Long StoryShort StoryAnecdote

呪縛🆕


「近々、郷里に帰ろうと思っているんだ」
 昼飯に訪れた蕎麦屋。親友の口から突然こぼれた言葉に、僕は絶句した。
「──何故、」
「物書きを志して頑張ってきたけれど、これから先、とても芽が出ると思われない」
 青白い顔を俯けて、覇気のない声を紡ぐ正一(しょういち)には、出会った頃の明朗さはない。
 正一とは東京に出て来てから知り合った。互いに齢は17、それから2年の間、僕達はそれぞれ書生として住み込みで暮らしており、正一は光永(みつなが)氏という大学の先生のうちで世話になっている。
 光永氏は文筆家でもある。理系学生の僕は知らなかったが、片田舎の正一の故郷でもその名を知られるほどの人らしく、正一は光永氏に師事するために上京して来たと言っても過言ではないくらいだ。
 幼い頃から小説を執筆していた正一は、照れ臭そうにしながらも自作品の何遍かを僕に読ませてくれた。作品は正一の私的なこと、郷里の家族との思い出や東京に来てから身のまわりで起きたことなどを題材に記されていたが、彼が俗世に向ける目線はいつも温かく、筆者の柔和で子犬のような相貌とも相まって、どこか微笑ましい趣きがあった。
 しかし、このところ筆が進んでいないようだ。気分転換に散歩でもしようと何度か声をかけたが、とうとう光永氏の家から出なくなった。さすがに見かねて半ば無理矢理にこうして連れ出して来てみたが、顔を合わせたそばから異変は明白、蕎麦を頼んでからも手をつける様子がなく、食はすっかり細くなっている。
 僕が気を揉んであれこれと詮索をすると、正一は上目遣いにじっと僕を見つめ、
「君はいつか僕に期待していると言ってくれたけれど、もうとてもやっていかれない」
 そう言って、がくりと首を垂れてしまう。僕は弱り、彼の丸めた肩を見る。正一は元来痩せていたけれどいつもしゃんと背を伸ばし、もっと生き生きとしていたのだが、少し見ない間に顔は青白くやつれ、身体は以前より薄くなったように見えた。
「君らしくもない、何があったんだ。光永先生とは変わらず親しんでいるんだろう」
 僕が彼の師の名前を出すと、正一は身を強張らせ、ぎゅっと拳を握る。
「僕は……光永先生といると、人でなくなるようだ」
「──正一、」
 今にも泣き出しそうな正一の顔を見た僕は、思わず彼の右手を掴んでいた。正一は万年筆のインクで手が汚れるからと、いつも右手にだけ指抜きの手袋をしていた。よく見ると、手袋で隠れた手首のところに包帯がきつく巻かれているのが見える。
「……その手は、」
「何でもない」
 僕の手を大袈裟に振り払った正一は、その勢いで立ち上がる。見ると、その顔は紙のように白い。骨ばった手を懐に突っ込むと、正一は昼飯分の銭を取り出して叩きつけるように卓に置く。温厚な彼にあるまじき振る舞いに気圧されながら、
「多いよ。だいいち、手をつけていないじゃないか」
 固くなってしまってるのが傍目にも明らかな蕎麦に目配せする。正一は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……すまない。釣りは君の好きな本を買う足しにでもしてくれ」
 そう言って疲れた微笑を浮かべると、正一は薄着のまま寒空の下へ出て行った。

 正一の師、光永氏とは一体どんな人物なのだろう。あれだけ慕っていたというのに、「人でなくなる」とは穏やかではない。
 著作も読んだことのない僕は、裏神保町に足を向けると馴染みの書房で光永何某という作家の本を探した。果たしてそこに目当ての本はあった。
 手に取って中を見ると人情味溢れる温かな目線の文章、ともすると喜劇的でさえある私小説だった。そこには正一の作風に影響を与えたであろうところもあり、なるほど彼が光永氏を敬愛しているというのも頷ける。
 僕はもう少し厳粛な題材を好むが……と、隣にあった作家の本に手を掛ける。作者は闇野(やみの)何某とある。名前順でもあるまい、光と闇を並べるなど悪戯な客の仕業だろうかと思ったが、目次を見て闇を好んだ僕は冷やかし半分にそちらを手にして会計に向かった。
「あんた、こういうのも読むのかね」
 斜視の強い老店主は僕とはすでに顔馴染みである。店主はそう言うと、僕の背後をぎゅっと睨むような遠い目をした。感情の読み取りづらいその顔を睥睨し、僕は首を傾げながらも「文句があるか」と金を払った。

