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フーリエの恋愛実験


 とうとう、した。カビ臭い部屋の暗がりの中で……先生と、キスを。
 頬が熱い。微かに足が震える。立っていられなくて、僕はホルマリン漬けのビーカーが並ぶ棚に背を預けてずるずるとしゃがみ込む。
 きっと、今日はそういうことをするんだろうと思っていた。何故って今日は、先生への想いを認めてもらってから、ちょうど1年目の日だから。

 授業が終わって、掃除の時間が終わって。校舎から人気が引くのを待ったけど、校庭でバレーをしてる連中はなかなか帰ってくれない。といっても、理科準備室があるのは4階の隅だから、きっと誰も覗きになんて来ないけど。それでも、窓の外から聞こえる同級生の快活な声に少しだけ後ろめたくなる。
 猫背になりながら日誌の確認をする先生のつむじを見下ろす。チョークで薄汚れた白衣の裾。茶色い健康サンダル。僕は緊張して、そんなところばかり観察した。
 先生は僕のそんな落ち着かない気持ちを見透かしたのか、眼鏡の奥の目を細めて僕の手を握ってくれた。
「指先が冷たくなってる。緊張しているのかな」
 先生のあまり抑揚のない声を、女子は素っ気なくて怖いと非難していた。それでいい。先生の優しい声色を知っているのは、僕だけで。
「人は緊張するとアドレナリンを分泌する。交感神経が刺激されて毛細血管が縮まるんだ。そうすると、身体の末端に巡る血液が制限される。だから手足の先が冷たくなる。それから心拍数も上がって、呼吸も浅く、速くなる」
 理科の授業中みたいに、先生は淡々と説明する。僕の身体は先生の説明の通りの反応を見せていて、それこそ皮膚の下まで見透かされているみたいで恥ずかしくて堪らなかった。
「でも、血色は悪くないようだ」
 先生は僕の顔を覗き込んで微笑む。きっと僕は首筋まで真っ赤になってたんだろう。
「今キスをするのはやめた方がいいかな?」
 悪戯っぽく、試すみたいに言われて僕は息を飲んだ。そんな、急に。心の準備が。口から心臓が出そうになりながらも、僕は何か言わなきゃと思って声を絞り出す。
「し……て、欲しいです。したいです、キス、先生と」
 語順がめちゃくちゃだった。バカ丸出しなのが情けなくてほとんど涙目だったけど。
 先生の手が伸びてきて、やや屈んだ僕の顔を包む。僕は眼科検診みたいに顔を覗き込まれて焦点が合わなくなる。先生の唇が薄く開くと、僕の半開きの口を覆った。
 唇を甘噛みするみたいに、きゅ、と吸われて、僕はどうしていいかわからなくて変な中腰のままおとなしくしていた。
 すぐに先生の顔が離れて、また正面からまじまじと観察される。
「……可愛いな」
「……ぇ、」
「君のことが本当に可愛い。教師がこんなこと、いけないってわかってるが」
「先生、僕――僕は、」
 頭もよくないし、顔だってそばかすだらけで。先生がこんな僕を受け入れてくれるのが本当に不思議で、時々怖くなるからなるべく深く考えないようにしていた。からかわれてるとか、遊ばれてるとか、姉に借りて読んだ少女漫画で得た知識はいろんな仮説を訴えてくるけど、心はそれに抗う。
 だって、こんなにも。
「僕は――先生のことが大好きです」
 言うと、先生はガタン、と椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり大きな手を僕の腰にまわした。ぐっと強い力で支えられ、僕は少し背伸びする。
 近付いてきた先生の顔が斜めになって、僕の唇を割り開く。さっきよりも少し乱暴に、口の中にぬるっと熱いものが入ってきて、びっくりした僕は目を見開く。いつもより力強い先生の手がちょっとだけ怖かったけど、恐怖だけじゃないものが僕の心臓を激しく打った。バクバクと太鼓のように鳴る音がうるさい!
「ふっ……ん、……ぅ、ん……!」
 必死に鼻から息をする。舌と舌が絡むのが変な感じなのに気持ちよくて、見開いていたはずの目は自然と瞼が落ちてきた。
 先生の熱い手の平が僕の首筋をきゅっと押さえる。僕は実験用のマウスにでもなったような気分だった。先生が今、手の平にもっと力を加えたら、僕の首は簡単に折れるんじゃないかって。そんな想像をしている時にちゅう、と舌を吸われてゾクゾクと鳥肌が立って、身体が熱くなった。
「ふっ、ん……! は、ぁ……っん、」
 ちゅ、ちゅ、と唇から音が漏れる。先生の白衣にしがみついた手が震えて、強く握り過ぎてしまう。先生の力もどんどん強くなって、僕は机の縁に腰を押し付けられると、そのまま解剖台の上に挙げられた蛙みたいに仰け反った。
 先生の顔がまた離れる。
「せん、せ……、」
 はぁはぁと息が上がっていることに自分でも驚いた。
 先生は僕を見下ろしながら、ゆっくりと眼鏡を外した。
 眼鏡を掛けていない先生を見るのは2度目だった。前にも掛けてないところが見たいと駄々をこねて外してもらったことがあるけど、先生は嫌がった。視力が悪いから、睨んだみたいな顔になるんだと言う。実際そうだったけど、あまり感情を見せない顔がきゅっと険しくなるのがカッコよくて、それを見られたくないところが可愛かった。
 先生の険しい目が、僕を睨む。こういう表情をしてるってことは、多分僕のことはよく見えていないんだろうけど、ドキドキする。僕は少しマゾなのかもしれない。
「先生……もっと、して」
 強請るように両手を伸ばすと、先生はゆっくりとその手を掬いながら、今度は優しく、丁寧に口付けてくれた。冷たい眼鏡のフレームが僕達を邪魔しないのが嬉しい。
「ん……んぅ、ふっ……」
 気持ち好い。キスって、こんなに気持ち好いんだ。
 先生ともっとすごい……ことをしたら、僕はどうなってしまうんだろう。想像も及ばないことに一瞬思考が流れて、怖さもチラつく。
 今はまだ、この唇の味を覚えるだけで精いっぱいだけど。もう少し大人になったら、きっと。
 そっと唇を離すと唾液が糸を引いた。僕は潤んだ目で先生を見上げる。
「先生……僕、この1年間すごく幸せでした」
 一瞬、先生の表情が固まる。また睨まれていたけど、僕はその表情がなんだかおかしくてふふ、と笑った。
「僕が大人になるまで、もう少し待ってもらえますか?」
 先生の耳元で囁くと、先生は呆然としたような顔でゆっくりと何度も頷いて、軽く目元を拭った。
「なんだ、驚かすなよ……終わりにしようって言われるのかと思った」
 思いもよらない先生の呟きに、僕は目を丸くして、それから大好きな先生をぎゅうっと抱き締めた。

 僕達を夢から覚ましたのは、先生を職員室に呼ぶ校内放送だった。先生はあたふたと髪の毛を手櫛で整えると、急に教師の顔で「気を付けて帰れ」と素っ気なく言って部屋を出て行った。
 予想、実験、結果。トライ・アンド・エラー。理科の基本だ、と先生は授業で言った。先生はまだまだ僕の予想を裏切った結果を示してくれる。
 ある時は僕の希望的観測を裏切るかもしれないし、変質や爆発を起こすことも、破裂や溶解をしてしまうこともあるかもしれない。それでも僕は、心の中で擦ったマッチの灯火を恐る恐る先生に近付ける。
 僕の身体からはまだ熱が去らない。
 視線を感じてふと顔を上げると、人体模型が無表情に僕を観察していた。

2017/09/14

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