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橙色の記憶


「お前まだ彼女いないの?」
 ハタチよハタチ、とからかわれて俺はむっとする。
「顔はそう悪くないのに。理想が高いとか?」
 地元の仲間で集まっては、安居酒屋で他愛もない話をしている。お互い小便たらしてるような頃から知り合う仲だけど、俺にはこの場にいる誰にも打ち明けていない記憶があった。
「お前、誰が好きって噂も聞いたことないよね。昔の話でもいなかった?」
「……気になってた人ならいたけど」
 おおっ、と場がどよめくが、続く言葉はみんなの期待を裏切るものだ。
「兄貴の同級生だからお前らに名前言ってもわかんねーよ」
 俺と兄は5つ違い、俺達が小1の時は小6。中学で兄の同級生になったあの人は、俺達とは学校生活が重なっていない。
「どんな人? お兄さんと仲いいの?」
「うん。兄貴、中学入った時ちょっと荒れててさ。不良とつるむタイプじゃなかったけど、一匹狼っていうか……どっか危なっかしくて。でもその人と知り合って変わったんだ」
「ふーん。じゃあお前はお兄さんの彼女に横恋慕しちゃったわけだ」
「は? なんでそう……」
 言いかけて、はたと我に返る――そうか、普通は「彼女」だと思うよな。
「兄貴とその人は付き合ってない。ただの親友だよ」
「え? でもお兄さん、その人にいい影響受けたんでしょ。なんで付き合わないの?」
「兄貴も高校入ってすぐ彼女できたし」
「その人はお兄さんのこと好きじゃなかったの?」
「……さぁ」
 俺は夕焼けに染まる部屋と、そこに浮かび上がるシルエットを思い出す。
「今でも交流あるの? お兄さんとその人は」
「まぁたまに会ってるみたいだけど」
「変なの。本当に何もないわけ? あっやし〜」
 囃す声が煩わしくて、俺は手にしていたジョッキを煽る。プハ、と一息して、
「兄貴、もうすぐ結婚するんだよ。それで式のスピーチをその人に頼んでるから、打ち合わせで最近よく会ってるらしい」
「でもさ、それきっかけで愛が燃え上がり……なんてことも!」
「ドラマの見過ぎだ」
 俺は残っていたビールをくっと飲み干した。

 彼が初めてうちに遊びに来たのは俺がまだ小3の時。学校帰り、学ランで兄と一緒に階段を上がってきた彼はどこにでもいるような中学生だったけど、難しい年頃にしては愛想よく俺にも声を掛けてくれた。
「兄ちゃんから話聞いてるぞ。よろしくな」
 頭をポンと撫でられて、俺は恥ずかしがりながらも嬉しかった。兄はあまり俺を構うタイプじゃなかったし、中学生に名前で呼んでもらえるのは誇らしかった。
 俺が一緒に部屋にいるのを兄は嫌がったけど、彼は「いいじゃんか」と言って俺も部屋に入れてくれた。2人は大抵ゲームをするか漫画や雑誌を読むかしていて、俺はその2人の空気を壊さないように部屋の隅っこで様子を伺っていた。それだけで一丁前扱いされてるみたいで気分がよかった。
 兄は元々お喋りってタイプじゃない。家でも俺なんか話し相手にならないって感じでほとんど無視されてるようなもんだった。でも彼といる時はいくらか朗らかで、俺にもおやつを分け与えてくれた。彼は兄の笑顔を引き出してくれる。彼のそんな柔らかくて暖かい雰囲気が、俺は大好きでよく懐いた。