 下宿している家へ帰ると、僕は颯爽と本を開いた。
 偶然手にした闇野の小説は短編集で、目次には「生贄」だの「惨禍」だのといった穏やかならざる語句が並ぶ。しかしその文章は僕らの暮らす東京の街並みを語彙も豊かに活写していて、題名のおどろおどろしさはまったくもって似つかわしくない。光永氏の書く文章にも通ずる陽気ささえ見せるくだりもあるくらいだ。
 まるで自分もその場にいるかのような臨場感溢れる筆致に舌を巻いていると、物語の展開はふと思わぬ方向に転がっていく。
 主人公の男は、少年を飼いはじめる。飼う、というのは、書生や下男のような意味ではない。犬のように躾をし、飼い慣らしているのだ。僕は自分が読み違えたのではないかと半信半疑に頁を戻ったが、どうも誤読ではない。その急展開の異様さ、巧みさに息を飲み、頁を繰る手を止められない。
 それまで何の変哲もない生活を送っていた12、3の少年は、主人公の男に囚われ監禁生活を送る羽目になる。男は少年を着物の上から赤い縄で縛り、その姿を視姦する。幾日もするととうとう緊縛した少年に口淫を強いた。
 そこまで読んで、僕は慌てて本を閉じた。とんでもない内容だ。男同士の鬼畜的な情交を克明に描き出した官能小説ではないか。少なくとも僕がふだん嗜好するものではない。その日はそれで終いにしたが、学業をしていても風呂に入っていても、頭に思い描いた緊縛少年の姿はなかなか僕の脳裡を去らなかった。
 翌日、好奇心に負けて本の続きを開くと、僕はまたその世界に没入してしまう。
 少年は縛られたまま食事を与えられ、下の履き物を崩されると排泄すらもその姿で強いられる。少年は泣き喚くが、事態はどんどん抜き差しならぬ沼に陥っていく。題名は──「泥濘(ぬかるみ)」。
 肌を這う舌の熱さに震えながら少年は泣き喘ぐが、亀の甲羅の紋様に縛りあげられ抵抗の余地はない。
『堪忍してください、堪忍。』
 叫び、行為を止めようと少年は首を打ち振るえども男は聞かない。自由の利かなくなった華奢な身体を組み敷き細腰を引き上げると、男はついに少年の肛門に自身の怒張した陰茎を突き挿れた。
 理不尽な展開でありながらあまりに写実的な描写、少年の哀れな悶絶ぶりには同情と同時に不思議と嗜虐心もくすぐられることに、僕はごくりと生唾を飲む。
 凌辱は毎日のように繰り返され、次第に少年自身もこの行為に快楽を覚えはじめた。縄が擦れて血が滲むほどの激しい拒絶をしていたというのに、狂気的な調教を施されるうちに少年の肉体は淫靡に作り変えられていってしまったのだ。
 少年が味わう感覚まで体感させられているような生々しい文章は、今度は自分が少年になり代わりたいような劣情にまで苛まれる。少年は男の上で自ら腰を捩り、悩ましげな表情で男からの肉体的、精神的征服を強請る。飼い犬が頭を擦りつける様子を嗤うと、男は少年の腹の中で射精した。
「うぅ……っ!」
 僕は自分の汚れた手を見て、虚しさに放心する。闇野の描く官能には、僕に自涜をさせるだけの力があった。

 また闇野の書籍を求めてひそりと訊ねる僕に対して、くだんの書店主は何も言わなかった。僕も遠慮なく筆者について訊ねると、闇野は覆面作家であり、文壇においては物議を醸して存在を黙殺されていること、そうでありながら細々と出版はされ続け、一部に熱狂的な愛好者を生んでいることを教えてくれた。
 僕はそのうちの何冊かを入手するとすぐに読んだが、いずれも少年や青年達が緊縛され強姦されながらも、やがて快楽に負けていく話だった。
 本を読むうちにいくつもの縄の縛り方があることも学んだ。胡座縛りや屈脚縛り、開脚縛りなどは文字通りの格好だが、屈脚固定縛りと屈腕固定縛りを組み合わせれば完全に身動きの取れない達磨縛りとなる。身体が縛られた状態で宙釣りになるものまであり、文章ながらその手技の巧みさの妙には感心してしまう。
 緊縛は被拘束者に対し、逃れられぬ恐怖と秘部を隠せない恥辱を味わわせる。縄のしなる音、若い肌につけられる擦過傷、追い詰められていく青少年の怯えた表情や抵抗の身動ぎ、戸惑う心とは裏腹に浅ましい性感によって昂っていく肉体──それを読者が体験したかのように読ませる表現力こそが闇野小説の真骨頂と言えた。獲物達は絶望しながらも、与えられる情欲に飲みこまれていく……。

