思わず、花房は雪也の元に駆け寄り、その背中を擦る。
「雪也、どうしたんだ。何故泣いてるんだ? 俺、何か言った?」
「父さんのこと、好きなのに……、ぼ、くのからだ……っ、」
雪也はそのまま、声を潜めて泣き崩れた。項垂れた白い項に、小さな紫色の痣が2つ、薄っすらと浮かんでいた。
「雪也、帰るぞ」
ほどなくして雪也を迎えに来た父親は、相変わらずむっつりとした表情で花房を一瞥した。まるで花房が雪也に体罰でも加えたかのようだ。
泣き疲れた様子の雪也は、花房が用意した保冷剤を巻いたタオルを目元に押し当てていたが、父親に名前を呼ばれると立ち上がった。父親はランドセルを腕に、雪也の頭に手を載せる。
「どうも、息子がご迷惑をおかけしました」
「あ、いえ……迷惑は別に、」
「それでは」
「あ、あの、」
そのまま踵を返して帰ろうとする親子を、花房は引き留める。振り向いた雪也の視線は、不安げに揺れた。
「あの……息子さんが、午後になると体調を崩していることは、ご存知ですよね?」
「……ええ、息子から聞いております」
「専門の医師に診てもらってはどうでしょうか。学校給食を疑われているそうですが、他の生徒は雪也君のような症状は出ていません」
言うと、父親は雪也を一睨みした。花房の方を見ていた雪也だったが、気配を感じたのか俯く。
「助言をどうもありがとう。そうします」
口だけなのがありありとわかる返事だった。父親は雪也の白い首筋を掴むと、部屋を出て行く。
花房は職員室の窓から、ぼんやりと浮かび上がる校庭を見下ろした。親子の影が、その真っ白なキャンバスを斜めに切り裂いて行く。
あの告別式の日も。雪の中、この世に取り残された親子の影を遠くから見ていた。あの日、泣き崩れていたのは父親の方だったけれど。男は雪の中膝をつき、立ち尽くす少年の腕を掴んで泣いていた。わたしを置いて行かないでくれ、1人にしないでくれ――声を聞いたわけではなかったが、花房の目にはそんな風に見えた。
そして想像する。亡くした妻の影を幼い息子の目元に認め、その身体に手を伸ばす哀れな男を。……想像する。実の父親に無理矢理身体を開かれながら、心を軋ませ、父親を受け入れられない自分に苦しむ哀れな少年を。
白い雪の中に滲む2つのしみを見下ろしながら、花房は口の中で呟く。
――雪也、どうして。
雪也は立ち止まり、花房を見上げた。花房が片手を凍える窓に押し当てると、雪也が苦笑を浮かべ、肩を竦めた、気がした。
2016/09/19
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