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五月のよわね


「だいぶ暖かくなってきたね」
 桜はとうに散って、木々には新緑が芽吹いている。爽やかな涼風のキャンパスを歩きながら、桜斗はすぅ、と気持ち良さそうに息を吸った。
 その隣を歩いているのは草太と春日だ。
「草太の誕生日らしい、いい天気」
「俺が生まれた年の5月15日は大雨だったって聞いたけど」
 そうなの? と、桜斗は目を瞬いて、それから声を立てて笑う。
 春が過ぎてから、桜斗は元気だ。無理をしているという風でもなく、聞けば草太が桜斗の誕生日にあげたサシェが、お守りとして作用しているという。ただの香り袋にそれは大袈裟だと草太は思ったが、それが嘘でも、桜斗が健やかなら構わない。
 桜斗は草太の誕生日プレゼントに、1枚のCDをくれた。それには、桜斗が歌うThe Beatlesの「Let It Be」が収められている。
 中学生のコンクールで銀賞をもらったという歌を聞きたかったのだ。桜斗は恥ずかしがり、嫌がったが、草太は少し無理を言って所望した。


And whenthe broken-hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be

この世界を生きる傷ついた人々が
心を1つにしたら
答えはきっと見つかるはず
大丈夫、これでいいんだ



 草太が知っている桜斗の歌声は、小学生の時のボーイ・ソプラノだけだったが、初めて聞く今の、20歳になった桜斗の歌声もとてもきれいだった。透明感があって、震えるようなビブラートが耳に心地好い。自宅のパソコンで収録したものだから、音響は粗雑なものだったけれど、それでも草太はそのプレゼントを心底喜んだ。
 でも――耳の奥に桜斗の歌声を思い出しながらも、明るい日の下で微笑む桜斗の顔を見られることが、草太にとっては1番のプレゼントだ。
「しかしこう天気がいいと花粉が……あれ、そういえば冬月、今年は花粉症平気なのか?」
 春日が目をこすりながら言う。
「あ……えーと、」
 口ごもる桜斗を横目に、草太は春日に肘鉄を食らわした。
「うぐっ……! いってぇな、何すんだ秋山!」
 1年前、桜斗がマスクに手袋の完全防備で通学していたのを不審がる春日に、草太はこっそりと、花粉症とは異なる本当の理由を打ち明けていた。
 それを本気で忘れていたのか否か、春日は小突かれた脇腹を押さえて呻いている。悪気がないならなおさらタチが悪い。思い、そのまましばらく苦しんでろ、と草太は嘆息した。
 隣を歩いていた桜斗が立ち止まる。
「……あの、さ。俺、実は花粉症なんかじゃないんだ」
「え?」
「……桜斗、」
「本当は自臭症っていって、気持ち的な病気なんだけど……それで、マスクとか手袋つけてて。うまく説明できないから、花粉症ってことにしてたんだ。その……ずっと嘘ついててごめん、春日」
 律儀に頭を下げる桜斗に、春日は目をぱちくりとさせて、それからぱっ、と明るく笑った。
「なんだ、そうだったのか。あれからマスクとかつけてないけど、もう平気なのか?」
「うん。というか、まだ努力してる途中だけど。ちゃんと治すつもりでいるから」
「そっかぁ。偉いな、冬月は」
 春日はてらいもなく、大きな手で桜斗の頭をポンポンと撫でた。一瞬、桜斗は首を竦めて緊張したが、おとなしくそれを受け入れる。じょじょに紅潮していく桜斗を面白がって春日がしつこくするので、草太はまた春日の脇腹に肘鉄を見舞った。
 照れ隠しだろうか、桜斗は早足になって2人の先を行く。
「イッテテ……、へへ、けどよかった」
「何がだよ」
「冬月が自分から話してくれて。病気のことは俺にはよくわからないけど、すごい進歩なんじゃないか?」
 春日は草太にこそりと耳打ちして、にかっと笑う。
 草太は虚をつかれた。こいつ――やっぱり忘れていたわけじゃなかったんだ。待っていたのだ、桜斗が自分自身の口から病気のことを語るのを。
 勘が鋭いがそれで人を貶めず、思いやり深い。春日は桜斗からもこうして信頼を得て、友人の輪の中に入ってきた。本当にいいヤツなのだ、春日という男は。きっと、桜斗にとってもこの関係は好ましいことだと思う。
 それなのに――胸が、ざわつく。
 草太とて、あの事件の被害者のひとりだ。いまだ神経過敏になっているところもあるし、自分の中にいつでも牙を剥く凶暴な獣を飼っていることも自覚している。しかしその獣が、見境をなくしたら?
 桜斗のためだったら何だってする。実際にあの日からずっと、その誓いを守ってきた。
 桜斗を傷つけた者達には制裁を加え、少しも後悔などしない。それでも、草太の胸の中に燻ぶる怒りと憎しみの炎は消えなかった。どうしたって、桜斗のこうむった苦しみには釣り合わない。草太は見てしまったのだ、大切な人が怯え竦み泣きじゃくる顔を。聞いてしまったのだ、震え喘ぐ悲痛な叫び声を。
 春日の手がいつか、桜斗を傷つけるんじゃないか。そんな妄想まで抱いている自分がいる。そしてそれは少し、嫉妬にも似ていた。
 草太は自嘲する。
「……なぁ、春日」
「ん?」
「いつか言ったよな。桜斗に変なちょっかいかけたら、お前でも……って」
「あ、ああ……言ってたな。いきなりそんな脅しってあるかよ、」
「あれ、冗談じゃないから」
 笑っていた春日がピタリと表情を強張らせる。
「……え、」
「俺、時々自分が抑えられなくなる。それが法的に、倫理的にどうかを問うよりも前に、手が動いてるんだ」
 ネクタイで首を締め、ホームから人を突き落とした手。自身の衝動が直結したその2本の腕を意識しながら、草太はぽつりぽつりと話す。
「でも多分、もしお前にそれをしたらきっと俺は後悔するし、桜斗も悲しむから。俺がおかしくなった時にはお前が止めてくれ」
「……秋山、お前……お前らは、」
 春日の眉間に疑問の皺が寄る。きっと、春日から見れば草太と桜斗の関係は奇妙だろう。蜜月のように寄り添う、手負いの獣。
 桜斗を守ると言いながら、彼がいなければ生きていけないのは自分の方だと草太は思う。いつまでも必要とされたい、けれど今のままでは、お互い腐っていくだけだ。桜斗が幸せに近付くためには、自分は彼から離れた方がいいのかもしれない。


For though they may be parted
There is still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be

離ればなれになる日が来ても
また会える日は来るはず
答えはそこにある
大丈夫、これでいいんだ



「……俺、やっぱりバスケサークル入ろうかな」
「秋山、」
 それが純粋な思いから来るものでないことは、勘のいいこの男ならすぐにわかっただろう。気遣わしげな春日の視線から逃れるように、草太は木陰の下で待つ桜斗の方に駆けて行く。
「学食、閉まっちゃうよ。春日も早くおいでよ、」
 声を張って呼ぶ桜斗に、やや神妙な面持ちのまま春日が歩いて来る。桜斗は不審がり、
「……何の話してたの?」
 小首を傾げた。草太はにっこりと笑い、ないしょ話、と嘯いた。


And when the night is cloudy
There is still a light that shined on me
Shine until tomorrow
Let it be

厚い雲が空を覆う夜でも
僕を照らす光がある
明日まで輝き続けるから
大丈夫、これでいいんだ


2016/11/05


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