 最後に手に入れたのは、まだ最近出版されたばかりの「呪縛」という題名の本だった。
 僕は数頁読み進めて、手を止める。奇妙な違和感に襲われたからだ。いや、違和感と言うのもおかしい。むしろ僕が感じたのは親近感とでも言おうか、この登場人物を知っている、という感覚だ。
 主人公は文筆家で、東京で教鞭をとっている。そこに小説家を目指して田舎から出てきたばかりの若者が、書生として住みつくようになる。痩せて小柄な青年の風貌は男の庇護欲を誘うが、将来の夢に溌剌と輝く瞳を見守るうちに、自分だけを見つめさせたいという支配欲も燃え上がらせていく。
 僕は胸がざわりとした。この青年の様子が、まるきり正一と重なるからだ。挿絵などもないというのに、目元や鼻筋、唇の形や首筋のほくろにいたるまで、ひとつひとつの描写がまるであてがきをしたかのように正一の姿を描き出し、僕の頭の中には彼の人好きのする顔が思い起こされた。
 ここまではいい。しかし僕は、闇野小説がそうした少年や青年達にどんな仕打ちをするかよくよく知っているのだ。僕は堪らず再び本を閉じた。正一が惨い凌辱に遭うところを、とても読む気にはなれない。
 いや、青年は正一ではない。もちろん作中での名前も違う。僕は部屋の中をぐるぐると歩きまわりながら、再び腰を落ち着けると本を開いた。
 文章はこれまで読んだどの作品よりも導入部が入念だった。青年の愛らしい仕草や表情、心の機微まで鮮やかに描き、実際に身近にいる存在のように読者の脳裡に刷り込んでいく。僕は必死に正一とは別の人間を思い浮かべようと腐心したが、結局は徒労に終わった。
 僕は正一が好きだった。愛していたのだ。
 光永の作品ではなく闇野という作家に惹かれてしまったのも、必然だったのかもしれない。ただ、正一の夢が叶うことだけを願っていたのは嘘偽りなく本当だ。無論、僕は正一に手酷いことをしたいなどと思ったこともない。しかし──同性の叶わぬ想いを密かに苦しみ、呪ってもいた。
 闇野の描く青年の活写は、まさに僕が見つめてきた正一の一挙手一投足を詳らかに描き、何度も僕の頬を綻ばせ、時に自分の切ない恋慕の眼差しを客観的に見せつけられているようでもあり、頬が熱くなった。作中には青年の友人というのも登場し、それと親しむ様子は正一と僕の和やかな日々のように思われた。僕はしばしば面映い気持ちになり、本の趣向を忘れる。
 しかしやはり例に漏れず、その場面はやってきた。
 自身の才能の限界を憂えた青年は、夢を諦めて故郷に帰ると文筆家の男に告げる。突然の別離の気配に焦った男は、背中を向けた青年の手を取った。青年は不思議そうに振り返るが、そのまま畳に押し倒される。まだ状況の飲み込めない青年は動揺し抗えず、困惑の表情を浮かべながら後ろ手に縛られてしまう。正一の恐怖に引き攣る顔が想像され、僕は手に汗を握る。
 青年を着物の上から縄で縛り上げる男の手腕は手際がよく、頭の後ろで屈腕固定縛りにした。青年は乱れた衣服に縄を食い込ませた姿で床に転がる。
『先生、何を。』
 混乱している青年の胸元を、男の手が開く。上擦った悲鳴を発する青年に構わず、男は縄に縛られたままの着物を剥き、乳首や股間といった箇所だけを晒すように暴いていく。屈脚で固められた足はM字に開かされたまま動かせず、性器までもが無防備に晒されているのを隠すこともできない。青年は震えながら細い声で叫ぶが、衣服の乱れのために縄の拘束感が増すと、情緒不安から過呼吸を起こした。喘ぐ青年の頭を掴んだ男はその唇に舌を捩じ込む。さんざん舐ると、青年の呼吸はいくらか落ち着き、目は虚ろになった。
『お前には小説の書き方よりも、好いことを教えてやろう』
 男は青年が手にしていた万年筆を取ると、そのキャップの先を使って青年の後孔を責めた。
『嫌、嫌だ。』
 これには僕も顔を赤くして憤った。正一と揃いで買った万年筆のことを思い出していたのだ。この不幸な一致に、僕は肩を震わせる。
『やめてください先生、先生。』
 泣き縋る青年を無視して、男は着物をペーパーナイフで裂き、いよいよ青年を裸にしていく。その間も乳首をしゃぶり、突き入れた万年筆を抜き挿しして青年を鳴かせた。
『どうしてです、どうしてこんなことを。』
『お前のその目、希望に輝くその目が堪らない。』
 青年の問いに男が答えることはない。青年の顔の上に跨ると自分の性器を取り出し、涙と汗と唾液に塗れた青年の眼前につきつけた。
 僕は正一が男のものを食む姿を想像して、ぐ、と奥歯を噛んだ。読者である僕は、傍観者であり、青年であり、男でもあった。自身の肉棒が青年の口腔内に飲み込まれ、熱い粘膜に揉まれる描写に下半身が熱くなる。
『ああ、好いぞ。熱くて気持ちが好い。お前は文筆よりもこちらの才能の方があるみたいだ。』
