Long StoryShort StoryAnecdote

マイ・フレンド・マイ・ヒーロー


 手を洗う。持参の石鹸をつけ、指の間を、爪先は反対の手の平に擦り付けるように。手の甲、手首……本当なら全身水に浸かりたい。その願望を打ち消して、流水で泡を洗い流す。蛇口を捻り、手の水気を拭いたら、最後に素手で触った蛇口を別の清潔なタオルで丁寧に拭う。
 トイレから出ると、壁に凭れていた草太が歩み寄って来た。
「桜斗(さくと)、大丈夫?」
「うん、待たせてごめん」
「それはいいけど。調子悪いのか?」
「平気。まだちょっと、慣れてないだけだから」
「そっか」
 草太(そうた)の気遣うような微笑みに、居た堪れない気持ちになる。自分は上手く笑えているだろうか。
 ずっとつけていたマスクと手袋をやめた。梅雨の時期になってもその格好では悪目立ちする、と草太に指摘されたのだ。桜斗自身、自分を見る好奇の目には気付いていたから素直に従った。
「あまり無理するなよ。帰るんなら、送って行くよ」
「大丈夫。そこまで面倒掛けられないよ」
「俺は別に……」
「草太、心配し過ぎだって。それに、教習所に行くって言ってただろ。ほら、大丈夫だから」
「……わかったよ。じゃあな、」
 草太は少しむくれたような顔をして桜斗に背を向けた。
 いつまでも寄り掛かっていてはいけない。草太の胸に縋りそうになる自分を叱咤して、桜斗は駅へ向かった。