 ある日、学校から帰ると玄関に彼の靴があった。俺は2人を驚かせようと思ってソロソロと階段を上り、物音を立てないように注意しながら部屋のドアノブをそっと捻った。細く開いた扉の隙間から中を伺って、俺は目を瞠った。
 夕日を受けたレースのカーテンが部屋に橙の光を刷く。兄はその黄金色のベッドに仰向けに横たわっていた。
 兄は大して夜更かしでもないくせに眠たがりで、友達が遊びに来ていても1人で寝てしまうことがよくあった。その間、彼は構わず雑誌を読んだり、俺の相手をしてくれたりした。
 けれどこの時、彼は兄の顔を覗き込んでいた。2つの影はほとんど重なり、1つになろうとしている。
 何をしているんだろう、何を――驚かそうという初心を忘れて前のめりになっていた俺は、うっかりノブを離してしまった。カチャ、と鳴った小さな音に、弾かれたように彼が振り返る。ポカンと口を開けている俺に、彼は小さく「あ」と言って、すくと立ち上がると俺の横をすり抜け言った。
「……ごめん」
 窓の外、ガチャン、と自転車のスタンドが外れる音で兄は目を覚ました。ゴシゴシと目元をこすりながら、「……あいつは?」寝呆けた声で問うのを俺は無視して、自室に引っ込むとベッドの中に潜り込んだ。俺は自分が取り返しのつかない過ちを犯したように思えて、わけのわからない悔しさで胸が苦しくなったのを覚えている。
 彼は兄に指1本触れてはいなかった。けれど振り返った彼の顔が真っ赤に見えたのは、あの夕日のせいだろうか。
 それからも彼は時々うちに遊びに来たが、ずいぶんと頻度は減ったし、俺に対してどこかよそよそしくなった。俺に向ける臆病な瞳は、兄にあの時のことを告げていないかと探っているように見えた。でも俺は何も言わなかったし、当然兄の彼に対する態度も変わらなかったはずだ。

 高校生になった兄に、初めての彼女ができた。兄の部屋には友達よりも恋人の訪問が増えた。俺は兄が彼を裏切っているように感じたし、硬派だと思っていた男が急に下品な人間になったように思えて距離をおいた。
 兄はその後、大学生の時に付き合い始めた彼女を婚約者として親に紹介した。俺はその時でさえ、このことを彼は知っているんだろうかと考えていた。
 俺は元々恋愛に熱くならないタイプなんだとは思う。友人の恋愛談義を聞いていても、どこか空々しい気持ちになった。好きな人を問われる度に彼の顔が浮かび、自分はゲイなんだろうかと疑ったこともあるけど、彼に対して性的興味を抱いているわけじゃない。
 ただ、彼が兄に向けていたあの優しい目が大好きだった。俺じゃなくて、兄の隣にずっといて欲しいと思うこの気持ちはおかしいんだろうか。

「なぁお前、あいつのこと覚えてるか?」
 社会人になった兄が不意に出した彼の名前に心臓が跳ねた。俺は白々しく忘れたフリをして話の続きをせがんだ。
 2人は高校卒業まで親しんでいたが、大学に入るとさすがに疎遠になった。彼は海外に留学していたらしい。帰国後、連絡が取れた時には恋人がいると話していたそうだ。
 突然耳にした彼の近況に俺の胸はズキリと痛み、戸惑った。俺のこの想いの正体は何なんだろう。彼が誰かのものになっていることに、こんなにも傷付く。
 兄は彼に結婚式のスピーチを依頼したことを俺に話した。兄は幸せそうだったが、頼まれた彼はどんな気持ちでいるだろうと考えて胸が塞いだ。
 俺が彼と再会するのは、来月の結婚式場になるだろう。彼は俺を覚えているだろうか? あの橙色の窓辺の出来事は、彼の胸の中で今は何色の記憶になっているだろう。

「なーに、物思いに耽っちゃって。近くにいるなら告っちゃいなよ」
 友人の声にふっと現実に呼び戻される。居酒屋の喧騒。手の中の空のジョッキは温んでいる。
「……そういうんじゃないんだ」
 そういうんじゃない。
 橙色の記憶は今も俺の胸の底をほの朱く照らし、2つの影を浮かび上がらせていた。

2017/09/03

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