 男は青年の頬を撫でながら、やがてその頭を掴むと青年の唇や喉奥を道具のように使って己の性器を扱きたてた。青年は声を発することもできずに鼻を鳴らしてその時間を耐えるしかない。男が口腔内で果てると、青年は涙を流しながら激しく咽せた。
『ここにはもっと好いものをやろう。』
 言って、男は万年筆を引き抜いた。青年は身を強張らせる。
『嫌だ、それだけは後生ですから、先生。嫌だ、あっ、あっ。』
 器用に縛られた両脚は菊門を晒し、男の侵入を容易にした。万年筆とは比べ物にならない太く、長く、熱いものが青年の直腸を押し広げていく。
 僕は、まるで自分が青年──正一を犯しているかのように錯覚するほどの精緻な肉感の描写に、顔を赤らめるやら青褪めるやら複雑な相合をしつつも、次の頁を急く指先に興奮を隠しきれない。
 青年の台詞は以降数頁にわたり「号泣」、「絶叫」、「啜り泣き」といった描写ばかりとなり、男が青年の肉体から得る快感を主として描かれていく。青年の直腸の熱さやきつい締めつけ、触れる肌の汗ばんだ質感、突き上げる度にあがる悲しげな喘ぎがさらに男を昂らせ、腰の動きは速度を増していく。それに伴い青年の声も高くなっていく描写に、青年の絶頂が近いことを男──すなわち読者は察する。男が感度の高さを嘲りながら突き上げを緩めずに責め立てると、やがて青年は悲痛な嬌声とともに下半身を震わせた。男の凌辱で達したのだ。
『どうして、どうしてなのです、先生。』
『痛みも、苦痛も、恥ずかしさも、快楽も、お前の言葉で表現するには経験せねばならない。お前はこの経験を文筆に活かせばいい。どうだ、どう表現する。』
 拷問は終わらない。今度は青年の視点となり、固められた身体を反転させられると後ろから貫かれる。
 青年は犯されながら、この数年を回想する。夢を抱いて東京に出てきたこと、新たな友人と出会い、憧れの作家の下で学べることに充実した日々。その鮮やかな記録は、僕と正一の輝かしい青春と重なった。そして青年が過酷な現実に引き戻され男に身体と心を蹂躙されるのは、僕の恋が踏み躙られるのと同じだった。
「正一……、正一……っ!」
 僕は小さく呟きながら、忙しく頁を繰る。
 後ろからの突き上げでさらに奥を突かれた青年は、泣き叫びながらも再び絶頂する。緊縛で背中を反らすことができないため、達したまま突き上げの衝撃を逃すこともできない。もどかしげに震える下肢を、男はなおもいたぶる。
『お願いです、もうやめてください、先生、先生。嫌、嫌だ。』
 「涙に鼻を詰まらせた舌足らずな声」と表現されたその台詞は、正一の声ではどう再現されるのだろう。
『もう駄目、許して。』
 「切なげに眉を寄せ、言葉を切ると唇を噛む」正一の想像に、僕の胸は苦しくて張り裂けそうになる。「壊れてしまう」──そう記される青年の心の声は真に迫っていて、数日前に会った憔悴した正一の青い顔を彷彿とした。
『まだ、まだ、これからだろう。』
 男は青年の腰を引き上げ、自分の上に座らせると下から突き上げる。青年の悲鳴は再び高くなるが、先までとは違う響きが混ざっている。
『どうした、甘えたような声を出して。ここが好きか。』
『違う、違う。嫌だ、嫌なのに。』
 青年はかぶりを振るが、抗えない快楽との戦いに敗れようとしていた。そこに追い打ちをかけるような激しい突き上げ。絶叫と嗚咽。
『駄目、もう駄目、壊れる、壊れてしまう。』
『いいぞ、壊れろ。脳の髄までぶち壊してやる。』
 その後も男は青年を好き放題にいたぶり、意識を失うほどの淫虐を施す。あまりに壮絶な内容に、僕は涙を流していた。惨い、あまりに惨い。鬼畜の所業とはこのことだろう。
 だが青年はそれでも、心だけは屈しなかった。肉体を玩弄されても必死に男を拒絶し続ける青年は、これまでの闇野作品の快楽の囚人達とは違う。しかし皮肉なことに、青年の心が清廉であればあるほど男の嗜虐心と征服欲は燃え上がり、さらに手酷い仕打ちを青年に強いるのだ。
『諦めろ。お前の身体も、魂ごとわたしのもとに縛りつけてやる。わたしを受け入れろ。』
『嫌、嫌だ、人でなくなる。』
 僕ははっとした。それは確かに、正一が口にした言葉だった。
 ──光永先生といると、……人でなくなるようだ。
 ひやり、ぞくりとする。
 ……もしかするとこの物語は、光永が闇野という覆面作家の筆名で書いた実録小説なのではないか? 光永と正一の境遇にあまりに合致し過ぎている。書房で並べられていたことにも意図があるのかもしれない。数日前に会った正一の様子も、こうした出来事があったとすれば合点がいく。それに「人でなくなる」という言葉……正一の手首の包帯は、縄で擦れた傷を隠すためのものではないだろうか?
 僕は結末を待たずに本を投げ出し、裏神保町へと駆け出していた。