 満員電車は苦手だ。どうしたって他人と密着しなければいけない。
 帰り道では手袋をしているから、吊り革や手摺りに触れるのは気にならなかったが、自分の体臭が気になる。桜斗は3年ほど前から、自臭症に悩まされていた。
 自分の身体が汚い、臭いと感じる。実際に異臭がするわけではないのに、その思い込みが拭えない。
 電車が駅に停車しすると、反対側のドアから人が流れ出ていく。背中が空いたのを感じてほっとしたのも束の間、乗客が雪崩れ込み、桜斗はドアに押し付けられた。
「痛っ……」
 手が変な方向に曲がったまま、人の荷物の下に挟まれてしまった。しばらく身動きが取れそうにない。諦めの溜め息をつくと、背中を撫でられた気がした。
 ぞ、と悪寒が走る。
 身体が圧迫された状態で動けない。ガラスの映り込みを睨んだが、背後の客は背が高いのか顎から下しか見えなかった。
 大丈夫、大丈夫……気のせいだ。言い聞かせるように唱えて目を閉じる。心臓の音がうるさい。
「……今日はマスクしてないんだね」
 耳元で囁かれて、息が止まった。
「前から君のこと気になってたんだ。マスクの下も……」
 可愛いね、と囁かれ、桜斗はまた過去のあの日に引きずり込まれる。
『可愛い、可愛いよ桜斗……、』
 嫌な汗が止まらない。身動ぎもできない桜斗の腰に、硬くて熱いものが押し付けられる。
「震えてるの?」
「……は、……っ、」
 息も上手く吸えなかった。人混みに紛れ、男の手が桜斗のシャツの中に潜り込むと、直に脇腹に触れられ全身に鳥肌が立つ。
『ここ、人に触られるのは初めてか? 先生が桜斗の初めて、全部もらうよ』
 桜斗は額をドアに擦り付ける。
 嫌だ、あんなこと、もう2度と――膝の力が抜けそうになって、後ろの男に支えられる。
「この子、体調が悪いようだ。次の駅で降ろしてもらおう」
 他の乗客に聞こえるように男が言っているのが聞こえる。近くの乗客が僅かに空間を作ってくれたために、荷物に挟まれていた手も自由になったが、手の平をドアに押し当てるのが精一杯だった。
 その間も男は介抱するふりをして、桜斗の腰や太腿に手を這わせてきた。
「もしかして君も興奮してる?首筋までピンク色になってるよ」
『桜斗、もっとその可愛いピンク色の顔見せてくれよ。俺のチンポずっぽり咥え込んで、ヒィヒィ悦んでる顔をさ……ッ』
「ひ、……はっ、」
 こういう相手に涙目で訴えても逆効果だということは身を持って知っている。それでも、桜斗の瞳は息苦しさに潤んだ。
「もうすぐ着くけど、それまで可愛がってあげるね」
 潜めた声で言うと、男は股間の膨らみを桜斗の尻に擦り付けてきた。電車の揺れに乗じて、時折腰を突き込むように強く。あの、おぞましい感触が蘇る。
『桜斗の中に入ってるの、わかるか?』
「……、せん、せ……っ」
 桜斗の意識は今や完全に3年前の音楽室にあった。どんなに泣いても叫んでも、誰にも届かない声。あの時の体臭、熱い息、生臭い精液の匂いがこびりついて、いつまでも、どんなに洗っても消えてくれない。
 桜斗の手袋の中に汗ばんだ男の指が滑り込み、手の甲をなぞる。
 叫び出したいのに声も出ない桜斗は、男に肩を抱かれながら停車したホームに降りた。
「歩ける? 俺の家この近くだから、休んで行こうか」
 凭れかかったまま男のなすがまま連れて行かれそうになるも、桜斗は抵抗できなかった。縺れる足を見下ろし、ふらふらと歩く。男の手は桜斗を支えながらも腰を撫でさすり、この先何をされるかは想像がつく。
 誰か、助けて、誰か――。
 真っ黒なアスファルトを絶望的な気持ちで見つめていた桜斗は、その足下に見慣れたスニーカーを見て虚ろな目を上げた。
「……草太、」
 目の前には、さっき別れたはずの草太が立っていた。鋭い目で、男を見据えている。
「その薄汚い手、離してもらえます?」
「な、何だ君は、失礼だな! 俺はただ、この子が具合悪そうにしてたから介抱して、」
「股間擦り付けて、身体撫で回すのが介抱?」
 鼻で笑う草太に、男がぐっと言葉を飲み込む。桜斗も自分がされていたことを思い出して、気分が悪くなった。
「俺の友達だ。もうあんたの手は要らないよ。……桜斗、」
 草太が歩み寄ると、男は舌打ちしながらもあっさり手を引いた。荒れた様子で遠ざかっていくのを見送りながら、桜斗は安堵のあまり脱力して、その場にしゃがみ込んだ。
「桜斗、大丈夫? ごめん、俺も動けなくて……助けるのが遅れた」
「……平気。ありがとう草太」
「立てるか?」
 顔を上げると、目の前に草太の手が差し伸べられていた。桜斗を見つめる、真摯な黒い瞳。
 ――大丈夫。これからは俺がずっと、桜斗のこと守るよ。何があっても。
 3年前の出来事を打ち明けた時、彼はそう言って桜斗を抱き締めてくれたけれど、心のどこかで人を信じることに怯えている自分がいた。
 でも、草太は。この手だけは、信じてもいいのかもしれない。
 桜斗は自ら手袋をはずすと、差し出された手に手を伸ばした。

「今朝早くにあった人身事故の影響、すごいね」
「ああ……この間の駅だ」
「自殺じゃなかったらしいよ。誰かが突き落としたんじゃないかって」
「……死んだかな?」
 被害者を悼み、突き落とした犯人を恐れて言ったのに、揶揄するような草太を桜斗は軽く睨んだ。草太は気付いた様子もなくあくびをしている。今朝はやることがあって朝が早かったらしい。
「そういえばあの日……何で同じ電車に乗ってたの? 確か、草太は教習所に行くはずだっただろ」
 草太は首を傾げ、
「……何だったかな。桜斗がピンチだって、虫の知らせかも」
 真剣な顔で言うので、桜斗は吹き出した。
「何だよ、それ」
 もっとも、その知らせがなければ自分はどうなっていたことか。思うと、笑ってもいられない。
「まぁいいだろ。こうしてちゃんと免許も取れたことだし、痴漢も人身事故も俺達にはもう関係ないさ」
 桜斗にヘルメットを投げ寄越しながら、草太はいつものように少し子供っぽく口を尖らせる。
「そうだね。本当に何でもできちゃうんだな、草太は」
「うん。桜斗のためならね」
 にこりと笑う草太に、桜斗もつられて微笑んだ。

2016/10/02


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