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リバイバル


 映画が始まって10分もしないうちに、膝の上に置いていたスマートフォンを落としてしまった。
 革靴の裏を臙脂色のカーペットに這わせるが、硬いものに当たる感触はない。勢い、前の座席を蹴ってしまい、座っていた客の頭が揺れた。……終映後でいいか。
 俺はそう思って腕組みすると、スクリーンに集中することにした。
 映画は2時間にも満たない小品だったが、俺はすぐに落とし物のことなど忘れて物語に没入していった。
 死んだ恋人を想いながら、独身貴族を貫く中年男の人間ドラマ。主人公の丸めた背中の寂しさは、俺によく似ていた。
 俺もまた、惚れた相手に2度と会えなくなって、すでに20年が経つ。喪失歴はこの男より俺の方が先輩だな、などと心中で苦笑した。
 20年前からすでに古びていたこの劇場は、懐かしの名画を繰り返しリバイバル上映している。一律1000円で指定席も入れ替えもないから、1日中居座れば続けて4本まで観ることができた。
 当時高校生だった俺は1人でここに来ては、刑務所を脱走したり、タイムマシンに乗って時間旅行をしたり、碧眼の美しい女性と恋に落ちたりしたものだ。
 そしてある日、俺は好きだった人をこの劇場に誘った。

 上映時間になっても来ない相手に気を揉んで、ロビーを何度行き来したことか。
 日頃の俺の振る舞いで、好意を悟られてしまったのではないか。いよいよ映画に誘われて、愛の告白をされることを恐れて逃げ出したのではないか。そんな妄想が去来して、居ても立ってもいられなかったのを覚えている。
 けれど結局俺はその日、1人で映画を観て、とぼとぼと帰路に着いた。携帯電話もなかった当時、訃報を知ったのは翌日学校に行ってからだ。
 この劇場に向かっている途中の道で、工事現場のトラックから積荷が転がり落ち、それを避けようとした乗用車に轢かれた。頭を打って、即死だったという。

 それから後の20年間、俺は何人かと付き合ったが、身体を合わせる度に必ず、あの形容し難い淡く切ない気持ちを思い出し、比べていた。当時、肉欲を抱いていたのかは、今はもうよくわからない。ただ、会いたいとこんなにも強く思う人は、他にいなかった。
 17歳の恋は劇薬だ。喉を焼いたあの恋がずっと忘れられない。大袈裟な出会いでもなかったし、ロマンチックな思い出があったわけでもない。何気ない仕草が、笑みが、眠そうな目が、愛しかった。
 けれど俺は、同性である彼に想いを打ち明けることはとうとうできなかったのだ。
 この映画を観るのはあの日ぶりだ。初めて観た日は途中からだったうえに、ほとんど上の空で内容は記憶にない。以降、なんとなく見るのが怖くて避けてきた。
 スクリーンの中で男が泣きながら息を引き取り、静かにピアノの旋律が流れると、エンドクレジットが始まる。
 いつからだろう、俺の頬には滂沱の涙が溢れていた。何に共感したのか、自分でも謎だ。ただ、とてつもなく深い喪失と孤独を今更のように突きつけられ、彼のいない世界に絶望していた。

 場内が明るくなり、幕が閉まる。少ない観客がぱらぱらと出口を目指す。俺はのそりと立ち上がると、手の甲で涙を拭いながらそれに続こうとした。
「……あの、」
 同じタイミングで前の席に座っていた客が立ち上がる。声をかけられたが、俺は咄嗟に気づかないふりをしようとした。きっと上映開始前に座席を蹴ったことへの苦情だろう。中年のやもめ男が1人で泣いている姿はみっともなく、明るいところでじろじろ見られるのは敵わないと、俺は無視して足を速めた。
「待ってください、落とし物です」
 言われて、俺は胡乱げに振り返った。そして、目を瞠った。
 そこには、大学生くらいの青年が立っていた。そしてその容貌は──彼に、そっくりだった。
 差し出す手には、俺のスマートフォンが握られている。
「これ、」
 俺は青年の手元を無視したまま、まじまじと顔を見つめた。
 彼と死に別れたのは17の時だが、青年の相貌はそれからちょうど3、4年の時を経た感じだ。記憶の彼より、少し大人びている。
 右目だけが二重で眠そうに見えるのに、左目は奥二重で鋭い。授業中、居眠りをしていたのかとよくからかった。それから、頬に2つある特徴的なほくろ。髪型や服装こそ現代風だが、まさにタイムスリップしてきた彼、に見えた。
 俺は懐かしさに、思わず青年を抱き締めてしまいそうだった。また涙が込み上げてきて、片手で顔を覆う。
「……あの、」
「すまない、ありがとう」
 俺は早口に言って、端末を受け取る。青年は怪訝そうにしていることだろう。早くこの場を立ち去るべきだ。
 俺は青年に背を向ける。1歩踏み出した時、待って、という大きな声と共に、上着の裾を強く引かれた。
 俺は、何かの予感に打ち震える。
「……久しぶり──だよ、ね」
 恐る恐る、ゆっくりと振り返った。青年は伺うように俺を見つめ、口元に笑みを浮かべる。
「やっと見つけた」
「……え、」
「ずっと貴方を、……お前を、探してたんだ。20年間、ずっと」
 青年の容貌は、ちょうど20歳くらいに俺には見えた。生まれてからずっと、俺のことを?
「……君は一体、」
「待たせてごめん。あの日、約束の時間にここに来られなくて」
「そんな、──……あり得ない」
 確かに俺は20年もの間、同じ人を想い続けるセンチメンタルな男だ。でも、そんな人間に対してこのジョークはあまりにも酷過ぎる。この青年が、彼の生まれ変わりだなんて。
 俺は首を緩く振りながらも青年の肩を掴み、引き寄せ、ぎゅっと胸に抱き締めていた。
 すっぽりと収まる薄い身体は温かく、むしろ俺を包み込んでくれるように感じる。俺はおとぎの国の儚い愉悦を掻き抱くように、彼の頬に頬を合わせた。
「ずっと、──ずっと、会いたかった」
「俺も。お前がここに誘ってくれた時、本当に嬉しかった。楽しみにしてたんだよ、この映画」
 彼が穏やかな声で、言い聞かせるように囁く。俺はまた涙が止まらず、堰を切ったように溢れ出す言葉をそのままにした。
「ちくしょう、俺の台詞だ! ずっとだ、お前に会いたかった! お前に会えない世界なんていらない、夢ならこのまま眠らせていてくれ!」
 彼の手が優しく俺の背中を撫でる。
「この20年、俺には別の人生があるんだ。でも、まるでその生活の方が夢の中みたいだった。俺は眠る度に、この町に来たよ。お前と一緒に学校で過ごした。昨晩、映画を見に行く約束をしたんだ。……夢で見たよりずいぶん老けたけど、すぐにわかったよ。今、やっと長い長い夢から目が覚めたみたいだ」
 彼は顔を上げると、寝ぼけたような目を細める。
「俺も、お前に会いたかったよ、ずっと」
「好きだ。俺は、お前のことがずっと、好きだったんだよ」
 あの時言えなかった言葉。彼は微笑み、目を閉じる。俺は少しだけ屈むと、緩い弧を描く唇に自分のそれを寄せた。心も身体も、彼を求めてやまなかった。まるで欠けていた半身を取り戻したみたいに。
 入口で買ったチケットが、異世界への切符でも構わない。彼と一緒にいられるのなら、どこへだって行こう。俺達は何度だって出逢い、何度だって恋に落ちよう。
 場内は再び暗転する。次の幕が、開こうとしていた。

2016/11/12

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