「光永と闇野の本が並べられていた意味がわかったんだ」
 僕は息を切らせながらそう言うと、斜視の店主に詰め寄るようにして言った。
「どんな意味だい」
 店主はいつものごとく我関せずといった風情で、僕の興奮など見えていないとでもいうように、処分するであろう古紙を硬く縛り上げている。その手指は老齢のために骨が目立ち、殊に右手の人差し指の関節は節くれ立っていた。正一の努力を物語る、か細い人差し指のペンだこが思い起こされた。
「闇野は光永のもうひとつの筆名だ。官能小説を別の名で書いている」
 店主が顔を上げる。左目はそっぽを向いていたが、ぎょろりとした右目だけが、はじめて僕を射抜くように見た。
「誰がそんなことを言ったんだい」
「僕だけが真実に気づいた。だから、光永の家を教えてくれ。俺の大切な人を救わなければ」
 一刻を争う。僕は光永の家が神田界隈にあるとは聞いていたが、番地は把握していなかった。正一とは連れ立ってこの店に何度か来ているが、その時の口ぶりでは店主は光永の家を知っていた。僕は真剣に言い募った。
 店主はそんな僕の勢いには飲まれず、僕ではないものを見つめる目で、言う。
「現実ではない物語に縛られてはいけないよ。それは時に、呪いになる」
 僕は「呪縛」という本の題名を思い出し、とんだ皮肉だと心の中で嗤う。
「わかっている。だから、僕がその呪いを解く」

 書房から光永の家までは、走れば半刻もかからなかった。立派な門扉のある、手入れの行き届いた生垣の整正たる家屋で、表札には妻と思しき人の名も連ねられている。こういう人がありながら正一に穢らわしい手を伸ばしたのかと思うと、僕の怒りにさらに火がくべられる。
 僕は勇ましく門扉を開けると、硝子戸を乱暴に叩いた。
「光永先生、いるんでしょう! 話があります!」
 僕は自分の名を名乗りながら、バンバンと硝子を叩き声かけを続ける。しばらく返答はなかったが、しばらくして磨り硝子の向こうに人影らしきものが見えた。錠前をガチャリと回す音が聞こえ、訝しげな顔をした男が顔を表した。
「……あなたが光永先生ですか?」
「そうだが。妻は出ているので茶は出せんよ」
 いかにも面倒臭そうに男が言う。細面な顔は美男子と言っていいかもしれない。年齢にしても、自分とそう変わらないように見えるほど若々しい。「呪縛」には男の文筆家の容姿の描写はなかったが、鬼畜の所業からはもっと醜悪な、肥え太った中年男を想像していた。しかし僕はその印象に欺かれまいと背筋を伸ばす。
「正一はどこです」
「ああ、君は正一の友人かな。よく話を聞いていたよ。あの子なら、突然郷里に帰ると言い出して、今日の昼過ぎにここを出て行った。君のところにも挨拶に向かったと思うが、すれ違いかね」
 光永は言う。「あの子」という言い草が、いかにも正一を玩弄しているように、自分の所有物かのように感ぜられ、僕は腑が煮え繰り返った。
「あんたが……正一に何をしたのか、僕は知っている」
「……何?」
「お前が正一に強いていた関係のことだ」
 光永の顔色が明らかに変わる。唇を戦慄かせ、切れ長な目を見開いて僕を睨みつけた。
「あいつ……口を滑らせたのか、」
 その反応はこの男が、正一にしたことを自白したも同然だった。
「よくも正一を……正一の夢を、お前の欲望のために汚しやがったな!!」
 僕は土足のまま上り框に上がるや光永に踊りかかり、廊下に引き倒す。女中や何かがいたら光永の叫びを聞きつけたかもしれないが、幸運にも家には光永しかいないようだ。
「何を言う、わたしはただ正一に教えてやろうとしただけだ」
「うるさい、この下衆めッ!!」
 僕は一心不乱に光永に馬乗りになると、その胸倉を掴んで上体を引き起こし、右拳でガツガツと光永の鼻柱や頬を強く打つ。光永はたちまち鼻血を噴き、歯を折って左半顔を真っ赤に染めた。瞼を切ると細めた目で必死に僕を睨むが、美男子が崩れていい気味だ。
「や、やめろ! わかった、わかった……! 彼にはきちんと謝る、金も払う! だから命だけは……」
「金だと? ふざけるなッ!! 正一を貶める気か!?」
 まるで正一が金で身体を売ったかのような言い草に、僕は今度は光永の右頬を打ち据える。
「ひぃ、や、やめろッ!! しかし……事実を公表すれば正一だって困るだろうに」
 さすが鬼畜狂人は考えることが尋常ではない。事実を公表しようものなら正一の人生はおしまいだ。公表だなんてとんでもない。
 偽名の、それほど認知のされていない筆名での発表とはいえ、あの本が出版されただけで正一がどれだけ心臓の潰れるような思いをしたことだろう。もっとも、正一があの本の出版を知っているかはわからないが、知らないでいてくれと僕は祈った。
「貴様、どこまでも心根の腐った人間のようだ。僕とてここまではしたくなかったが、貴様は死なずばその魂は浄化されんだろう。正一をこれ以上苦しませるわけにはいかない」
 僕はガタガタと身体を震わせている光永を見下ろしながら、自身の懐中に手を入れる。そこから取り出したのは正一と揃いで買った万年筆だ。それぞれにイニシアルが刻印された、その時の僕らにしてみれば高級な品。僕にとっての宝物。
 僕は荒く呼吸をあげながらキャップに噛みつくと、唾を吐くようにしてそれを床に放った。赤紫に腫れあがった光永の顔を掴むと、ぐっと上から押さえつける。
「や、めろ……助けて、くれ……っ、」
 掠れた声で言う光永に不敵に笑いかけると、僕はその首筋めがけてペンを突き刺した。それは頸動脈に穴を開け、引き抜くと同時に勢いよく鮮血が噴き出す。口からもゴボゴボと吐血しはじめた光永の苦悶の顔を見つめながら、僕はその首筋を万年筆で連続して突いた。
 しばらく呻いていた光永が静かになってもしばらくそれを続け、開け放されていた背後の硝子戸から女の悲鳴を聞くまでそこに蹲っていた。振り返ると、そこには買い物籠を取り落とした女中と光永の細君と思しき女が、前者は立ち尽くし、後者はその場にへたり込んでいた。
 間もなくしてやって来た警察官に、僕はさしたる抵抗はしなかった。目的は果たされたのだ。手首に太い縄をかけられながら、僕は曇った空を見上げる。
 正一、君の才能は僕の自慢だった。君が今、すべての柵(しがらみ)から解き放たれていることを願う。

* * *

「どうして、こんな……」
 正一は顔面蒼白になりながら、新聞を握った手を震わせる。
 新聞の一面には「東京震撼・光永氏、自宅にて惨殺される」との見出しが大きく書かれており、ある青年が光永氏を刺殺した旨が書き記されていた。




 遺体は激しい殴打などの暴行を受けた形跡があったが、直接の死因は首の裂傷からの失血死と見られる。凶器は現場にあった犯人のものと思しきイニシアルの入った万年筆で、その凄まじい現場の様子からは、犯人が光永氏に対して強い憎しみを抱いていたことが窺えると警察関係者は言う。
 しかしながら、青年が犯行に至った動機については明らかになっていない。犯人は、「闇を葬らなければ」とだけ供述しているようだ。警察は精神鑑定をおこなうと発表している。




「どうして、こんなことを……どうして、」
 正一はその場にがくんと膝をついた。
 犯行があった時刻は、正一がここ──遠く離れた故郷へと東京を発った日だ。親友にも顔を合わせてから帰ろうと思っていたが下宿先に彼はおらず、出立の日を送れば決心が鈍ると、後ろ髪を引かれながらも振り切って列車に乗った。
「もしかして、……君は、気づいていたのか?」
 光永のもとにいる間、正一は苦しんでいたが、その真実は誰にも話せなかった。大切な友人にさえも言えなかった秘密──それは、光永の代作者をさせられていたことだ。
 光永は、正一に課題と称して小説を書かせたがその内容を盗作し、完全なる自作として文壇に発表した。正一は当然意義を唱えたが、こんなことはみんなやっている、文筆家のもとに暮らす書生なら当然のことだと説き伏せられてしまった。断りきれず何作か書いたが、いつまで経っても正一の名前で発表することは許されなかった。
 口封じのためにか、資料集めの駄賃というていで多くの金は支払われた。生活費や学費としてはそれが助けになる現実に、正一も拒みきれない。複雑な思いに駆られながらも書き続け、腱鞘炎を起こしては包帯で手首をきつく固定してまで執筆に励んだ。
 でも、こんなことを続ければ本当に、人でなしになる──そう思った正一は、誰にも理由を言わずに郷里に帰ったのだった。
 光永のことは確かに憎らしかった。けれど、実際に世話になったことも、正一がかつて真剣に彼の執筆した作品を愛していたことも本当なのだ。それに、光永の取引を突っぱねられなかった自身の情けなさも悔いている。こんな後ろ暗さを抱えては、とても小説家は志せないだろうと、筆を折る覚悟だった。
 自責の念は別にしても、正一は光永が殺されても当然とはとても思えなかった。それも、親友の手によってなど。
「気づいていたとして、どうして君が光永先生を……」
 正一の震える手には、万年筆が握られている。上京した時に親友と揃いで買った、イニシアルが刻印された一品だ。犯行現場に残されていたという万年筆の写真にかの親友のイニシアルを認め、正一にはそれが彼のものだとすぐにわかった。
「……君だけは、僕の才能を信じてくれていた」
 正一は万年筆を両手で検めると窓辺の光に翳す。陽光を受けたペン先が艶やかに光る。
 窓外の雲ひとつない故郷の空は、正一の心の澱を晴らし、夢の初心を思い出させてくれるかのようだった。光永が正一との秘密を抱えたままいなくなった今、正一を脅かす者はもういない。
 呪縛から解き放たれた正一は涙を拭うと、文机の前に正座する。深呼吸をひとつして、真剣な顔で真っ白な原稿用紙にペンを走らせた。

2023/02/21

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